元バレーボール日本代表
石井優希 引退インタビュー(前編)

昨シーズン限りで現役を引退した2016年リオ五輪、2021年東京五輪に出場の元バレーボール日本代表・石井優希。前編では、所属チームの久光スプリングスでの実績や、日本代表としての五輪出場など、バレー人生をあらためて振り返る。


トレードマークの笑顔で語ってくれた石井優希

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 石井優希のバレー人生が始まったのは小学生2年生の時だった。「母親がママさんバレーをしていて、そのチームに小学生チームの監督がいらっしゃってお誘いいただいたことがきっかけだった」という。

「やり始めたときは本当に楽しくて、どんどんできるプレーが増えていくのが楽しかったです」

 身長が170cmある母親譲りで、バレーを始める前の幼少期から背が高いほうだった。小学生のころのポジションは今と同じレフト。ただ小学6年生のときはセンター(ミドルブロッカー)でもプレーしていた。中学校に進学して、バレー部はそれほど強くなかったそうだが、そこでも1、2年はレフトで、3年で再びセンターに。ただ、レフトの時でもセンターの時でも常に正面しか飛ばない1枚ブロックだった。

 そして高校は地元・岡山県の強豪、就実高校に進学。石井の実力があれば、全国の強豪校に進むこともできたが、地元を選んだのはこんな理由があった。

「当時、春高バレーに出たいという思いはありましたが、厳しいのはあまり好きじゃなかったんです。強豪校からもオファーをいただいていました。中学選抜の日韓交流戦などで出会った長岡望悠とか芥川愛加が東龍(東九州龍谷高校)に行くので、私も一緒にやりたいと揺らいだんです。でも、県外に出る勇気が自分にはなかったので、就実高校を選びました」

 1年生で臨んだ春高バレーの舞台では全国のレベルの高さを痛感した。就実高校も春高バレーの常連校ではあるものの、全国大会ではなかなか勝ち上がれなかった。しかし、中学選抜で長岡と一緒にプレーした経験を思い出し、彼女がいる東龍に勝ちたいという欲が出てきたという。

 春高バレーでは東龍と直接対戦は叶わなかったが、3年時の国体で初めて東龍と試合ができた。

「負けてしまったんですけど、長岡とか芥川、栄絵里香とかと戦えたことがすごくうれしかったのを覚えています」

【久光で学んだ多くのこと】

 長岡とはその後、久光でチームメイトとなる。久光には高校時代に何度も合宿に参加しており、チームの雰囲気や環境が気に入って入団を決めた。

「本当にタイミングや、メンバー、チームに恵まれていたなと。入団した時はわからなかったですけど、今になったらすごく思います」

 久光で石井はどんな役割を担っていたのだろうか。

「入団翌年に中田久美前代表監督がコーチとして久光スプリングスに来られて、私が3年目のときに監督に就任されました。

 戦う集団で、結果を求められるなかでメンバーも揃っていた分、結果を出さないといけないプレッシャーと常に戦いながらでした。精神的にやられる日がすごく多かったんですけど、それでも結果を残すことによって、そのつらさが報われるというのを繰り返して、頑張っていました。でも、振り返ってみても肉体的にも精神的にもやっぱり厳しかったですね」

 厳しさにも種類があるが、石井の感じていた厳しさは具体的にこういったものだった。

「一緒に入ってパス(サーブレシーブ)するのが新鍋理沙さん(サーブレシーブが非常にうまいレフト)と座安琴希さん(リベロ)だったので、どこのチームも私を狙ってきていました」

 中田監督には「優希が崩れなかったらチームは勝てる」と言われ、勝つも負けるも自分次第なのだと思うとプレッシャーもあったが、それがモチベーションにもなっていたと振り返る。

「すごく負けず嫌いでしたし、ポジションを奪われたくない気持ちが強くて、そういう欲で頑張れていたのかなと思います」

【少しずつ大きくなった代表への思い】

 そんなプレッシャーのなかでも折れることなく努力を続けていると翌年、日本代表に初招集された。

「2011年に初代表で呼んでいただいて、最初は一緒に合宿しているメンバーを見ただけで緊張感がありました。全然チームに馴染めなくて、プレーも全然追いつかなくて、日々泣いていましたね。実際に初の公式戦であるモントルー大会(モントルーバレーマスターズ)でも出場機会は多くなく、監督の眞鍋(政義)さんがリリーフサーバーやスタメンで起用してくださった日もあったんですけど、結果が残せず、自分の精神面の弱さと技術の足りなさを痛感しました」

 結局、石井は大会の途中にケガで離脱することになったが、「たとえケガがなくてもレベルが違いすぎて、落とされていただろう」という。

「翌年ロンドンオリンピックで銅メダルを獲得された選手たちの姿を見ると、この方たちと一緒にちょっとはプレーしていたんだなと思ったら、やっぱりオリンピックに出たいという気持ちが強くなりました。それまでは『絶対に代表に行きたい』とか『オリンピックに出たい』と思ったことはそんなになかったんですが、出場した選手とのつながりとか、少しの経験からどんどん自分の目指す目標が大きくなっていったと思います」

 その思いを叶えるように2013年以降、石井は代表に選ばれ続け、リオ大会、東京大会と2回のオリンピックに出場した。しかし、スタメンには定着できず、役割としてはチームの流れが悪くなった時に、途中出場で流れを変えることが多かった。

「リオオリンピックのメンバー12人に古賀紗理那が入らなくて自分が選ばれた時は、うれしさもありつつとまどいと、自分が頑張らなきゃいけないとあらためて気が引き締まりました。決勝ラウンド1回戦敗退なので、いい結果ではないですし、私自身もパスが崩れて足を引っ張ってしまった。実際に現地で眞鍋さんに呼ばれて説教も食らいました」

 大会期間中に監督に呼ばれて説教とは......。どんなことを言われたのだろうか。

「私を含めて3人ぐらいが呼ばれて、『お前たちのせいで負けている、でも選んだのは俺、他のコーチたちからは他の選手のほうがいいという声もあったけど、最終的に選んだのは俺だから、頑張ってくれ。期待している』と喝を入れられました」

 石井はその言葉に少しショックを受けたが、逆に奮起するきっかけになったという。「自分のために頑張ろう」とスイッチを切り替えると、不思議とのびのびプレーできて、最終戦はアメリカ戦で負けたものの、食い下がることができた。

「ただ、自分でスイッチを入れられなかったことは悔しくて、次の東京オリンピックは自分が(チームを)引っ張るんだと、リオ大会を終えました」

【よく知る監督だからこその衝突】

 そして次の監督は、久光の監督だった中田久美さんだった。


東京五輪では苦しみながらも戦い抜いた photo by FIVB

「2017年から中田監督の代表合宿が始まったんですけど、久美さんとも戦いましたね。久光の時もそうでしたが、いつも怒られ役でした。ただ、バレーに熱い方ですし、普段はいじられたりとか明るい方なんです。久美さんのショートヘアがすごく好きだったので、直接、美容院を教えてもらって担当者も同じ方を指名したりしました」

 代表監督になった中田さんは、「代表はいろいろなチームからの寄り合いだから久光のときほど好き勝手は言えない」と言っていたという。しかし、久光の選手には、よく知っているからこそ期待もあったのではと石井さんは推測する。

「久光時代は、言われたことに対して何も言い返せなくて、ただ返事しかできなかったんですけど、久美さんが代表監督になった2017年には、自分でも思うことがあったので、初めて言い返しました」

「世界で勝ちたい、強くなりたい」と思うからこそ、監督との話し合いは欠かせなかった。

「言い返したのはプレーについてです。あとはすごく決めつけられた感じがしたので、『久美さんはどこをどう見てそう思われるんですか?』とか、みんなの前で言っていました。夜中に呼ばれて直接話をして、結局、久美さんの私に対する期待があっての厳しい言葉というのはすごく理解できて、長いつき合いであってもじっくり話さないとわからないこともあるなと、その時に感じました」

 次のオリンピックを迎える前に、常勝だった久光はVリーグで7位、8位と低迷した。この頃、石井は移籍も視野にあったと振り返る。

「私自身も自分のプレーが全然だったし、どうしていいかわからなくて、久光が嫌になったのではなく、東京オリンピックを目指す上でどうするのが一番いいのか迷った時期がありました。その時に1度環境を変えて、のびのびとバレーをしたいと思い、移籍しますとチームに伝えました。引き止めていただいて、また迷って......。久美さんと食事して、相談しました」

 中田さんは「久光にはブランド力があるし、久光の石井優希のブランドは捨てないほうがいい」とアドバイスしてくれた。その一言が、チームに残る大きなきっかけとなった。

「実際に引退まで久光に残って、移籍しなくてよかったと本当に思いました」

後編:「私は紗理那の代わりじゃない」東京五輪で出場したときの想い>>

Profile
石井優希(いしい ゆき)
1991年5月8日生まれ、岡山県出身。身長180cm。
高校卒業後、久光スプリングスに入団し、引退までの約13年間中心選手として活躍。2017−18シーズンには、久光のVリーグ王座奪還の立役者となり、最高殊勲選手賞を獲得した。日本代表としては19歳で初招集されて以降、苦しい時期を乗り越え、2016年リオ五輪、2021年東京五輪の大舞台を経験。2023年6月30日付で現役を引退し、8月には結婚を発表した。現在は、解説などを中心に活躍中。