ジェンダーフリーが声高に叫ばれる昨今ですが、左利き女性への偏見が深刻だった時代があったといいます(写真:プラナ/PIXTA)

昔の女性は、左手に箸を持って食事をすると「親のしつけがなっていない」といわれ、お見合いのときに左利きであることがわかったら破談になることすらあったという。左手で箸を持つことの、何がいけなかったのか。左利きの女性の苦難の歴史について、日本左利き協会発起人の大路直哉氏が解説する(本稿は、大路直哉著『左利きの言い分』を一部抜粋・編集したものです)。

左利きへの偏見は女性にとっての深刻な人権問題

「左利きへの偏見は、女性にとって深刻な人権問題だった」――ジェンダーフリーが声高に叫ばれる時代、このようなことをいえば「何を大げさな」といわれてしまうかもしれません。ただ、ほんの少しだけ時代をさかのぼれば、左利きの女性は確かに人権が侵されていたと見なすことができるのです。

まず、左利きの権利獲得をめざして設立された「左利き友の会」に寄せられた、1972年当時で18歳の勤労女子学生による悲痛な告白に目を向けてみましょう。

《何人かの人からいろいろ言われたこともあります。「女の左利きは……」とか「結婚のことを考えたら……」などいろいろ言われました。そんな時やっぱりくやしくて涙が出ました。心では割り切っているつもりでも、いざ左手を使うと恥ずかしい気持ちになります》(『左利きニュース』第19号)

この女性が誕生したのはサンフランシスコ平和条約が調印・発効されてまもない1950年代。そんな戦後生まれの左利き女性でも、周囲から「結婚のことを考えたら」と言われてしまっていたのです。

じつは海外で書かれた書籍が、日本の左利き女性と結婚をめぐる逸話を紹介しています。

《かつて日本では、(中略)左利きの娘は嫁の貰い手がなく、結婚したあとで左利きとわかれば、夫の意志で離婚することができた》(ジェームス・ブリス他著『左利きの本』)や、《左利きの若い女性は、花婿を捜すのに右利きのふりをしなければならなかった》(M・ガードナー著『新版 自然界における左と右』)といったぐあいに。

左利きとは親の「しつけ」の問題だった

いずれも話のよりどころは定かでなく過去の文献などの孫引きを重ねたのではないかと考えられますが、ロングセラー『育児の百科』の著者松田道雄も「もうひとつの女性の人権問題」をしかと捉えていました。

《ことに女の子は、左ききでも右手でおはしをもち、右手で字を書くようにしつけないと、母親の怠慢のように思われた時代がありました。お見合いのとき、若い娘が左ききであることをわからせる動作をみせたら、破談になることが少なくありませんでした》(『松田道雄の安心育児』より)

左利きが原因によるお見合いの破談や離婚を経験したという女性の逸話は他にも散見されるものの、当事者としての思いは活字として残されるものではありません。それはさておき、どうして左利きの女性は結婚に差し障りがあったのでしょうか?

かつて女性の結婚が他家への永久就職を意味していた頃、左利きとは親の「しつけ」の問題でした。特に女性は世間で人並みであることが強く求められ、右利きと同じ所作でなければ悪癖とみなされたのです。

それゆえに「娘を見るより母を見よ」ということわざが、長らくお見合いの鉄則とされてきました。 若い女性の将来は母親の一挙手一投足を見ればよいとなれば、の左利きを矯正しようと躍起になるのはやむを得ません。

それにしても女性にばかり左利きに対する贖罪意識を植え付けていた、かつての日本。その余波は「男女雇用機会均等法」がスタートした1986年においても顕著でした。たとえば同年に女子学生が会社訪問した際、面談を担当した男性社員から《君は左ギッチョなの? 社は客商売だし、器具の扱いも不便になるから採用はちょっと難しいね》と告げられたという、新聞への投書がありました(『朝日新聞』1986年11月2日)。

この女子学生が憤った左利き蔑視こそ、「もう1つの女性の人権問題」そのものです。さらに同年、松田道雄が《女の子だからとくに左ききはいけないというのは、男本位のかんがえ方です》(『松田道雄の安心育児』)と社会的な意識の変革を強く主張したことからも、いかに多くの左利き女性が口に出せない苦労を味わってきたかが窺い知れます。

「両利き」の水森亜土も悩んでいた

この苦悩は、両手を使って器用になんでもこなせる才女であっても例外ではなかったようです。箸に包丁、さらにはイラストを描いたり文字を書くことも両手でこなせる水森亜土は、少女時代の切ない気持ちを、『週刊読売』1991年4月28日号でこう回想しています――

《左ギッチョじゃ絶対にお嫁さんになんてなれっこないと、子ども心に切なくて不安いっぱいでした。そのせいか、おままごとはいつもお嫁さんごっこで、この時は腕力にモノを言わせて必ずお嫁さんになりました。必死で、小さな包丁を右手に持ってご馳走をつくり、ご飯も、右手にしゃもじをしっかりと握ってお茶碗に入れました。もちろん、何度もしくじります。五回、六回……でもできた時の大感動たらありませんでした》

イラストレーターやジャズ歌手など多くの顔をもつ水森でさえ、「左利きはお嫁にいけない」という言葉の呪縛にとらわれていたとは。誰もが羨む器用さの裏側には、想像を絶する涙ぐましい努力があったのです。

ではなぜ、左利きだと「しつけがなされていない」とみなされるようになったのでしょうか。そのおおもとの原因は、儒教にありました。

東アジアのなかでも漢字文化圏に属する国において、国家秩序の維持や道徳規範を守るうえで長らく重要な役割を果たした儒教。孔子を始祖とする倫理思想や信仰の体系を指しますが、200年以上にもわたる鎖国を行っていた江戸幕府では、封建社会を維持すべく多くの儒学者を重用しました。

それゆえ儒教の長所も短所も日常生活の隅々にまで浸透しましたが、そんな儒教における「国家から家族にいたる最も重要な道徳的観念」こそが「礼」です。噛み砕いていえば集団秩序を維持するための約束事であり、ひいては他人に不快感を与えない気配りや所作も「礼」のひとつです。

「礼」といえば、儒教において尊重される五経のひとつに『礼記(らいき)』があります。前漢期(紀元前1世紀)に編纂され、日本においても礼儀作法の原点であることは言わずもがな。その古典に、男女の区別なく、ものごころついたばかりの子どもへ最初に徹底すべき作法が記されていたのです。

《子能食食、教以右手》
(『礼記』「内則」篇、第十二)

この原文を訳すと「子どもが自分で食事できるようになったら、右手を使って食べるように教えなさい」。つまり口に食事を運ぶ手を「右手」に限定していたのです。

日本における「箸は右手」の規範の強さ

ただ『礼記』には、イスラム教やヒンドゥー教のように「左手」を不浄の手とする観念で封じるような記述が見当たりません。そのためか、日本の江戸期に書かれた育児書や随筆では、日常のしつけを行うための権威的なよりどころとして『礼記』が引用されてきたきらいがあります。

日本で最初の本格的育児書として誉れ高い、香月牛山著『小児必用養育草』(1703〔元禄16〕年)は、左利きの子どもへの対処法については、かの『礼記』の一節に触れつつ「箸だけは右手に」と強調しました。あえて裏面を読むような見方をすれば、この一節は、医師としてではなく道徳家として、「箸づかいを見れば、その親がわかる」と諭していたともいえます。

同じく元禄期に享楽的な好色ものを書いて一世を風靡した井原西鶴も、晩年に残した随筆「時花笠の被物」のなかで「左手」で箸を持つ子どもを戒めています。

利き手をとりまく文化的影響度の大きさをけっして甘くみてはなりません。従来の価値観が大きく転換する敗戦後に出版された新しい女性向け作法書、川島次郎著『新しい女子の礼法』でさえ、『礼記』の一節を引用しつつ《元來和食はすべてが、右手に箸をとることをたて前としている》と断言しているのです。

女性に課せられていた「花嫁修業」も原因

かつての日本社会における女性には花嫁修業という、もうひとつの「仕付け」が課せられていました。古くは着物やふとんを縫ったり繕うための裁縫。現代でも女性の役目とみられがちな炊事や洗濯。さらには礼儀作法やお稽古事なども花嫁修業の一環でした。

こうして花嫁修業を列挙すれば、家事労働がいかに多岐にわたるかがわかります。そしてそのために、女性のほうが男性よりもはるかに利き手の左右を問われることが多かったのです。ましてや「左利きはお嫁にいけない」とされた時代にあっては、どれだけ多くの左利き女性が苦汁をなめてきたことでしょう。


かつて花嫁修業とカテゴライズされた技術や作法の習得にあたっては、まだまだ左利きの手本や配慮がなされていないものが多々あります。ですが、生活関連用品や道具については、左利き専用品だけでなく左右兼用のユニバーサルデザインの製品が充実の兆しを見せています。

そのいっぽう、茶道をはじめとする伝統文化においては、右利き本位の作法に手こずる左利きは少なくありません。さまざまな境遇におかれた人々を取り残さない作法の確立を、素晴らしい文化の継承のためにも切望します。

ともあれ、「左利きの娘はお嫁に行けない」という迷信を温存させてきたのは、右利き優位の社会である以上に日本の社会が「男性本位」を引きずってきた一面も見逃せません。日常生活におけるジェンダーフリーが進むことこそ、多くの左利き女性が味わった艱難辛苦を、男性が自身の利き手の左右に関係なく共有し理解できる絶好の機会なのです。

(大路 直哉 : 「日本左利き協会」発起人)