盒極木子が「私の陸上を返してよ」と号泣したロンドン五輪 リレーメンバーから本番直前に外され帰国後は「バトンが握れず走れなくなった」
5人目のリレーメンバーが
見ていた景色 郄橋萌木子 編(後編)
2012年ロンドン五輪に現地入りをしてから、最後に4×100mのリレーメンバーから外れてしまった郄橋萌木子。レース当日の話とともに、その後の陸上との向き合いかたや、その苦悩が今の彼女にどんな影響をもたらしているのか語ってもらった。
当時の辛さを消すことはできなくても糧にしていると語った郄橋萌木子 photo by Nakamura Hiroyuki
リレーメンバー発表後からは心に蓋をして、リレーのキャプテンとしての務めを果たすために、自分がやるべきことをやるだけだと意識した。郄橋が出なかったレースは、4走が一度出てから止まってバトンを受けるような形になり予選1組で44秒25の8位で敗退。
「予選はトレーナーさんと一緒にスタンドから見ていたんですけど、みんなが走っているときも泣いていました。それで3走と4走のバトンパスがダメだったのを大きなモニターで見た時は、『なんで、私の陸上を返してよ』って言いながら、めちゃめちゃ泣いていました。『これだったら私がリレーに出るわ!』みたいな感情でしたね。そこで張り詰めていた気持ちはきれてしまったんですよね。帰国してからはそんな自分が嫌いになり、『何かを変えたい』と思った結果、髪の毛を金髪にしてみたりしました」
少し休めば気持ちも元に戻るかと思ったが、そういうものではないことが、グラウンドに行って初めてわかった。
「いつもどおりに休んだんですが、グラウンドに入ったら自然と涙が出てきて、練習をしたいのに走れる状態ではなく『これは私、普通じゃないかも』と思いました。そのあとすぐに埼玉県の国体のリレー合宿があったんですが、バトンが握れなくて『これはおかしいぞ』って気づいたんです。
それで『すみません、今日は私、走れないです』と言ったら、『どういうこと?』みたいになったけど、私自身も理解できてない状態だったんです。そのあとバトン合わせを何とかやろうと思っても、耐えられなくて走ることさえできなくなりました。同い年で400mハードルの子が、私がひとりで芝生のところで泣いていたら『モモちゃん大丈夫?』と声をかけてくれて、『今、走れないんだよね。今日走ったら多分もう一生走れない。引退する』と言ったら、『それはコーチに言ったほうがいいよ』と言われて正直にコーチに話し、出場辞退の申請をしました」
【精神的に走れなくなってしまった】全日本実業団に向けて当時所属していた富士通の合宿に行っても一度も走れなかった。試合には出たが、200mは4位で100mは棄権。周囲から励まされれば励まされるほど苦しくなった。
「そこから陸上に拒否反応が出てしまったのか、練習が一切できなくて10月から3カ月間は気分転換になればとサッカーチームに行っていました。ロンドンで走れなかった悔しさはあったし、次のリオ五輪では走りたいという気持ちもあり、立ち止まるわけにはいけないと思ってとりあえず体を動かしていて、器具を使わないストレングス系のウエイトトレーニングをやったり、『リオ五輪という場に立ちたい』という思いだけで動いていました」
しかし、不運はさらに続き、2013年3月に日本陸連の沖縄合宿中に、食中毒になってしまった。
「病院に行ったら『卵を食べましたか?』と聞かれて。前夜がすき焼きだったからそれでした。2週間入院して最初の1週間で体重が4kg落ちたので、そこですべてが終わりました。4月になって帰宅してから平成国際大の男子コーチの松田克彦先生にも相談をして、まずは日常的に復帰するためにリハビリから始めました。一応所属チームもあるから、日本選手権には出なくてはいけないのでそこに間に合わせようと焦ってしまったんですよね。体重が4kgも落ちてしまっているのに、知識がないので無理矢理スプリントの動きをしていたらアキレス腱を痛めてしまったんです。
その痛みも無視して日本選手権に出たのですが、予選落ちでした。アキレス腱は2018年までずっと痛かったですね。焦る気持ちを整えてくれる大人もいなかったので、悪い方向に向かってしまったけど、所属していた富士通の先輩だった松田先生や土江裕寛さんなど、富士通に守ってもらっていました」
そこから始めたのは、走るためというよりも、陸上界に戻るための準備だったという。松田の職場が名古屋になったため、郄橋も2年間名古屋に住んで彼のサポートを受け続けた。
「松田先生は十種競技で世界選手権にも出場したスペシャリストなので、あらゆる体の使い方をそこで学びながら、それをスプリントに生かしていくような、本当に基本的なことを2年間積み上げてくれて。それがあったから今があります」
結局、リオ五輪には間に合わなかったが、同い年の福島千里や木村文子が現役でいたこともあり、競技を辞める選択肢は選べなかった。
「まだアキレス腱が痛い時に、木村文子ちゃんに『サッカーをやってみたい』と話したら、『モモちゃん、それはいいけどアキレス腱が痛いからってサッカーに行くのは筋違いよ』と言われて。『サッカーへ行っても壁は同じようにくるから、その前に個(の走り)を極めたほうがいい。モモちゃんにしかできないことがあるから、逆にアキレス腱の痛みと、うまくつき合いながら自分を高めていったら、その先でサッカーにつながるかもしれないし、そのほうが自分のためになるよ』とも言われて、逃げそうになる度に文子ちゃんに相談すると軌道修正をしてくれたので『もうちょっと陸上をやってもいいかな』と思えていました」
そんななかで縁があり、2018年からは初動負荷トレーニングで知られている鳥取のワールドウイングに行き、そこのスタッフを務めながら小山裕史氏の指導を受けるようになった。
「リオに間に合わなくて自分との約束は果たせなかったけど、その延長線上の景色も自分で見てみたかったし、アキレス腱の痛みにも波が出始めて『このくらいの痛みだったら走れる』とか、自分でメンテナンスして緩和できることもわかってきて。アキレス腱が痛くなくなったら練習を積めるなというのがあったから、『そうなればチャンスが巡ってくるかもしれない』と、微かな希望を自分のなかに抱いてやっていました」
2019年9月の実業団選手権では3位に入り、復活を感じさせた photo by Naoki Nishimura/AFLO SPORT
ワールドウイングでのトレーニングでアキレス腱の痛みが消えた2019年5月の鳥取選手権では、7年ぶりの11秒台となる11秒84を出した。さらに8月の中国五県対抗選手権を11秒89で制し、翌20年10月開催の日本選手権出場権を獲得。9月の全日本実業団でも3位になり、久しぶりに全国大会の表彰台にも上がった。
「7年ぶりの日本選手権だから、めちゃくちゃうれしかったです。でも私のプライドとしては、出るだけじゃなくて、勝負をしにいきたかったんですよね。決勝に残って勝負をするということを意識しすぎた部分もあって、結果日本選手権には出場できずに終わりました」
結局、2020年9月に行なわれた鳥取県の東部土曜記録会が、郄橋の現役ラストレースになった。
【ツラかった経験を今の仕事の糧にしている】「今はフリーランスのスプリントコーチみたいな感じで、陸上だけではなく女子サッカーなどの他競技でも指導していて、メンタル的な要素も含んだコーチングのスタイルにしています。自分は何度も心が折れてしまった経験があって、心が折れている時は体も動かなくなる。そういう時には体だけ強化するのではなく、心も一緒に成長させていかないと結果が伴わないというのを強く感じたし、そういう選手をもう作りたくないという思いもあって、メンタルトレーナーの資格も取りました」
陸上では国際陸連のコーチ教育認定システム(CECS)レベル1を取得し、U16のコーチ資格もある。
「チームと個人がコミュニケーションを取る時に、両者の一方通行ではなくチーム作りがしっかりできる納得解を提案できるような第三者的な存在になりたいと思っています。女子短距離チームにいて思ったことなので、そういうところで力になれたらいいなと思っています」
あの経験をしてよかったかと言えばそうではないが、今の郄橋萌木子を作っていることも間違いない。
「ロンドン五輪で走れなかったことはいまだに自分のなかにしこりとして残っていますし、今でもそこに触れたら涙も出てきます。多分、同じ立場を経験した人も忘れられないだろうけど、あれがあるからこそ陸上界から離れないでいられたというか。本当は離れたかったかもしれないけど、自分の中で離れられない道を作ってくれた経験のひとつかもしれないと思います。それがなかったら潔く辞めていたかもしれないですね」
こう話す郄橋は最後に、穏やかな笑みを浮かべた。
プロフィール
郄橋萌木子(たかはし ももこ)
1988年11月16日生まれ、埼玉県出身。
中学時代はソフトボール部に所属しながら陸上に取り組んでいたが、埼玉栄高等学校入学後、本格的に陸上を始める。100mではインターハイで高校3連覇を果たし、3年時の南部記念では11秒54の高校記録も更新。平成国際大学進学後も日本選手権の100mで初優勝するなど、この頃からリレーの日本代表としても活躍し始めた。2009年には福島千里と共に200mで日本記録を出したが、2011年ごろからは不調に苦しんだ。2015年に所属先を富士通からワールドウイングに変えて練習を続けていたが、2020年9月に引退。現在はスポーツメンタルトレーナーとして選手たちを支えている。