なぜ日本人の賃金は上がらないのか。ジャーナリストの山田順さんは「正規雇用者の労働流動性を高め、年功序列、終身雇用システムを止めていれば、日本人の平均賃金はもっと上がっただろう。しかし、政府は非正規雇用を増やして、正規雇用の仕事をさせるという“逆行政策”を取ってしまった」という――。

※本稿は、山田順『日本経済の壁』(MdN新書)の一部を再編集したものです。

■平均賃金は韓国より下で、アメリカ人の半分

もうくどいほど言われているが、現在の日本人の平均賃金は、世界の主要国のなかでは低いほうに位置する。本稿執筆時点でのOECDの最新データ(2021年)では、加盟38カ国中24位である。

次の[図表1]にあるように、もっとも平均賃金が高いのはアメリカで、7万4738ドル。以下、ルクセンブルク、アイスランド、スイスと続く。日本はというと、ずっと下がって、韓国や中東欧のスロベニアやリトアニアより下で3万9711ドル。アメリカの約半分である。

出所=『日本経済の壁』

■もはや「先進国」でも「中進国」でもない

OECDの平均は5万1607ドルなので、日本はもはや「先進国」でも「中進国」でもなくなってしまった。

順位で言うと、1991年には13位(当時の加盟国は24カ国)、2000年に18位、2010年に21位、2015年に24位というように年を追うごとに順位を落としてきた。

[図表2]は、G7各国の平均賃金の推移(1991年〜2021年)のグラフである。1991年当時、日本の平均賃金は3万6879ドル。アメリカの4万6975ドルよりは低かったが、英国やフランスよりも高かった。

出所=『日本経済の壁』

しかし、その後の2021年までの30年間で、日本の平均賃金はわずか3000ドルほどしか増えなかった。それに対して、アメリカは約2万7000ドル、ドイツ、カナダ、英国、フランスは1万ドル以上増えている。これを伸び率で見ると、アメリカが53.2%、英国が50.4%となるが、日本はわずか6.3%だから、この30年間、時間が止まっていたのと同じだ。

OECD38カ国の下から数えたほうが早い

ところで、OECDの数値は各国の通貨をドルに換算したもので、日本の場合、為替レートは2021年の平均1ドル109.8円で換算されている。そこで、為替レートを本稿執筆時点(2023年3月)の1ドル135円で換算してみると、日本の平均賃金は約3万3000ドルになってしまう。

2022年の記録的円安の1ドル150円で換算すると、なんと約2万9000ドルである。これだとポルトガルを下回り、OECD38カ国中31位まで順位は転落する。

一般的に賃金は、その国で平均的な暮らしができるレベルに合わせて、市場によって決まる。そのため、スタグフレーションが亢進すると、平均賃金ではまともに暮らせないことになる。

■「内部留保を給料に還元せよ」は実現できない

これもすでにさんざん言われているが、なぜ、日本だけが賃金が上がらなかったのだろうか?

その答えは、いたってシンプル。それは、日本だけがほとんど経済成長をしなかったからだ。

経済成長は、人口の増加、労働生産性の伸び、イノベーションなどによってもたらされる。この30年間あまり、日本ではこの三つとも起こっていない。日本は人口減に陥ったうえ、労働生産性も伸びず、イノベーションも起こらず、ただ漫然と同じ日常を続けて、世界から取り残されてしまったのである。

給料が上がらない原因を、企業が内部留保を貯め込んで給料として還元していないからだという批判がある。たしかに、日本企業の内部留保は516兆円を突破し、異様な水準であることは間違いない。

しかし、内部留保というのは、賃金を含むすべての経費や税金を差し引いて得た利益で、これを投資に回さなければ企業は成長しない。日本企業の場合、国内での設備投資はそれほど増やしてこなかったが、その分、海外での設備投資や企業買収に資金を投じてきた。

つまり、内部留保とは、金庫や銀行に貯め込んだ現金のことではない。だから、内部留保で給料を払うことなどできない。

■「課税して国民に分配する」は社会主義

内部留保に課税しろと言う政治家までいるが、そんなことをすれば、一般企業の場合は企業体力が大きく落ちるため、景気悪化時には大規模なリストラが発生するだろう。内部留保課税はたしかにできなくはない。しかし、それは節税目的で利益を貯め込んでいる特定同族会社のような会社に対して行うものだ。

この国では、お上が「稼いだカネは差し出せ。それをわれわれが国民に分配する」と常に言っている。そう考えざるをえない。これはもう「これ以上稼いではいけない」と言っているのと同じだ。

まさに、間違いなく社会主義である。

■給料を上げたら減税するというトンデモ政策

なんとかして給料を上げたい。そうすれば、国民は喜び、選挙の票も獲得できる。そう政治家が考え、できてしまったのが、「賃上げ促進税制」である。

写真=iStock.com/y-studio
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これは、企業が従業員の給料をアップさせると、大企業で支給額の最大20%、中小企業で最大25%を法人税から控除されるという制度だ。この制度は、2022年度の税制改正によって改正され、2023年からは控除率が大企業で最大30%、中小企業では最大40%に引き上げられた。

しかし、これもまたとんでもない制度である。こうすれば、たしかに給料は上がるかもしれないが、その原資は企業の利益ではなく減税だから、もとをただせば税金である。つまり、税金で給料の一部を補填しているのと同じだ。

これのどこが、本来の給料のアップだろうか?

■「経済低迷の原因はデフレ」は間違っている

この国の政治家は、ほぼみな社会主義者である。とくに保守を自認している政治家は、自身の主張が資本主義市場経済に反しているとは思っていないようだ。

たとえば、2021年10月、当時、自民党で政調会長を務めていた高市早苗議員は、「私案だが、現預金に課税するかわりに、賃金を上げたらその分を免除する方法もある」と、企業の現預金に対してなんらかの税を課すことを提唱した。

こうした倒錯した考え方は、アベノミクスを支持した多くの政治家、官僚、専門家に共通する。その最たるものが、日本の経済低迷の原因はデフレにあり、デフレから脱却すれば経済は成長するというものだ。これは、原因と結果を取り違えた見方で、経済低迷の原因はデフレではない。

経済が低迷しているからデフレになるのであって、デフレを単にインフレに転じさせても経済は成長しない。

■日本の賃金が上がらなかった本当の理由

金融緩和によって経済が活性化するなど、ほぼありえない。そんなことより、経済成長をはばみ、賃金の上昇を妨げている制度を改革すべきだった。たとえば、正規雇用者の労働流動性を高め、年功序列、終身雇用システムを止めていれば、日本人の平均賃金はもっと上がっただろう。

しかし、これまで日本がやってきたのは、非正規雇用を増やして、彼らに正規雇用の仕事をさせるという“逆行政策”だった。

日本人の平均賃金が上がらなかったのは、経済成長ができなかったからだが、そうなってしまった構造的な原因は、賃金が安く済む非正規雇用者を増やしたことにある。いまでは、非正規雇用者は、約2101万人で日本の全雇用労働者の約4割を占めるまでになった。

非正規といっても、「同一賃金同一労働」が実現していれば、問題は大きくならなかっただろう。しかし、日本は“身分社会”のため、両者の格差は歴然とついてしまった。

■年金だけでは暮らせない高齢者は働き続ける

厚生労働省の「賃金構造基本統計調査」(2021年)によると、正社員・正職員の平均給与は323万4000円(年齢42.2歳、勤続年数12.5年)、非正規雇用者は216万7000円(年齢48.8歳、勤続年数8.7年)となっていて、年収に100万円以上もの差がある。

しかも、非正規雇用者は、今後さらに増え続ける傾向にある。いまや多くの企業で定年はなくなり、人々はかつての定年年齢を過ぎても働き続けている。これは年金だけでは生活が成り立たないからだが、こうした高齢者の雇用のほとんどが非正規であり、その賃金は現役時代の半分がいいところである。

このような非正規の高齢労働者が労働市場に存在するかぎり、平均賃金が上がるわけがない。

スタグフレーションは、非正規労働者の暮らしを窮地に追い込む。2022年秋から、一部の企業は一時的なインフレ手当を社員に支給するようになった。しかし、これは余裕のある大企業だけの話であり、当然ながら非正規社員には支給されない。

■毎年繰り返される「官製春闘」という“愚行“

安倍政権、菅政権、そして岸田政権と、歴代政権は日本人の給料を上げるために、なにをしてきただろうか?

驚くべきことに、首相による賃上げの「お願い」が毎年繰り返されてきた。日本独特の労使交渉「春闘」の時期になると、日本の首相は労働組合に代わって、経営側に賃上げを要求するのだ。この「官製春闘」は、2013年に当時の安倍晋三首相が始めて以来、今日まで続いてきた。

2023年正月、岸田文雄首相は伊勢神宮参拝後の年頭記者会見で、「今年の春闘はインフレ率を超える賃上げの実現をお願いしたい」と述べ、賃上げを実施した企業の法人税を優遇する措置を打ち出した。

前記したように、これはとんでもない“愚行”である。

岸田首相は、就任時に「新しい資本主義」を打ち出したが、その新しい資本主義について、こう説明した。

「成長と分配の好循環による持続可能な経済を実現するのが、その要です」
「その第一は、所得の向上につながる賃上げです。春には、春闘があります。近年、賃上げ率の低下傾向が続いていますが、このトレンドを一気に反転させ、新しい資本主義の時代にふさわしい賃上げが実現することを期待します」

写真=iStock.com/Yusuke Ide
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この発言で、首相が資本主義をまったく理解していないことがわかる。なぜなら、賃金は市場によって決まるもので、それが資本主義市場経済だからだ。

■企業の賃上げは「首相の一声」のおかげではない

2023年の春闘は、インフレが亢進したため、大手企業は例年以上の賃上げに踏み切った。

たとえば、「ユニクロ」を運営するファーストリテイリングは、3月から正社員約8400人の賃金を最大で40%引き上げた。任天堂は、4月から正社員のほか嘱託社員やアルバイトも含めて全社員の基本給を10%引き上げた。そのほか、野村証券、三井住友銀行などの金融機関も異例の賃上げに踏み切った。

しかし、これは、首相が要請したからではない。たとえばユニクロの広報担当者は、柳井正会長兼社長の考えとして次のようなコメントを出した。

「報酬改定は成長戦略の一環として準備してきた。よって政府の賃上げ要請などとは無関係」
「世界水準の仕事をお願いするなら、母国市場である日本の報酬も世界水準にしなければならない」

首相が要請すれば賃金が上がるなら、企業はみな国営企業になってしまい、市場経済は成り立たなくなってしまう。

■本来、賃金はどうやって決まるべきなのか

世界でも日本だけにしかない「春闘」があるせいか、日本人は、給料は労使交渉によって決まるものだと考えている。しかし、その考えは間違っている。労働者と経営者との交渉が賃金決定に影響を及ぼすのはたしかだが、それ以前に、企業が利益を上げていないかぎり、賃金は上がりようがない。

企業は、売上から売上原価を差し引いた「粗利益」(売上総利益)のなかから、賃金、利子、税などの支払いを行っている。この粗利益は、企業会計上において「付加価値」と呼ばれている。賃金の総額は、この付加価値の総額に左右される。

つまり、付加価値が多ければ賃金の総額を多くできるが、少なければ少なくせざるをえない。粗利益がマイナスになっている場合は、モノやサービスを売れば売るほど赤字(損失)が膨らむ状況なので、賃金を上げようがない。

また、市場全体の動向も賃金を決める重要な要素の一つだ。賃金も物価と同じで、需要と供給によって決まる。つまり、労働力が豊富に存在する市場では賃金は低くなり、その逆で、労働力が不足している市場では賃金は高くなる。人手不足の市場では、自然に賃金は高くなる。

■政府が市場経済を歪めてはいけない

さらに、労働生産性も賃金を決める要素の一つだ。労働者1人に対しての付加価値額を労働生産性としているが、これが向上すれば賃金は上がる。労働分配率を一定とすれば、付加価値の増加分の一部が賃金に分配されるからだ。

山田順『日本経済の壁』(MdN新書)

労働生産性は、たとえばデジタル化を進めれば、仕事の効率がよくなって、労働生産性は上がる。

このように、賃金が決まるにはいくつかの要素があり、これらの要素が満たされないかぎり、賃金が恒常的に上がることはない。それなのに、日本政府は春闘に口出しをし、市場経済を歪めている。

企業によっては、首相の顔を立てて、賃上げに付き合うところもある。しかし、それは一過性であり、逆に弊害も大きい。

たとえば、ある企業が市場で決まる条件を無視して賃上げをした場合、当然ながら利潤は減り、長期的に見ると競争力を失って倒産する可能性があるからだ。

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山田 順(やまだ・じゅん)
ジャーナリスト、作家
1952年、神奈川県横浜市生まれ。立教大学文学部卒業後、光文社に入社。『女性自身』編集部、『カッパブックス』編集部を経て、2002年、『光文社 ペーパーバックス』を創刊し編集長を務める。2010年より、作家、ジャーナリストとして活動中。主な著書に、『出版大崩壊』(文春新書)、『資産フライト』(文春新書)、『中国の夢は100年たっても実現しない』(PHP研究所)、『永久属国論』(さくら舎)などがある。翻訳書には『ロシアン・ゴットファーザー』(リム出版)がある。近著に『コロナショック』、『コロナ敗戦後の世界』、『日本経済の壁』(MdN新書)がある。
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(ジャーナリスト、作家 山田 順)