連載「斎藤佑樹、野球の旅〜ハンカチ王子の告白」第48回

 プロ4年目の2014年、斎藤佑樹は二軍の試合で投げながら復調のきっかけをつかもうとしていた。6月7日には室蘭でベイスターズの二軍を相手に、それまでとはまったく違うピッチングを見せた。ストライクゾーンで勝負を挑み、ワンバウンドは97球のうち8球。そのすべてが慎重になっての置きにいったワンバウンドではなく、腕を振りきってのワンバウンドだった。


785日ぶり勝利を挙げ栗山英樹監督(写真左)から祝福を受ける斎藤佑樹 photo by Sankei Visual

【ピンチに真っすぐで勝負したい】

 あの日は手応えのあるピッチングができました(7回を投げて2失点)。ストライクを先行させることと、ストライクゾーンの真っすぐで勝負すること。その2つをテーマに、どちらについてもいい感じで投げられていたと思います。

 なぜそういうピッチングができたのかと言えば、ど真ん中でも打たれるとは限らない、と思えたことが大きかったと思います。打たれたくない、打たれちゃいけないと考えすぎて、慎重になってしまっていた。

 でも、ど真ん中に投げても、バッターが振らなければストライクをとれるし、振ってきても打ち損なえばアウトをとれるんです。技術的には何も変えなくても、考え方を変えれば勝負できるのかと思ったら、ワンバウンドのボールも質が変わってきました。

 大学までの僕は抑えることのほうが多かったので、打たれたとしても次のバッターを抑えることで上書きできていたんです。でもプロでは抑え方もバラバラ、三振も思うようにとれないし、自分がゴロアウトをとるピッチャーなのか、フライを打たせるピッチャーなのか、ピッチャーとしての特性を理解しないまま投げていた......こうやって投げたら抑えられるという自分なりの抑え方がわかっていなかったので、上書きできないまま、打たれた記憶だけが残って怖さだけが蓄積していった気がします。

 その後、遠軽での試合(7月5日)では、1カ月前には慎重になりすぎてワンバウンドを連発したライオンズ(二軍)を相手に、完璧なピッチングができました(5回、81球を投げて無四球、無失点)。

 ストライク先行で(打者18人に対してボールが2球先行したのは1人だけ、あとは2球目までにストライクをとっていた)、変化球に頼ることなく、ストレートで勝負できていました。ワンバウンドは何球か(7球)ありましたが、バットを振らせることもできていましたし、何よりもフォアボールがなかったことで、ストライクをポンポン投げることをバッターが嫌がる感じが出せていたと思います。

 それまではピンチになると変化球かツーシームに頼りたくなっていたのが、真っすぐでいきたいと思える自分になっていました。変化球を投げすぎて自滅することが多かったのは、真っすぐでいける状態なのに真っすぐでいかなかったのが自分の首を締める原因だったことにやっと気づいたんです。二軍でも一軍でもやるべきことは変えられない。だったら、一軍で勝てなかったらどうしようという気持ちになるのではなく、一軍でも二軍でも同じことをしようと肝に銘じることができました。

【プレートの踏む位置を使い分け】

 その1週間後(7月12日)、僕は一軍に上がって先発することになりました。相手はホークスで、札幌ドームは超満員です。二軍での3カ月でつくり上げてきたスタイルは、ストレートを軸にストライクゾーンで勝負すること。しかも、そのストレートをインコースへ投げ込みたいというテーマを持ってマウンドへ上がりました。

 そのために、1番の中村晃選手が左バッターボックスへ入った時、いつもは三塁側を踏んでいたプレートの真ん中を踏んで投げました。右バッターに対してはこれまでどおり、プレートの三塁側を踏んで、左バッターの時は真ん中を踏む......二軍の試合でも試してきたことではありましたが、左の長谷川(勇也)選手、柳田(悠岐)選手にもプレートの真ん中を踏んでインコースを攻めました。柳田選手の時は初球、インハイのスライダーを投げてファウル、膝元のボールゾーンに真っすぐを1球見せてからインハイへストレートを投げたら、ファーストフライに打ちとることができました。

 プレートを踏む位置を変えてみようと思ったのは、ふとしたきっかけからでした。室蘭で投げた直後、利府(宮城)でのイーグルス(二軍)戦(6月15日)で投げた時、そうせざるを得なくなってしまったんです。

 室蘭でつかんだ真っすぐの手応えをたしかめようと思っていたら、思いきって踏み込むことができなくて......それは、イーグルスの先発が(トラビス・)ブラックリー投手だったからです。彼は大きな体躯を生かして上体のパワーで投げるタイプのピッチャーで、左投げなのにプレートの三塁側を踏んで投げていました。

 その彼の右足が踏み込む位置が、ちょうど僕の左足が踏み込む位置と重なってしまっていたんです。ブラックリー投手の歩幅が狭いうえに、利府のマウンドの土が柔らかかったことも重なって、僕が踏み込むところが掘れてしまって、巨大な深い穴ができていました。それが気になって、腕を振るのが怖かったんです。

 最初は思いきって踏み込まずにそっと投げていたんですが、こんなふうにしか投げられないならと踏み込む位置を変えたら、バッターが意外な反応をしました。プレートの真ん中を踏んで投げたら、とくに左バッターが打ちにくそうにしているんです。インコースのストレートがいい角度で決まる感じがあったので、これはもしかしたら効果があるのかな、と思いました。

 その後の二軍の試合で右バッターと左バッターでプレートを踏み分けて投げてみたらいい感じだったので、一軍でも継続したというわけです。

【785日ぶりの白星】

 (7月12日の)ホークスとの試合は5回で交代となりました(78球、被安打4、与四球2,奪三振2、内川聖一に打たれたソロホームランによる1失点)。勝ちはつきませんでしたが、納得できるピッチングはできたと思います。

 いい緊張をつくれたというか、怖くてどうしようという緊張ではなく、自分で集中して、あえてつくりにいって、自分でコントロールしたつもりの緊張だったので、不安はまったくありませんでした。そんな気持ちで一軍のマウンドに立てたのは久しぶりです。こういうピッチングを続けていれば、いつか勝ちもついてくると思った記憶があります。

 プロに入った時から終始一貫、ストレートにこだわってきたはずなのに、勝つことから遠ざかっているうちに、いつしかその思いを忘れてしまっていました。ケガをしてからは身体を強くして、フォームを組み立て直して、速さではなく強さを求めてストレートを磨いてきたつもりでした。そのボールをストライクゾーンへ投げ込む勇気を持てないなんて、あり得ないことです。

 次の一軍での先発(7月31日)は千葉でのマリーンズ戦でした。その試合、僕は6回を投げて、本当に久しぶりの勝ち星がつきました(被安打6、与四球5、失点1、2012年6月6日以来、785日ぶりの白星)。

 1失点は(2回の先頭バッターだった)角中(勝也)さんに打たれたホームランでした。立ち上がりから毎回、ピンチを背負いましたが、それでも得点圏にいたランナーをひとりもホームへ還すことはありません。ストレートもスライダーもストライクゾーンに投げられたので、ボール球が2球続かないピッチングになりました。そうすると2−2の平行カウントをつくることができて、追い込んでからの変化球はバットを振らせることができます。あの日はそんなピッチングができていました。

 打線が6回表に逆転してくれて、3−1とファイターズがリードしたまま、9回裏を迎えます。ベンチでグラウンドを見つめながら考えていたのは、1年前のことでした。春のキャンプではまったく投げることができず、このまま野球ができなくなったらどうしようと不安な毎日を過ごしていました。

 久しぶり......785日ぶりだったかな? その勝ちがついた時、僕は苦しい時間があったから、この勝ちがあるんだと思えました。野球ができなくても死ぬわけじゃないけど、野球ができればこんなにいいことがある。その時は苦しいと思っても、あまり入れ込みすぎちゃうと、自分を追い詰めることになるんです。立ち止まることも大事なんだと痛感しました。

*     *     *     *     *

 785日ぶりの勝ち星に笑みを浮かべた斎藤は、お立ち台でこう言った。

「プロ1年目、最初の相手がロッテだったんですけど、その時はこんなに簡単に勝てるものなんだと思っていました。でも今日は本当に苦しかったし、あらためて野球の難しさを感じました。これから僕の第二の野球人生が始まります」

 勝つことの難しさを知らなかった第一の野球人生は終わった。そして、勝つことの難しさを知る第二の野球人生が始まった。しかしプロ4年目を終わって始まったこの「苦しい野球人生」は、まだほんの序の口にすぎなかった──。

次回へつづく


斎藤佑樹(さいとう・ゆうき)/1988年6月6日、群馬県生まれ。早稲田実高では3年時に春夏連続して甲子園に出場。夏は決勝で駒大苫小牧との延長15回引き分け再試合の末に優勝。「ハンカチ王子」として一世を風靡する。高校卒業後は早稲田大に進学し、通算31勝をマーク。10年ドラフト1位で日本ハムに入団。1年目から6勝をマークし、2年目には開幕投手を任される。その後はたび重なるケガに悩まされ本来の投球ができず、21年に現役引退を発表。現在は「株式会社 斎藤佑樹」の代表取締役社長として野球の未来づくりを中心に精力的に活動している