ジャパンオープンに出場した宮原知子

【現役引退後、初めての"復帰"】

 10月6日、さいたまスーパーアリーナ。氷上の宮原知子(25歳)は白いジャージを脱いで、全身真っ黒な姿になった。

 体はしぼれているようで、身軽さを感じさせるだけでなく、一つひとつの動きがしなやかで力強い。かつて全日本選手権で4連覇、世界ランキング1位になったこともある元女王は、一本に束ねた髪を揺らしながら、氷の感触を入念に確かめていた。

「自分がまた試合形式の舞台に立つのを、どんな気持ちで迎えるのか。今からワクワクで。緊張するとは思うんですけど、それを楽しみながら、自分を表現できるように」

 現在プロスケーターである宮原はそう言って、2022年3月に現役引退後、初めて"一日限定"で選手に復帰していた。

 リンクサイドで宮原はステファン・ランビエルコーチに真っ直ぐな視線を向け、直立不動で生真面目に話を聞いた。身を乗り出すようなランビエルの説明に、その表情が和らぐ。

 スピンの確認なのか、宮原がリンクの中央でくるくると回ると、「イエス!」というランビエルの声が大きく響いた。戻って話を聞く宮原の顔は花が咲いたようにほころぶ。

 彼女はそうやって、一つひとつの技を洗練させてきたのだろう。

「曲は『ロミオとジュリエット』なんですが、プログラム全体を通して物語に沿った振り付けになっているので。すべてをなげうって、表現しようと思っています。とくに最後のコレオシークエンスを」

 彼女は表現者の顔になった。「すべてをなげうって」という表現はやや大袈裟に聞こえるかもしれない。しかし彼女は掛け値なしに、そうやって一戦一戦に挑んできたのだ。

【すべてをなげうった物語】

 10月7日、ジャパンオープン。宮原はチームジャパン、女子3番手でリンクに立っている。緊張もあったはずだが、氷の上でスタートポジションを決めた時、表情はすでに物語の情感に満ちていた。

「愛と情熱と宿命をテーマに」

 そう語っていた『ロミオとジュリオット』の世界観に、彼女自らが入り込む。

 冒頭、宮原は3回転ルッツ+2回転トーループ+2回転ループを着氷している。前日練習では苦心していたが、みごとにやりきった。そして3回転ループも、前日は何度も何度もトライし、失敗のなかから成功の感覚をつかんでいた。本番では完璧なジャンプだった。

 2回転サルコウ+2回転トーループも成功させ、ステップはレベル4、ダブルアクセルを決め、スピンはレベル4、3回転ルッツも華麗に着氷した。3回転トーループ、ダブルアクセル+3回転トーループは回転不足やダウングレードがあったが、物語の流れは途切れさせなかった。

 最後はレベル4のスピン、クライマックスのコレオで命果てたように倒れる最後のポーズを決めたあと、総立ちの拍手を浴びた。

 123.22点で3選手が終った時点でトップ。例年の全日本選手権の最終グループ勢と比較しても、見劣りしないスコアだった。チームジャパンの一員として勢いを与え、優勝に貢献した。たとえ"一日限定"であっても、彼女は「すべてをなげうって」物語を完結させたのだ。

【坂本花織も称賛「もうちょっとやってほしい」】

 現役最後のインタビュー、宮原にこう尋ねたことがあった。

ーー浅田真央選手以後、日本女子フィギュアをけん引してきましたが、勝者の愉悦の瞬間をひとつだけ挙げるなら?

「なかなかひとつにしぼれないですけど、平昌五輪後のシーズン、NHK杯で2位だったんです。五輪の後だから気が抜けるという演技をしたくはない、と挑んだシーズンだったので、そこでいい練習ができてしっかりメダルをとれたのは、自分がつかんだ勝利だなって思えます」

 彼女は大きなタイトルをとった試合がいくつもある。にもかかわらず、グランプリ(GP)シリーズで2位になった試合を挙げた。その生き方こそ、宮原の本質なのだろう。スケーターとして、人並外れて求道的なのだ。

 プロスケーターになっても、その原点は変わっていない。だからこそ、今回は競技者にもすぐ戻れた。表現者として、そこに大きな溝は存在していない。

「ジャンプはいけそうな構成をしぼり出した感じです。現役の時よりちょっとしんどいのはありましたが、想像しているよりはすんなり入れて。思ったよりも、4分間を滑りきれるなって」

 宮原はそう語っていたが、"一日限定の復帰"は、その生き方が濃縮されていた。

 チームジャパンのひとりとして共に戦った島田高志郎は、宮原がスタートポジションをとった時の表情だけで涙が込み上げてきたという。どうにかこらえたが、内から出る感情が肌で感じられて、演技後はもはや涙が止まらなかったという。

「おかげで緊張とか嫌なものを流せて、スッキリして演技できました」と島田は宮原に感謝していた。

「まさか、感動で涙を流してもらえると思っていなかったので......」

 宮原はそう言ってうれしそうに笑い、表情を輝かせた。

「久しぶりの試合で、短期間での準備で不安もあったんです。でも、練習でできる限りのことを一個一個やってきました。本番でも練習と同じようにチームに貢献したい、と思っていたので。皆さんのおかげで優勝できてうれしいです!」


坂本花織と抱き合う宮原(左)

 スケーターとして、宮原の世界はこれからも広がり続ける。その演技はスケーターを感化させるほどに濃密だ。世界女王の坂本花織も「心揺さぶる演技で、一日だけの復活はもったいないなって。もうちょっとやってほしいなって」とリクエストしていた。

「曲に入り込んで滑ることができて、本当によかったなって思います」

 そう語った宮原は、これからも氷上の表現を極める。