1億円プレーヤーとなった館山昌平「お金は残らなかったけど、いい仲間が増えた」使い方
「プロ野球で1億円稼いだ男のお金の話」 館山昌平(前編)
昭和のプロ野球では、一流の基準として「1000万円プレーヤー」という言葉があった。現在、一軍選手の最低年俸が1600万円に設定されていることを考えれば、そのハードルは5000万円、いや、1億円くらいまで上がっているかもしれない。NPBでランキング50位に入るためには、1億5000万円を稼がなければいけない。
3〜5年活躍すれば年俸が1億円の大台に乗る、そんな選手も珍しくなくなった。しかし、プロ野球選手には寿命がある。どんなにすばらしいスターも衰えとは無縁ではない。もう戦力にならないと判断された時は、すぐに働き場所を奪われる。そうなれば年俸はゼロ、無収入になってしまうのだ。「天国と地獄」を経験した元プロ野球選手に登場してもらい、お金にまつわるさまざまな話を聞いていこう。
今回ご登場いただくのは、ヤクルトの右のエースとして2009年には最多勝に輝くなど、一時代を築いた館山昌平氏。プロ野球選手にとってのひとつの夢である「1億円プレーヤー」も経験した館山氏に、お金の使い道、高年俸を得たことによって変わった世界について聞いた。
日本大学から2002年ドラフト3位でヤクルトに入団した館山昌平氏
── 「松坂世代」のひとりである館山さんは、1998年春のセンバツで甲子園の土を踏みました。その後、日本大学に進み、2002年ドラフト会議で東京ヤクルトスワローズから3位指名を受けました。入団する際の契約金は、1億円+出来高5000万円、年俸は1500万円でした。
館山 ドラフト会議のあとに球団からふたりあいさつに来られて、評価の内容と金額を伝えられました。大学時代はヒジの手術をしたこともあって通算8勝しかできませんでしたが、スワローズには高い評価をしていただきました。
── プロ1年目の2003年は10試合に登板して、0勝3敗、防御率5.19。いきなり投球フォームを変えましたね。
館山 プロに入った頃は上から投げていたけど、147キロくらいしか球速が出なくて。5月くらいに限界を感じたのと、ちょっと肩が痛いのもあって、少し横から投げてみたら、二軍で続けて完投、完封したんですよ。
── 200万円増で2年目のシーズンを迎えますが、2004年3月にトミー・ジョン(右ヒジの側副靭帯再建)手術を受けました。
館山 日本は四季がはっきりしているので、どの季節に手術をするかによって、その後の経過が変わってきます。キャッチボールを始めるのが冬だったら、12カ月での復帰は難しい。暖かい時期にトレーニングの強度を上げることができるなら大丈夫かもしれませんが......。だから、12カ月から18カ月はかかると言われています。もちろん、個人差はあります。
── リハビリに苦しむ選手も多いなかで、館山さんはプランどおりに回復していきましたね。
館山 自分でもよくやれたなと思います。リハビリ中はほかの人と絶対にスケジュールが合わないので、友たちがほぼいなくなります(笑)。もともと体が柔らかくて、可動域が広かったことがよかったみたいです。
── 2004年は登板なしに終わり、年俸は1300万円になりました。
館山 でも、一軍にいれば最低年俸(当時は1500万円)はもらえるので、全然気にしてなかったですね。
【実働5年で年俸1億円の大台に】── 2005年に戦列復帰。10勝6敗、防御率3.95という成績を残し、年俸は3700万円に上がりました。2006年は44試合に登板して、2勝5敗5セーブ、16ホールド、防御率3.95。2007年は45試合登板で、3勝5敗5セーブ、5ホールド、防御率3.17。
館山 年俸は4800万円、6700万円、1億円と上がっていきました。新聞で報道された金額と大きな差はありません。スワローズの場合、プラス、マイナス10パーセントくらいじゃないでしょうか。球団によっては発表された数字は違うことがあるようですけど。
── 2008年は24試合登板、12勝3敗、防御率2.99。この年、初めてオールスターゲーム出場を果たしました。トミー・ジョン手術で1年以上のブランクがありながら、館山さんはなぜ短期間で1億円プレーヤーになれたのでしょうか。スワローズでバッテリーを組んだこともある米野智人さんはこう証言しています。「館山さんは、ほかの選手とはまったく意識が違いました。寮に酸素カプセルを持ち込んだのは館山さんが初めてじゃないですか」と。どうような経緯で酸素カプセルを購入することになったのですか。
館山 プロ1年目は、疲労回復のために酸素カプセルのある施設まで通っていたんですが、往復の時間がかかりすぎるので、400万円くらいの酸素カプセルを自分で買って、寮の自分の部屋に置きました。寮の部屋は八畳くらいしかなくて、ゼミダブルのベッドとカプセルを置いたらスペースはなくなります。どれだけ効果があるかはわかりません。ただ、自分の妻やママ友がカプセルに入ったら母乳がよく出ると言っていたので、いいことがあるのかと。引退するまでに2台買いました。
【夢を与える商売だからいいクルマに乗る】── 晴れて1億円プレーヤーになった館山さんですが、心境の変化はありましたか。
館山 契約書に、本当に1億円と書かれるんですよ。それまでとはケタが違います。半分以上は税金なんですけど、1億円プレーヤーになったことで『〇〇しないとな』という気持ちが生まれてきました。後輩が夢を持てるように、「いい家に住まないといけないないよな? じゃあ買うか」「夢を与える商売だからいいクルマに乗らないと」とか。
自分たちの年齢が上がってから、僕と石川さんと青木宣親の3人で、後輩たちに対していいお金の使い方をしたんじゃないかな。みんなにいろいろな経験を積んでもらわないと、チームの未来につながらないなと思って。
── そう考えていても、実行するのは難しいと思うのですが。
館山 家庭が困らなければいい、くらいに思っていました。本当に仲間を大切にしていました。僕たちは、投手会もバンバンやりました。スタッフ全員にサングラスを配ったり、Tシャツをつくったり。僕と石川さんで神宮球場のシーズンシートを30席ずつ購入して、聾学校や盲学校の生徒さんを招待していました。僕たちが背伸びしてやったいろいろなことが、いつか生きてくると思います。お金はほとんど残らなかったけど、いい仲間が増えました。
── 高年俸を得ていると日本全国に知られることのデメリットはなかったんでしょうか。
館山 それはありましたよ。僕が稼いでいると思って、よからぬ人が近寄ってくることもありました。あまり親しくしたことのない先輩とか知り合いとか、何かのセールスの人とか。稼いでいると思われるかもしれないけど、税金を納めたらそんなに残ってないのに。普通に、バスにも電車にも乗りますからね。
館山昌平(たてやま・しょうへい)/1981年3月17日、神奈川県生まれ。日大藤沢高では3年春にセンバツベスト4。日大に進学し、2002年ドラフト3位でヤクルトに入団。04年にトミー・ジョン手術を受け、1年間のリハビリを経て05年に復活。初の2ケタ勝利を挙げる。09年には16勝で最多勝のタイトルを獲得。13年シーズン途中にまたしてもトミー・ジョン手術を受け長期離脱。15年に復帰を果たし、チームの優勝に貢献するなどカムバック賞に輝いた。19年限りで現役を引退し、楽天の二軍投手コーチを2年間務め、22年から福島レッドホープスの投手チーフコーチに就任した。