難病の妻の自殺ほう助で逮捕、教員免職後に急逝...『野球の定石』を遺した知られざる名将・山内政治の信念
『野球の定石』を遺した男 前編(全2回)
【選手に渡した手づくりの冊子】 甲子園に出場したわけでもない。プロ野球選手を育てたわけでもない。でもなぜか人々を惹きつけ、興味を抱かせ、周囲に少なからずの影響を与えた高校野球指導者がいる。
その人の名は、山内政治(やまうち・まさはる)。1959年、滋賀県に生まれた山内氏は、彦根東から早稲田大に進み、大学4年時は新人監督を務めて東京六大学野球・秋季リーグでの優勝に貢献。その後、菅生学園(現・東海大菅生/東京)の野球部コーチを経て滋賀で教員となり、母校の彦根東に加えて、甲西、能登川の監督を歴任した指導者である。
早稲田大学時代の山内政治氏/『幻のバイブル』(日刊スポーツ出版社)より
能登川での春季県大会優勝が監督としての最高成績だが、彼の名が広く知れ渡ったのは『野球の定石』と名づけた独自の指導書を世に遺したことだ。
野球を技術面、精神面の両方から追求したその指導書は、もともと選手指導のために書かれたもので、当初手書きだったがやがて自分でワープロに打ち込み、手づくりの冊子に仕上げられた。選手には常に携帯できるようにポケットサイズのものを渡し、指導の際に説明と理解を促すために使っていた。
「野球をここまで追求し、体系化させ、さらに自分で文字にしてまとめる。これは簡単にできることではない」
そう言ったのは、早稲田大の1学年後輩にあたり、早稲田実業(東京)を指導する和泉実監督だ。和泉氏は山内氏のチームと練習試合を定期的に組んでおり、本人からぜひ見てほしいとこの冊子を手渡されている。
その内容は、想定される場面に対しての対策がこと細かに、なおかつわかりやすく記述されていて、関係者から高い評価を得ている。文面は生真面目である一方で、たとえば、「ガクッとするプレー」といった項目があるなど、山内氏独自のユニークな捉え方をした表現が多数見られる。
一本気で猪突猛進型、でもどこかお茶目で憎めない性格という、彼の伝え聞く人柄が表れており、選手の心も自然とつかんでいったのではないだろうか。【監督退任の背景に妻の難病】
ただ、質の高い指導書であったにせよ、本来であればこの話は単純にいち指導者が野球理論を独自にまとめたというだけで終わっていてもおかしくなかった。ではなぜ『野球の定石』が、その後さらに多くの人の心を動かすことになったのか――。
それは、山内氏が49歳で非業の死を遂げたことに起因する。亡くなったのは、2009年2月11日。かなりの時間を要した末に特定された死因は「腸間膜出血」だったが、それまで重ねた極度の疲労や精神的苦痛が引き金となったことは明白だった。
高校野球で過労死? いや、山内氏が純粋に野球を追い続けることができたのは、亡くなる8年前の2001年春までだった。そこで彼は監督を辞し、野球ときっぱり縁を切っている。
なぜか。野球のあとに彼が向き合い、闘い続けたのは、妻が病んだ「化学物質過敏症」という難病だった。タバコや柔軟剤などのほんのわずかな匂いで頭痛やめまい、吐き気などの体調不良が起こる環境病で、重症化すると日常生活にも多大な支障をきたす。
近々では2023年8月にNHK『あさイチ』でも取り上げられており、時期を問わず誰にでもなりうる可能性があるにもかかわらず、関心を持つ人は少ないうえ、周囲の理解もされにくい病である。
妻の難病は、山内氏を惑わせ、苦境に立たせた。
山内氏は野球理論の構築にあたり野村克也氏らさまざまな人の文献を読みあさり、亡くなった時には傍らに150冊近くの関連本があった。
それらをノートにまとめ、さらに自分の考えを加えて理論をつくり上げていったのだが、幾度も改定を重ねて冊子に仕上げたのは、夫人の病状の悪化に伴い監督としてグラウンドに立つ時間が徐々に限られてきたことも背景にあった。自分がいなくても練習を進められるように――そんな思いがあったのだ。
実際、山内氏が退任する直前は、この冊子を片手に選手だけで練習したり、公式戦でも監督不在のまま戦っていた時があった。公式戦を欠席しなければならないほどの理由を選手たちはその時まったく知らず、耳を疑うほど大変な事情を抱えていたと知ったのは、退任の3年後に起きた事件がきっかけだった。
『野球の定石』は山内氏の死後、2014年に早稲田大学出版から書籍化
2004年4月、夫人が自死。それまでの山内氏の介護は、献身的というひと言ではとても言い表せないほどのものだった。
化学物質過敏症は患者それぞれに発症の度合いが異なり、夫人はご飯を炊いたり、ホウレンソウを茹でたりする際の、普通の人ならほぼ意識しないであろう匂いに反応し、体調不良を起こした。また、近所で騒ぐ子どもの大きな声によって感情を制御できなくなるなど、さまざまな症状を抱えていた。
電車やタクシーにも乗れず、誰が見てもごく普通の日常生活さえも営むのは至難の業という状態。心配どころか周りには逆に煙たがられ、確かな治療法はないというあまりにむごい現実のなかで、山内氏は必死に夫人を支え続けていた。
夫人が死を選んだこの日も、ギリギリまで思いとどまるよう説得を続けていた。でも夫人の強い思いに勝てず、自死の現場へ一緒に行ってしまう。そのことから自殺ほう助罪に問われ、事件として報道されたことによって、周囲の人々は初めて山内氏の置かれていた現状を理解したのだった。
無情だったのは、深い調査も行なわれないままあっという間に教員免許剥奪が決まってしまったことである。
野球が好きで、子どもが好きで、本人もこれだけは避けたいと願っていたが、多くの減刑嘆願書が化学物質過敏症の患者たちから出されたにもかかわらず、懲役2年2カ月の執行猶予付き有罪判決が下る。現実から逃避することなく全力で生きてきた人間にとって、犯罪者というレッテルはあまりに重かった。
それからわずか5年後、山内氏は他界する。夫人の看病のさなかに自身もうつ病を発症。それでも住まいをかつて過ごした東京に移し、心機一転、再び野球とかかわれる日を夢見て必死に働いていた。将来を悲観しての結末では決してない。生きようとするなかでの死だった。
山内氏の周りにいた人々の多くが、その生きざまに心を打たれている。自分の信念に従ってまっすぐに突き進み、一度のブレーキも踏まずに生涯を駆け抜けた男。野球の指導者というより、純粋に人としての生き方に共感するという声が圧倒的だ。
山内氏の生涯については、2014年にたくさんの関係者の協力を得て1冊の本にまとめ、『幻のバイブル』(日刊スポーツ出版社)として発表した。この時に得た多くの証言から、当時の野球指導がとても先進的だったことがわかっている。
全員そろってから始めるのでなく、来た者から練習をスタート。グラウンドには音楽が流れ、練習の前後には、心を整えるためにメトロノームを使う「黙想」を採り入れていた。
集中力が上がるという理由から全員でガムを噛みながらミーティングをしたり、野球ノートも重要視してしっかりとまとめさせていた。今ではこうした練習法は当たり前のものもあるだろうが、山内氏の場合、20〜30年前のことだ。
彼の指導の終盤には、「ゲームが始まった時にはその前にすべての指導が終わっているようなチームづくり。それが理想だ」とも言っていた。試合では敗れた相手チームの選手にそっと声をかけるなど、彼らしいエピソードが聞かれたことも印象深い。
山内氏の地元・滋賀では、折に触れて彼の話題が出るという。その中心にいるのが、北大津で甲子園監督となり、現在、彦根総合を指導する宮崎裕也監督である。
宮崎氏は言う。
「彼が生きていたら、滋賀の野球はきっと変わったと思う。指導者という枠にとどまらず、私は今もその人間性に魅せられています」
山内氏は生前、自身の指導法を花にたとえて「忍冬(スイカズラ)」と表現した。「厳しい冬に耐え、初夏に花を咲かせる」という意味が込められ、花言葉は「愛の絆」「友愛」、そして「献身的な愛」。そのとおり、彼は生きた。
秋の大会を終えたあとは、来春まで地道な練習の日々が続く。山内氏を偲びながら、すべての高校球児にこの言葉を贈りたい。
後編<「山内政治さんの野球は強烈で忘れられない」 壮絶な人生を送った名将のラストゲーム...宮崎裕也監督(彦根総合)が回顧>を読む
【プロフィール】
山内政治 やまうち・まさはる
1959年、滋賀県彦根市生まれ。彦根東高から早稲田大に進学。1982年、早稲田大硬式野球部の新人監督を務め、東京六大学野球春季新人戦を優勝、同秋季リーグを優勝などの成績を収める。卒業後、母校を含む滋賀の3校の監督を歴任。2004年に妻・智子が化学物質過敏症を苦に自死し、その際に現場に一緒にいたことから自殺ほう助罪で逮捕される。多くの減刑嘆願署名が提出されるも、懲役2年2カ月・執行猶予3年の有罪判決を受け、教員を免職。2009年に49歳で急逝した。