開発中止の MSJ、残存機はどうなる? 挑戦は“なかったこと”にされるのか 試される三菱の度量
実用化することなく開発が終了となった国産ジェット旅客機「三菱スペースジェット(MSJ)」。今後「残った実機を展示するどうするか」が注目されます。そしてここは、三菱重工の“度量”が問われるポイントです。
6機が製造され、国内には2機が存在
2023年2月7日、三菱重工グループの三菱航空機が手掛けるジェット旅客機、MSJこと三菱スペースジェット(旧称:MRJ)の開発終了が正式発表されました。ここで注目したいのポイントのひとつは、残された機体がどうなるのか、ということです。
初の国産ジェット旅客機としてデビューする予定だったものの、実用化されず終わったMSJ。筆者は残存機たちを「失敗の教訓」として公開展示し、将来航空界を目指す若手に見てもらい、開発の厳しさなどを実感してもらう役目を持たせることが大切ではないか、と考えています。
「MRJ」と呼ばれていた時代のスペースジェット(画像:photolibrary)。
MSJは国土交通省の登録記号を見ると、JA21MJからJA26MJまで、地上試験用の1機を含めて6機が実際に造られました。このうち米国へ4機が飛び飛行試験を続け、開発がいったん「立ち止まった」あと、2022年3月に米国内で保管されていたJA23MJ(3号機)が登録を抹消され解体されています。
このため、日本国内には地上試験用を含めて2機が保管されていることになります。状況から見ると、保管場所は愛知県小牧市の県営名古屋空港でしょう。
残されたMSJが今後、どのように扱われるのかについては、まだ公式に発表はありません。とくに動向に注目したいのは、国内に残る2機です。MSJの実機を恒久的に公開展示すれば、後学にとって、このうえない教材になるでしょう。
「MSJ」の実機展示、日本航空業界の発展には必要?
戦後初の国産旅客機となったYS-11は、海外の航空会社への販売実績もありましたが、商業的に赤字で終わりました。当時は「飛行機は造れるけど旅客機は造れない」と揶揄されもしました。しかし、開発に参加した設計士や操縦士、営業活動に汗を流したセールス担当、ユーザーの立場で参加した航空会社の社員などが多くの回顧を残し、それが教訓となっていました。
MSJについては、開発がうまくいかなかったのはマネージメント力や日本人・外国人開発陣の連携不足、グローバル・スタンダードとなっている米国FAAの型式証明(そのモデルが一定の安全基準を満たしているかどうかを国ごとに審査する制度)を取る難しさなどが指摘されています。
しかし、直に開発に携わった人々による、悔しさや反省を吐露する声はYS-11ほど多くはありません。また一時期は累計の受注が400機以上と、YS-11の生産数182機を超すなど、YS-11よりも良いスタートを切りながら、実際は航空会社が使う機体は1機もなく終わります。このことも、「失敗の教訓」を語る機会を今後より少なくする要因となるでしょう。
2020年の小牧空港「スペースジェット」格納庫の様子。
開発中止にこそなりましたが、MSJはYS-11以来の挑戦だったのは確かです。その挑戦の軌跡より鮮明に残すには、実機に敵うものはありません。公開展示をMSJ実機の“新たな役割”とするのです。なお、MSJの最終組立工場内には、2017年にミュージアムが開館し、実機の製造作業を見学でき、胴体などの実物大模型も展示されていましたが、現在は臨時休館中です。
MSJの公開展示は、三菱重工にとっては大変気の重い話でしょう。しかし、「失敗の教訓」を正直に見せることは、長い目で見れば企業としての“度量”を示すことになります。
一方、三菱重工は、過去に同じように教訓として実機を残しています。国内開発したものの、商業的に失敗したMH2000ヘリコプターです。現在この実機は、あいち航空ミュージアムで展示されています。
官民挙げてのプロジェクトであったMSJは、経済産業省から500億円の支援を得ています。公費を使った結果を国民へ公開すると考え合わせれば、国内に残った機体の展示は必要と、筆者は考えています。