「プロ野球で1億円稼いだ男のお金の話」 館山昌平(後編)

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 現役時代はトミー・ジョン手術を3回も行なうなど、常にケガとの戦いを強いられた館山昌平氏。それでも2009年に最多勝を獲得するなど、プロ野球選手にとって一流の証である「1億円プレーヤー」の仲間入りを果たした。そんな館山氏に引退後、あらためて気づいた「1億円プレーヤー」の価値について語ってもらった。


2009年に最多勝に輝き、2015年にはカムバック賞を受賞した館山昌平氏

【3度目のトミー・ジョン手術】

── 1億円プレーヤーになっても、それまでと変わらないスタンスを保つのは大変だったと思います。2009年は16勝6敗、防御率3.39で最多勝を獲得。10年は12勝(3完封)、11年は11勝(7完投・3完封)を挙げました。12年には12勝をマークしています。しかし、13年4月にトミー・ジョン手術を行ない、6月には股関節の手術もしました。

館山 2012年と2013年の年俸は2億2000万円でした。2013年4月にトミー・ジョン手術をして、その年の開幕投手だったのに、チームにまったく貢献できなかった。契約更改の時、球団の人に『一番下がる人はいくらのダウンですか』と聞いたら、4800万円だという。僕は『じゃあ、その倍は下げてください』と言ってトータル1億2000万円を球団に返しました。柱になるはずの自分がまったく活躍できなかったので。

── 館山さんは2014年に3度目のトミー・ジョン手術に踏み切りました。

館山 1回目の手術の時は、「またマウンドに戻れるだろうな」と思っていました。2回目は「戻れないだろうな」、3回目は「やるしかない」という心境でした。一番精神的にキツかったのは2回目の時。そもそも靭帯は再生できません。だから、自分の別のところから持ってくる。2回目は右の内転筋から、3回目が左手からでした。

── 古くは村田兆治さん(元ロッテ)、荒木大輔さん(元ヤクルト)らがトミー・ジョン手術からの復活を遂げました。現在では、どの球団でも数人がリハビリに励んでいます。しかし、靭帯を移植しても良好な状態が長く続くわけではありません。一説では、「よくて5年」とも言われていますね。大谷翔平選手(ロサンゼルス・エンゼルス)も2度目の手術を行ないました。

館山 2010年からはもう、ヒジがだらんとした状態でした。いつ切れてもおかしくないという感じ。靭帯を強化することはできないので、周囲の筋肉を鍛えて補うしかない。野手とピッチャーの故障は、根本的に違うんです。野手の場合は、何かのアクシデント、たとえばランナーとぶつかったりすることが多いんだけど、ピッチャーの場合は、原因が自分にあることがほとんどです。

── 10回も体にメスを入れた館山さんはどんな気持ちで手術を受けていたのですか。

館山 ある意味、自分の限界を超えた時に故障してしまう。だから、うれしいという気持ちもあるんです。もちろん、手術をしないといけない状況になったことは悔しい。リハビリの期間は、まわりの人に迷惑をかけてしまう。悔しいんだけど、『ここまでやれたか! 自分のベストが出せた!』とも思う。

【プロ野球で育てられた男の使命】

── 館山さんはリハビリの日々を乗り越えて、2015年7月、1019日ぶりに一軍で勝利を挙げます。11試合に登板し、6勝3敗、防御率2.89。14年ぶりのリーグ優勝に貢献し、日本シリーズで初登板を果たしました。シーズン後にはカムバック賞を受賞しています。

館山 僕も若い頃は自分の力以上のものを出したいと思っていましたけど、やっぱりうまくいかなかった。求められるものだけを出そうと思えば、緊張することはありません。僕の場合、野球がものすごくうまいわけじゃなかった。だけど、自分ができることだけやっておけば、まわりが勝手に評価してくれる。

 大事なのは、どんな準備ができたのかということ。先発投手なら、その1週間にやったことの答えがマウンドで出る。過去の自分の答え合わせができるんです。勝負どころで熱くならずに、自分の力を出せるかどうかで結果が変わってきます。

── 館山さんは現役引退後、独立リーグの福島レッドホープスの投手コーチに就任。そこではどんな指導をしましたか。

館山 若い選手たちには、「記憶と記録を間違えないように」と言いました。自分がどんな準備をしたのか、それをきちんと書き留めておいて、あとで振り返れるようにと。小さなことでもいいから書いておけば、自分を助けてくれるかもしれない。10回のうち1本ホームランを打たれて、残りを全部抑えたとします。記憶には1本のホームランが強く残るけど、9回は抑えたという事実がある。記憶に支配されてはいけないので。

── 時代が変わり、プロ野球選手の年俸が上がったとはいっても、1億円に乗せるのは大変なことです。

館山 1億円プレーヤーとして、名前が残ることはいいですよね。どの世代に人にも認知してもらえるので。僕はそれを10年続けることができました。小学1年生が10年経ったら高校生になりますよね。その間ずっと、1億円プレーヤーでいられたんですから。

── 現役引退後にもそれは生きていますか?

館山 プロ野球選手の特権というか、利点は、大きな会社の社長やすばらしい業績を残した経営者にも会えること。会うこと自体が難しい人に、自分のやりたいことを伝えることができる。それが一番ですね。僕はプロ野球でいくら稼いだかよりも、これから何をするかのほうが大事だと考えています。「館山はこれから何をやるんだ?」と楽しみにしてもらいたいですね。

── 館山さんにとって、お金よりも大事なものはありますか。

館山 時間でしょうね。引退したあと、家族旅行にはお金を使いました。モルディブとかハワイとかでゆっくり過ごしました。現役時代は留守にすることが多かったけど、やっと家族と思い出を共有できたかな。

 それ以外にも大事なものは、経験、仲間......いろいろありますね。僕は今、双葉町の復興事業に携わっています。浜通りと呼ばれる、津波の被害があったところを拠点に、復興活動、野球振興に力を入れています。僕は野球の力を信じているので、野球を通じて、みんなが集まれる場所をつくりたい。館山が関わることで、「変わったな」と思ってもらえるように。

館山昌平(たてやま・しょうへい)/1981年3月17日、神奈川県生まれ。日大藤沢高では3年春にセンバツベスト4。日大に進学し、2002年ドラフト3位でヤクルトに入団。04年にトミー・ジョン手術を受け、1年間のリハビリを経て05年に復活。初の2ケタ勝利を挙げる。09年には16勝で最多勝のタイトルを獲得。13年シーズン途中にまたしてもトミー・ジョン手術を受け長期離脱。15年に復帰を果たし、チームの優勝に貢献するなどカムバック賞に輝いた。19年限りで現役を引退し、楽天の二軍投手コーチを2年間務め、22年から福島レッドホープスの投手チーフコーチに就任した。