和田豊が今も悔やむ92年のタイガース「亀山も新庄も優勝争いの重圧でガッチガチ。僕らがもっと鼓舞できていれば...」
1992年の猛虎伝〜阪神タイガース"史上最驚"の2位
証言者:和田豊(後編)
前編:和田豊が振り返る92年のタイガース快進撃はこちら>>
1992年4月25日、ナゴヤ球場での中日対阪神戦。5回、一死満塁の場面で7番・岡田彰布に打順が回った。一死二、三塁で回ってきた6番・八木裕が敬遠されたあとだった。打率1割台と不振の岡田のほうが打ちとりやすい、という中日ベンチの判断。当然、岡田の心は熱く燃えていたはずだが、ここで中村勝広監督は、若手で打撃好調の亀山努を代打に起用した。
シーズン前半のチャンスで岡田への代打は初めて。試合後、報道陣に「代打は意外だったのでは?」と問われた岡田は「知らんわ。初めてやからなあ。記憶にないもん」と答え、名古屋の宿舎では大荒れだった。代打で凡打した亀山はすぐさま岡田に謝りに行き、大半の選手は異例の代打起用に驚いた。新選手会長の和田豊もそのひとりだったが、監督の意図を感じたという。
引退後はコーチ、一軍監督、フロントを歴任し、今年から二軍監督を務める和田豊氏
「中村監督に代わって2年連続最下位でしたから、思いきって変えようと考えていただろうし、勝つためには実績ある選手でも代えるよと。チームとして勝ちにいく姿勢を示す、重い決断だったと思います。ただ、そこで結果を出せばよかったんだけど、カメも打てんかったからね(笑)。余計にしこりみたいなものが残ったかもしれないけど、その後、快進撃しましたから」
和田が「92年のタイガースにとっていちばん大きな分岐点」と言うその日。阪神は15年ぶりに、4月中に10勝に到達した。前年の10勝到達は5月23日だったから、約1カ月も早い、まさに快進撃。最大の要因は投手陣で、野田浩司はケガで出遅れたものの、猪俣隆、仲田幸司、湯舟敏郎、中込伸、葛西稔と先発の駒が揃い、新守護神の田村勤が安定感十分だった。
「もう本当に、ピッチャー陣におんぶにだっこ状態で......。というのは、いま思い起こしても、打てなかった、点をとれなかったですから。たしかにオマリーやその年から入ったパチョレックと両外国人は普通に打っていましたけど、僕自身、例年に比べるとよくなかった。毎年、3割は打って当たり前と思っていたなかで2割7分台でしたから」
前半戦は3割を打ち、オールスター出場も果たした和田だったが、8月以降の調子が今ひとつでキープできなかった。チームの得点数475はリーグ6位で、トップのヤクルトが599だから、100以上も開きがある。甲子園球場のラッキーゾーンが撤去された影響もあってか、チーム本塁打も前年リーグ4位の111本から6位の86本と減少し、破壊力もなかった。
「ただ、カメと新庄がね、ふたりともその年に3割打ったわけではないんだけど、数字以上の活躍ぶりでしたから。彼らふたりがその年のチームを引っ張っていたのは間違いないんで」
プロ5年目の亀山は開幕時から俊足巧打で台頭し、3年目の新庄剛志は5月22日、オマリーが右手骨折のため離脱したことで昇格。長打力を秘める新庄はファームで4番を打ち、柏原純一二軍打撃コーチにマンツーマン指導を受けていた。そして、一軍で最初の試合となった5月26日の大洋(現・DeNA)戦。8番・サードでデビューすると、いきなり最高の結果を出す。
「2回の初打席、初球ですよ。ホームラン打ったんです。一軍に上がってきて、即。有働(克也)のカーブをね。その時、チームに新鮮な空気が流れたな、という気がしました。で、新庄、最初は内野を守っていたんだけど、フライは落とすし、うまくはなかった。だけど7月から外野に行ったら、本来の持ち場を得て、『こんなうまい外野手おるんか!』と驚くほどでした」
【タイガース史上屈指の外野陣】ラッキーゾーンが撤去され、広くなった甲子園の外野で、新庄、亀山、八木の3人がよく機能した。いずれも足があって守備範囲が広く、肩も強かった。
「その3人が守る時は間を抜ける気がしなかったです。センターの新庄が『外野の3分の2は僕が守ります』って言うぐらいの守備範囲を誇ってましたから、長打を打たれるケースが少ない。甲子園が広くなったから余計にピッチャーを助けていたと思うし、その守備には華やかさもあったので、スタンドのファンを巻き込んだようなところもありました。
そういう意味では、僕がレギュラーとして守っている間では、いちばんの外野陣だったんじゃないかなと思います。しかも内野の守りもよくて、バッテリーを中心にセンターラインがしっかりしていた。だから、何度も言いますけど、ピッチャーがいい、守りもいい反面、打てなくて、点をとれなくて負けた、という印象が強く残っています」
ただ、「ピッチャーがいい」というなかにあって、田村勤が左ヒジを故障して7月に離脱。24試合に登板して5勝1敗、14セーブ。41回を投げて防御率1.10と絶対的な数字を残していただけに、いかに痛手は大きかったか。
「後半戦も田村がいたら、断トツで優勝していたんだろうけど、いなくなって、みんなでやりくりして頑張った。でも、あまりにも絶対的すぎたから、彼が抜けた影響は大きかったし、精神的なところでも『うわぁ大変だ』っていう影響はたしかにありました。だから、そこを打線でカバーできればよかったけど......」
抑えを欠いたあとに7連敗。今年もダメか......という声も周りで聞こえ始めたが、野田の復活もあって先発陣は健在。8月の長期ロードも10年ぶりに勝ち越し、優勝を狙える位置にいた。そうして9月、八木の"幻のサヨナラ本塁打"で延長15回引き分け、史上最長6時間26分に及ぶヤクルトとの死闘も乗り越えたなかで首位に立って、同19日に7連勝。25日のマジック点灯も見えていた。
「7連勝して、残り半分勝てば優勝だったんですけど、最後のロードに出ている時にマイク(仲田幸司)がね、風邪ひいたか何かで投げられなくなって......。監督、ピッチングコーチは大変だったと思います。終盤だから、いろんなことが起こるんで仕方ないんだけど、それで違うところに負担がいって、ガタガタっとなってしまって」
【一瞬のチャンスで人生は変わる】17泊18日という秋の長期ロード。その間の13試合を3勝10敗と大きく負け越した阪神は、10月10日、甲子園に戻ってのヤクルト戦で敗れ、優勝を逃した。年間通して好調だった投手陣に誤算もあったとはいえ、負けが込み出した時のチームはどんな雰囲気だったのか。
「残り5試合で本当の佳境になった時、若い選手、カメも新庄も今までの勢いがなくなって、大人しくなってガッチガチでした。世間は『優勝だ!』って盛り上がっていて、こんな状況で野球をしたことがない。それがやりがいよりも重圧になってしまった、というところですよね。そこを僕ら経験者がほぐそうとするんだけど、そう簡単ではなかったです。
遠征先で食事に行けば『明日から行きましょう!』『そうだ! ワイワイやりましょう』って威勢がいい。でも、ユニフォームを着ると構えてしまう。結局、本当の力がないのに優勝争いしてましたから、重圧を跳ね返す精神力もなかったわけです。だからこそ、我々がグラウンド上で彼らをもっと鼓舞できていればって思うし、今でもその悔しさは残ってます」
39年間、タイガース一筋の和田は選手、コーチとして3度の優勝を経験し、監督としては2014年、日本シリーズに導いた。16年からフロント入りしたが、今季復帰した岡田監督に「いつまでネクタイしとんねん」と言われ、要請を受けて二軍監督に就任。18年ぶりの優勝に貢献した。そして今、若い選手を指導する立場ゆえに、31年前の「ふたり」がリアルに思い出されるという。
「あの時、カメは開幕ベンチ入りしたけど、何日か後には一軍登録予定のピッチャーと入れ替え対象だったんです。それが、代走からつかんだチャンスを生かしてレギュラーを獲った。新庄も上がってきて即、初球を振り抜いた。だから今の若い子たちもね、チャンスはいつどこでくるかわからない。こないかもしれないけど、あきらめないで、気持ちを切らないでいてほしい。
ファームから上がって優勝に貢献した選手、できなかった選手もいるけど、クライマックスシリーズ、日本シリーズと何が起こるかわからないんでね。本当に一瞬のチャンスで人生は変わるし、人の評価なんて一瞬で変わるから、しっかり準備しておいてもらいたいです」
(=敬称略)