39歳でがんに「76歳芸人・おばあちゃん」の人生観
71歳で芸人の道を目指した「おばあちゃん」だが、実は47歳とのときに大学に入り、学会で発表したこともあるという(撮影:尾形 文繁)
吉本興業に所属する芸歴5年目、76歳の“若手芸人”「おばあちゃん」。今年6月から「神保町よしもと漫才劇場」の劇場メンバーになってからテレビや舞台の出演も増え、注目を集めている。
そんなおばあちゃんだが、自らの人生が変わるきっかけとなった背景には5年にもわたったがんとの壮絶な戦いがある。一度は「明日はないかも」とも思ったおばあちゃんがえた「人生観」とは。
39歳でステージ4の乳がんに
――ところで、「おばあちゃん」。これしかない! というピッタリな芸名ですね。
NSCの頃に、前々から「芸名を考えておくように」と言われていたのですが、私自身は吉本の芸人としてデビューするなんてありえないと思っていたから、ぜんぜん考えていなかったんです。
そしたら、ある日の授業でホワイトボードに芸名を書かなきゃいけなくて。「わ、どうしよう……」とモジモジしていたら、後ろから男の子が「『おばあちゃん』でいいよ、『おばあちゃん』で!」って。その場で決まったんです。
――なぜ70歳を過ぎてからお笑いの世界にチャレンジしようと一歩を踏み出せたのでしょうか?
大きな出来事がありまして、39歳のときに乳がんが見つかったんです。しかも、ステージ4と診断されて。
半年ほど会社を休んで、手術で胸を全摘出したのですが、その後卵巣に転移していることがわかって、再度手術しました。その後も子宮に転移して……今は幸いにしてがんは緩解したのですが、一時期は5年ほど入院と退院を繰り返していました。
――かなり壮絶な闘病体験ですね。その出来事を経て、ご自身の人生をどう考えるようになりましたか?
「今日を楽しく生きよう」と考えるようになりましたね。特にがんが再発したときには「もう明日はないかもしれない」という不安が強くなって。主人も腹をくくって、私に「好きなことをやりなさい」と言って、私のやることは何でも受け入れてくれました。
ただ、一時期は「やりたいこと」の方向性を間違えちゃって。当時は給料が現金で支給されていましたから、給料日には横浜に出かけて靴やバッグ、コートなどにバーンと使っていました。「明日、この服を着られるかしら」と思いながら……あのときは自分でもどうかしていましたね。
そしたらある日、主人が「どんなに借金してもいいから、俺がぜんぶ責任を持つ。気の済むようにしなさい」と言ってくれた。それで「これではまずい」と目が覚めたんです。
それ以来、やりたいことをやるにしても、「人のために何かできないか」ということを、今後の人生のテーマとして意識するようになりました。それで、お金をコツコツ貯めて、47歳で放送大学に入学したんです。
楽屋で若手芸人と交流するおばあちゃん(写真:吉本興業提供)
47歳で大学生に、学会で論文を発表
――47歳で大学生に! それもまた思いきった決断ですね。
私は戦後のベビーブーム世代で、当時の女子の高校進学率は半々くらい。中学校の先生からは「奨学金もあるから」と進学を進められたのですが、親には「いや、受かったら困るから受けさせません」と言われて、高校に行かせてもらえませんでした。その悔しい思いがあったので、社会人になってから働きながら通信制の高校を出て、短大にも行きました。
――短大まで出て、そこから、さらに大学に行こうと?
「チャンスがあれば大学に行こう」という思いはつねに持っていたんです。でも、せっかく大学に入るのなら、単位を取るだけでは面白くない。世の中のためになるものを残したいと思って。私は乳がんの手術で胸を全摘出して、人工胸との摩擦に悩んでいたので、そのことを研究テーマにしようと思って放送大学に入学しました。
大学の教授も「これから乳がんは増えるし、いいテーマだね」と言ってくださって。「乳がん手術後の発汗と下着について」という卒業論文をまとめることができました。さらにその後、日本家政学会でも研究発表の機会をいただいて。
――なかなかできることではありません。
それこそ水一滴ほどでもいいから、世の中に何かを落とせたら、という思いで論文を書き上げましたね。
スクーリングの日は仕事が終わってから職場のある横須賀から横浜までバイクで駆け付けたり、論文の締め切り前日は教授の別荘に寝泊まりして指導をいただいたり……大変でしたけど、それ以上に「大学で学ぶ」というずっと持ち続けていた夢をかなえられたので、毎日学ぶことが楽しかったんです。
「楽しい」から苦しくても続けられる
――芸人になってからは、今度は新しいネタを書く作業に追われていると思いますが、ここまで諦めないでいられたのは。
単純に、好きだったからだと思います。「今日を楽しく生きよう」の気持ちでなんでも楽しんじゃうので。
それに、舞台に立って目の前にお客さんがいらっしゃるということ、そして笑っていただけるというのは芸人にとっては何にもまさる喜びです。私はまだ経験がありませんが、爆笑をとるとそれこそ気持ちいいでしょうね。
(撮影:尾形 文繁)
――コツコツとやり遂げることが、おばあちゃんの強みでしょうか。
子どもの頃からお笑いが好きだったし、大学にも行きたかった。どちらも昔は女性が「やりたい」と言い出せるような時代じゃなかったけど、それでも人生の「やりたいことリスト」の中にはずっと入っていたんですよね。それをかなえられたことが純粋にうれしいんです。
あとは、周りの人に助けられたからですね。卒業論文もお世話になった先生のおかげで形になりましたし、吉本では同期や先輩の芸人、NSCの講師、ネタを考えてくれた作家さんに支えられた。私一人ではとうてい実現できませんでした。
介護に携わる人たちを元気にしたい
――おばあちゃんの、これからの芸人としての目標はありますか?
老人ホームや介護施設などのお役に少しでも立ちたい、というのが最終的な目標としてあります。
私の兄も病気で失明してしまい、施設に預かってもらっているのですが、この間転んじゃって10針縫ったんです。そしたら施設の方が「すみません! すみません!」って平謝りで。でも、こちらとしてはすぐに処置していただいたので、感謝しかないのですが……。
一方で、今は預けたら預けっぱなしで面会にも来ない家族の方も多くて、何かあったら「お金を出しているんだから、ちゃんと見てくれないと困るじゃないか」って。そんな風潮がありますよね。
だから、介護に携わっている方に少しでも明るく元気になってほしいんです。もっと芸人としての力をつけて、いずれは老人ホームや介護施設を回ってネタやトークをしてみたいですね。
舞台で漫談をするおばあちゃん(写真:吉本興業提供)
――前向きな話を聞いていると、こちらが元気と勇気をもらえます。
そういえば、まだNSC生だった頃に、2泊3日の合宿があったんです。その宿泊先のホテルの従業員の方が、私が汗だくになりながら若い子に交じって稽古している姿を見て、手紙をくださったんです。「これからの人生の考え方が変わりました。今の仕事を続けようか悩んでいましたが、もう少し頑張ろうと思います」って。それが最初のファンレターです。少しでも、そんな元気を与えられるような存在になれるといいですね。
(堀尾 大悟 : ライター)