梨田昌孝が語る「10.19決戦」秘話 近鉄とロッテの伝説のダブルヘッダー前チームの雰囲気は「ガツガツしていなかった」
梨田昌孝が語る「10.19決戦」 前編
長いプロ野球史において、今もなお伝説として語り継がれている激闘のひとつが、1988年10月19日に川崎球場で行なわれた近鉄vsロッテのダブルヘッダー「10.19決戦」。近鉄がダブルヘッダーを連勝すればパ・リーグの優勝が決定。1回でも敗れるか引き分けると西武が優勝するという状況で、近鉄は第1試合を勝利(4−3)したものの第2試合が引き分け(4−4)となり、西武がリーグ優勝となった。
近鉄が勝利した第1試合で決勝のタイムリーを打ち、10.19決戦を最後に現役を引退した元近鉄の名捕手・梨田昌孝氏に、ダブルヘッダーを前にしたチームの雰囲気、自身の引退に関して仰木彬から言われた言葉、移動のバス車内でのエピソードなどを聞いた。
10.19決戦の第1戦、選手を迎える近鉄の仰木彬監督(左)ら首脳陣
――10.19決戦を迎えるにあたって、チームの雰囲気はどうでしたか?
梨田昌孝(以下:梨田) 当時は西武が強かった時代でしたからね。選手にプレッシャーをかけないための配慮だったのかもしれませんが、指揮官の仰木彬さんは勝つことに対してそこまでガツガツしていなかった感じでした。
仰木さんはシーズン中も常に、「勝ったり負けたりでいいから。5割ぐらいやったらボンっと順位が上がることもある」と言っていました。5割という最低ラインを引いて、チャンスがあったら上位を狙う。普段からそんな感じなので、10.19決戦を前にしても特にピリピリした雰囲気ではなかったです。
――球場の雰囲気はいかがでしたか?
梨田 川崎球場(当時のロッテの本拠地)での試合は、いつもはスタンドにお客さんが500〜1000人くらいしか入らず閑古鳥が鳴いていたのですが、この試合では空きの座席がまったく見えないぐらいお客さんが入っていました。それまで、そんなことはなかったですし、異様な景色だったことを覚えています。
それと、ちょうどダブルヘッダー第1試合と第2試合の間だったと思うのですが、阪急がオリエント・リース(1989年4月、社名をオリックスに変更)に身売りするというニュースが僕らの耳に入ってきて。「こんな大事な日に嫌なニュースが入ってきたな」とは少し感じていましたね。
【決戦の前年に仰木から「ナシ、ちょっと飯行こうや」】――ちなみに、梨田さんはこの試合を最後に現役を引退しましたが、引退を決めたきっかけは何だったのですか?
梨田 まだ35歳でしたが、肩の手術をしていましたし、両足のアキレス腱の状態も悪かったんです。それと、グラウンドが人工芝に変わる頃で、キャッチャーの僕は人工芝で立ったり座ったりする練習をしていたのですが、膝や腰、足首、アキレス腱など体のあちこちにガタがきていました。
今はひとつの球団に、平均で10人前後のトレーナーがいたりしますが、当時はトレーナーの人数が少なかったですし、セカンドオピニオンやサードオピニオンといったように入念に検査するような時代でもありませんでした。自分で自分の体の状態を判断することが重要だったのですが、「これ以上はプレーできない」と感じるようになって引退を決めたんです。
――この年の早い段階から決めていたのですか?
梨田 本当はその前年にやめるはずだったんです。岡本伊三美さんから新しい監督に交代するタイミングでやめることを球団に言おうとしていたら、仰木さんがそれを察知したようで、「ナシ、ちょっと飯行こうや」って誘われたんです。まだ新聞などで近鉄の新監督の発表もされていない時だったのですが、そこで「実は、来年わしが近鉄の監督をやるんや」と。
それで「お前、引退しようと思ってるんやろ」という話をされたので、「もう肩も膝もガタガタなんで、そろそろと思っています。戦力になれませんし」と言ったら、「もう1年やれよ」と言われて。戦力として仰木さんを助けることはできないということでお断りしたのですが、最後は口説かれたというかね。「年俸はちゃんと上げるように球団に言っておくから」とも言ってくれたので、もう1年やることになりました。
その時に仰木さんに伝えられたのは、「状態がいい時には代打で使ったり守ってもらったりするけど、ナシはそこまで考えんでいいから、選手とコーチのパイプ役となって支えてくれ」ということでした。それで、最終的に10.19決戦を経験することになったんです。
【"パイプ役"だった梨田から見た決戦前のチーム】――10.19決戦を迎える直前の日程をあらためて振り返ってみると、10月7〜19日にかけての13日間で15連戦(10日、19日がダブルヘッダー)という厳しい日程でした。
梨田 そうですね。ただ、シーズン前半に雨で何試合か流れたことで、いいピッチャーをうまい具合にローテーションで回せたんです。それでシーズン後半に、かなりゲーム差を離されていた首位の西武に追いつくことができた、とも言えるんですよ。10月に入ってからの日程だけを切り取られて、「近鉄はえらい大変やったな」と言われがちですが、僕らとしては「ツキがある」と思っていました。「ひょっとしたら優勝もできるぞ」という思いも抱いていましたから。
――タイトな日程は10.19決戦のコンディションに影響しましたか?
梨田 ベストコンディションの選手はそんなに多くなかった気がします。野手はごまかしがききますが、特にピッチャーは疲れていましたね。エースの阿波野秀幸は、傍から見ていてもそうですし、実際に球を受けてみても本当にクタクタでした。
本来は、もうちょっとバッターの体勢を崩せるボールがあったり、速い真っ直ぐがあったりするのですが、ボールが全然"きて"いませんでしたし、本当に「精神力だけが支え」という感じでした。
――ちなみに、仰木監督は「勝つことに対してガツガツという感じじゃなかった」ということでしたが、ダブルヘッダーを連勝すれば優勝が決まるという大一番を前に、選手たちに対して何か話をしましたか?
梨田 仰木さんは普段からそうなのですが、第1試合の前にも選手たちを集めて話すことはなかったです。スコアラーから送られてきた資料に目を通したりはしていましたが、特別に何かを伝えられることはありませんでした。
――第2試合の前も同じですか?
梨田 第1試合が終わって第2試合が始まるまでの休憩が20分ぐらいしかなくて。着替えてサンドイッチか何かをちょっとつまんだら、5分前の集合時間。みんなバタバタしながらベンチに集まってきていましたね。僕は引退間近の選手でスタメンでもないし、1試合目に勢いのつく勝ち方(自身の決勝タイムリーで勝利)ができたので、「2試合目も勝つのかな」と勝手にいいイメージをしながら休憩時間を過ごしていましたよ。
――梨田さんは、状況を冷静に見ることができていた?
梨田 そうですね。スタメンではなく一歩引いた視点で見ていましたから。チームの勝利、優勝を第一に考えつつも、「自分はこれが最後の試合になるかもしれない」とも考えていたりして。コーチと選手たちのパイプ役のような立場でしたし、「他の選手たちをリラックスさせてやらないといかんな」と思っていました。
――10.19決戦の前、近鉄は10月17日の阪急戦に敗れ、残りのロッテとの3試合に全勝しなければ優勝できない状況に追い込まれます。その時にはさすがに、チームの雰囲気も重くなりましたか?
梨田 西宮球場からバスで京都の都ホテルに移動したのですが、やっぱりシュンとした雰囲気でした。ただ、仰木さんはそういう空気が嫌いなこともあって、バスで1時間足らずの移動中に、「なんか楽しいことでもやろうや」となったんです。そうしたら、佐々木修や大石大二郎が先頭に立って近鉄の球団歌をみんなで歌ったり、若手の村上隆行がバスの中の雰囲気を明るくしようとして、いろいろと楽しませていました。
――当時の近鉄は「明るいチーム」というイメージがありました。
梨田 そうですね。割と好き勝手なことをやっていたような感じでした。仰木さんが監督の時は、札幌遠征では裏方さんたちも含めてサッポロビール園に行っていたのですが、一部の選手がビールを一気飲みしたりね。仰木さんが「一気飲みが一番早い選手がスタメンだ」と冗談を言ったり(笑)。そういうことを言いながら選手を乗せていくというか、場を楽しませることがうまかったです。
(中編:第1試合9回裏の投手交代の真相 吉井理人→阿波野秀幸「ボールの判定にカーっとなってしまって...」>>)
【プロフィール】
梨田昌孝(なしだ・まさたか)
1953年、島根県生まれ。1972年ドラフト2位で近鉄バファローズに入団。強肩捕手として活躍し、独特の「こんにゃく打法」で人気を博す。現役時代はリーグ優勝2 回を経験し、ベストナイン3回、ゴールデングラブ賞4回を受賞した。1988年に現役引退。2000年から2004年まで近鉄の最後の監督として指揮を執り、2001年にはチームをリーグ優勝へと導いた。2008年から2011年は北海道日本ハムファイターズの監督を務め、2009年にリーグ優勝を果たす。2013年にはWBC 日本代表野手総合コーチを務め、2016年に東北楽天ゴールデンイーグルスの監督に就任。2017年シーズンはクライマックスシリーズに進出している。3球団での監督通算成績は805勝776敗。