巨人のレジェンド・末次利光が思うV9達成の価値 後期には「バッターとランナーでお互いにサインを出していた」
野球人生を変えた名将の言動(12)
末次利光が語る川上哲治 中編
(前編:「打撃の神様」川上哲治の指導法 末次利光は「ボールだけしか見えなかった」瞬間があった>>)
巨人V9時代の5番打者・末次利光氏に聞く川上哲治監督とのエピソード。その中編では、川上監督がいち早く取り入れたという「ドジャース戦法」、末次氏が満塁ホームランを放った阪急との日本シリーズについて聞いた。
宮崎キャンプでリレー競技をする(左から)長嶋茂雄、王貞治、川上哲治監督、それを応援する牧野茂コーチ photo by Sankei Visual
――川上監督のもとで打撃コーチを務めていた荒川博さんは、王貞治さんに「一本足打法」を指導されたことで知られていますが、それは川上監督の意向ですか?
末次利光(以下:末次) 王さんを本塁打を打てるようなバッターに育ててほしい、と荒川さんに頼んだのは川上さんです。ただ、一本足で打つことを提案したり、日本刀を用いた素振りを練習に導入したのは荒川さん。あの頃は、打撃に関しては荒川さん、投手は藤田元司さん、内野手は牧野茂さんといった優れた参謀たちが川上さんからの信頼を得ていて、V9に大きく貢献されました。
――V9時代は長嶋茂雄さん、王さんなど選手の"個の力"のイメージが強いのですが、川上監督をはじめ各コーチが細やかな戦術を浸透させ、チームプレーの完成度の高さで勝った、という話をよく聞きます。
末次 その通りです。川上さんが「スモールベースボール」(機動力や小技など細かいプレーを駆使して効率よく1点を取りにいき、投手力と守備力で守り勝つ戦法)を先駆けて実践していたと思います。その基礎となったのが「ドジャース戦法」と言われていますが、川上さんはいち早く目をつけて導入しました。
――川上監督が「ドジャース戦法」に目をつけたきっかけは何だったのですか?
末次 川上さんが巨人の監督になられた最初の年(1961年)に、アメリカのベロビーチでドジャースと合同でキャンプを行なったのですが、そのキャンプを実現させた理由は「ドジャースの戦法を肌で体験して学ぶため」だったそうです。ドジャースは戦力が不足していたにもかかわらず組織的な野球で勝っていたので、その戦法に感銘を受けたようです。
キャンプが終わって選手たちが日本に帰国した後も、牧野さんは1カ月ぐらい現地に残っていました。向こうの方と一緒にドジャース戦法を翻訳していたようで、それを巨人のキャンプに持ち帰ってすぐに練習に取り入れたんです。
――ドジャースとは当時から関係が深かったのですか?
末次 僕はあまり知らなかったのですが、ドジャースで球団経営などを学んでいた通訳の生原昭宏(アイク生原)さんとの関係も大きかったと思います。僕が巨人でコーチをしている頃には、生原さんのもとに選手を連れていったこともありますしね。
【王、長嶋を中心とした"守り勝つ"野球】――末次さんが巨人に入団されたのが1964年。プロ入り1年目の1965年からV9が始まったわけですが、ドジャース戦法はすでにチームに浸透していましたか?
末次 ちょうど、ドジャース戦法を試合で徹底してやり始めた頃じゃないですかね。投内連携のサインプレーやベースカバーだとか、それらを中心とした"守り勝つ野球"というんですかね。とにかく守備の練習はキャンプで徹底してやっていました。ただ、僕は外野手だったので、そういう意味ではちょっとラクでしたけどね(笑)
サインはたくさんあって覚えるだけで大変だったと思いますし、バッテリーや内野手は苦労したはずです。王さん、長嶋さんというスーパースターがいる前後を打っていたショートの黒江透修さん、セカンドの土井正三さんといった選手たちは大変だったと思いますよ。でも、そういった選手たちが適材適所でしっかりと役割を果たしていたことがチームにとって大きかったと思います。
巨人が強かったので、ほかのチームも巨人にならってドジャース戦法を導入し始めたのですが、先駆けてやっていた巨人が4〜5年ぐらいは群を抜いていましたね。
――ドジャース戦法を浸透させる上で、コーチの牧野さんの存在が大きかった?
末次 大きかったですね。投内連携は牧野さんが一手に引き受けてやっていましたから。牧野さんは試合の前日、宿舎から出る直前も常に勉強されていましたし、グラウンドに行ったらそれを実践しようということを繰り返していました。ミーティングでは牧野さんが講師になって、ひとつひとつのプレーを解説してくれてチームに浸透させていましたね。
――9年連続のリーグ優勝と日本一を成し遂げた巨人とはどんなチームでしたか?
末次 先ほどお話したように、やはりドジャース戦法という、スモールベースボールの礎になった戦法を徹底したことが大きかったと思います。それと、当時は外国人助っ人がいなくて全員が日本人選手でした。それでV9を達成しているわけですから、それを成し遂げたチームの一員としても「すごいな」とあらためて思いますよ。
あと、巨人に対しては他の全球団が「打倒・巨人」で毎回エースをぶつけてくるのですが、そういうエースとの戦いを乗り越えてのV9達成というところに価値があるんじゃないかと思います。当時の巨人のバッターは「打率.280ぐらい打つことができれば、3割の価値がある」とよく言われたものです。
【1971年の日本シリーズ第4戦、末次が放った満塁打の裏話】――V9時代の日本シリーズは、第7戦までもつれたことが一度もありませんでした(巨人の4勝2敗が4度、4勝1敗が5度)。川上監督は短期決戦の戦い方に長けていましたか?
末次 川上さんもそうですし、選手も毎年出場していくにつれて慣れていったんじゃないですかね。コーチの方々も短期決戦の戦い方はわかっていましたし、王さんや長嶋さんなど選手の顔ぶれもそんなに変わらなかったですから。
ただ、毎回シリーズ前に出る予想では、相手チームが4勝1敗、4勝2敗で巨人に勝つと言われていましたけどね。実際に試合をしてみると、逆に巨人がその勝敗数で勝っていました。
――当時の巨人は、個々の選手が自分の役割を熟知していた?
末次 そうですね。これは日本シリーズに限ったことではないのですが、通常はサードコーチャーの牧野さんがサインを出していたのを、V9時代の後期には「バッターとランナーでお互いにサインを出せ」と言われていました。それだけ戦術がチーム全体に浸透していましたし、牧野さんが選手たちを信頼していた証拠だと思います。でも、そこまで到達するのは難しいですよ。相当な成功体験を積み重ねないといけませんから。
――日本シリーズと言えば、巨人が阪急と対戦した1971年の日本シリーズ第4戦で、末次さんは3回裏に先制の満塁ホームランを放っています(試合は7−4で巨人が勝利)。シリーズが始まる前、インコース打ちの練習をされていたそうですが、インコースを攻められる予兆があったのですか?
末次 巨人が優勝を決めた後の消化試合に、相手チーム(阪急)のスコアラーなどが偵察に来たんですが、その試合で僕はことごとくインコースに詰まっていたんです。なので、日本シリーズでは「絶対にインコースを攻めてくる」と予想していたので、シリーズの1週間ぐらい前からだったと思いますが、二軍打撃コーチの山内一弘さんに練習を見てもらったんです。
山内さんはインコース打ちの名人でしたからね。日本シリーズまでの1週間は「インコースをいかにしてさばくか」という練習をひらすらやっていました。本番では予想通り、阪急のバッテリーがしつこくインコ―スを攻めてきたのですが、山内さんの指導のおかげもあって、満塁ホームランを打てたのです。川上さんには常日頃から「練習は中途半端ではなく、徹底してやれ」と言われていましたが、そういう姿勢で練習に取り組んで生きたことが生きた瞬間でしたね。
(後編:王・長嶋の後ろを打った「最高」と「最悪」 当時の球場は「想像がつかないような雰囲気になった」>>)
【プロフィール】
末次利光(すえつぐ・としみつ)
1942年3月2日、熊本・人吉市出身。鎮西高、中央大を経て、1965年から13年間巨人でプレー。川上哲治監督が率いるV9時代に、長嶋茂雄、王貞治と共に5番打者としてクリーンナップを形成した。1971年には日本シリーズMVP、1974年にはリーグ4位の打率.316を残してベストナインにも選ばれている。1977年に引退後は巨人の2軍監督、スカウト、編成部長などを歴任した。