中日の元エース今中慎二「カッとなることがなくなった」 巨人との「10.8決戦」の敗戦から得たもの
今中慎二が語る「10.8決戦」 後編
(中編:落合博満から仕掛けられた心理戦 「俺はカーブを狙う」の挑発に「一球も投げられなかった」>>)
今も多くの野球ファンに語り継がれている、巨人対中日の「10.8決戦」(6−3で巨人が勝利しリーグ優勝)。その試合で先発した今中慎二氏が語るエピソードの後編では、当時抱えていた肩への不安やこの試合で得た教訓などを聞いた。
1990年代、中日のエースとして活躍した今中慎二
――「10.8決戦」で中日は敗れてしまいましたが、仮にこの試合がもう1度あるとすれば、先発のマウンドに立ちたいですか?
今中慎二(以下:今中) 万全のコンディションで立ちたいです。自分だけでなく巨人のピッチャー陣も含めて、コンディションがいい状態で戦いたいですね。僕は肩の状態に不安がありましたし、巨人も斎藤雅樹さんが中1日、桑田真澄さんが中2日で登板していましたから。お互いに万全の状態だったらどんな試合になったんだろう、という思いはあります。
――今中さんはそのシーズン、いつ頃から肩に不安があったんですか?
今中 夏場に状態があまりよくなかったので、無理しないほうがいいなと思い、投手コーチに頼んで抹梢してもらったりしていました。その頃はチームが連敗していて上位とのゲーム差もあったので。ただ、抹消してもらった後だったと思うのですが、チームが連勝し始めたんです。
それで結局、10日後には一軍に上げられることになってしまって。抹消されていた期間はキャッチボールを軽くやっていただけでピッチングは1回もしていなかったので、「この状態では一軍に上がれませんよ」と言ったのですが、「今、最多勝だろ? 来るだけ来てくれ」と一軍に呼ばれて、その日に投げさせられたんです。
――今中さんは、個人タイトルにはあまりこだわりがない?
今中 こだわりがないんです。タイトルなんて、周りが意識してくれた時に初めて狙えるものですし、自分で意識することはなかったですね。特に最多勝は、打つほうとの兼ね合いだと思っていますから。
【10.8決戦は「集中しすぎた」】――個人タイトルにこだわりがない一方、「10.8決戦」は是が非でも勝ちたかった?
今中 勝ちたかったですね。勝っていたらどうなっていたんだろう、という想像もします。その後の野球人生も変わっているかもしれないですし、あの年の日本シリーズに出ていたとしたら、相手は黄金時代の西武ですしね。
ただ、僕らは負けてしまったこともあって、日本シリーズは1試合も見なかったです。気晴らしでゴルフをして、野球のことを忘れてオフを過ごしていましたね。ぼ〜っとしていた時間が、いつものシーズンより長かったような気がします。
――この試合に出場した中日や巨人の選手たちと、この試合について語る機会もあったと思いますが、印象的な話はありましたか?
今中 巨人の村田真一さんや槙原寛己さん、桑田真澄さんとか、一緒に取材を受けてこの試合を振り返ったことは何度かあります。試合前のミーティングで、巨人の長嶋茂雄監督が「勝つ!勝つ!勝つ!」と連呼していた話を聞いた時は、長嶋監督はそういう思いで試合に臨んでいたんだと、覚悟を感じましたね。ただ、普段の生活の中で、この試合のことを誰かと話すことは一切ありません。
――ちなみに、今中さんの野球人生の中で、一番印象的な試合はこの試合ですか?
今中 インパクトの大きさでいえばこの試合ですが、やっぱり初登板と初めて開幕投手を務めた試合が印象に残っていますね。この2試合だけはめちゃめちゃ緊張しました。1年目の5月に初登板した時は緊張しまくっていましたし、初めて「怖いな」と思ってちびりました(笑)。緊張で腕が振れなくなって、「腕が振れねぇ」と思いましたし、あまりの打球の速さにびびっちゃって。
開幕戦(1993年、対阪神)を初めて任された時は、それほど緊張はしていなかったんです。でも、いざ試合前のブルペンに行った時、キャッチャーからの返球をノータッチでスルーしてしまいました。捕ったつもりがボールを後逸してしまっていて、「俺、緊張してんじゃねぇの、これ」って。それと、疲労感は強烈でした。5回ぐらいでへばっているのが自分でもわかりましたよ。
――10.8決戦の時はそういう疲労感ではなかった?
今中 そうですね。あの試合に限っては疲れるとかではなく、試合に"集中しすぎた"のかもしれません。冷静にいられたのでまわりがけっこう見えていたでしょうし。ただ、落合さんに詰まった当たりでのタイムリーを打たれてから、一瞬でカッとなってしまって、そこからは「もうどうでもいいや」じゃないですけど、周りが見えなくなっていたんです。
【10.8決戦から得た教訓】――ペナントレースの最後の試合で、勝ったほうが優勝という前代未聞の試合。この試合を経験したことが、今中さんの野球人生に生かされましたか?
今中 生かされたと思います。いい意味でよかったというか......。周りは負けてどうのこうのって言ってきたりしますが、個人的には負けたからこそいろいろなことを学べたという思いもあるので。例えば、「何が起きても、冷静に投げなければいけない」とか、「当たりがよかろうが悪かろうがヒットはヒット」と認めて割り切らないといけない、といったことなどですね。
引きずっても何にもなりませんから。この試合を経験してから、ボテボテの内野安打とかポテンヒットを打たれたりした時にカッとなることがなくなりました。そういうよくない当たりのヒットを打たれても、すぐに切り替えてスッと次のバッターに入っていけたので。
――10.8決戦以降の1995年、1996年も二桁勝利を挙げて(1993年から4年連続で二桁勝利)ピッチャー陣を牽引されていました。
今中 ただ、肩を壊してしまったこともあって、実質1996年までしか投げていませんけどね(引退は2001年。1997年以降は連続二桁勝利が途絶え、2001年までの4年間は4勝にとどまる)。それでも、1995年と1996年は10.8の教訓を生かしたピッチングができましたし、1996年は星野仙一さんが中日の監督に復帰(第二期政権)されたシーズンでもありました。第一期政権の頃と比べて、星野さんに何を言われても冷静にやれていたと思います。
――10.8決戦の経験は、指導者になってからも生かされましたか?
今中 投手コーチを務めた時は、打たれたりした後の"切り替えることの大切さ"を常々説いていました。特に先発ピッチャーは長いイニングを投げるので、打たれたことをずっと引きずっていたら投げられなくなってしまう。みんな性格がバラバラやから難しいんですけどね。
あの試合が自分の野球人生の教訓になったことは間違いないですし、メンタルの部分で相当に勉強できたなと思います。
【プロフィール】
◆今中慎二(いまなか・しんじ)
1971年3月6日大阪府生まれ。左投左打。1989年、大阪桐蔭高校からドラフト1位で中日ドラゴンズに入団。2年目から二桁勝利を挙げ、1993年には沢村賞、最多賞(17勝)、最多奪三振賞(247個)、ゴールデングラブ賞、ベストナインと、投手タイトルを独占した。また、同年からは4年連続で開幕投手を務める。2001年シーズン終了後、現役引退を決意。現在はプロ野球解説者などで活躍中。