気球 VS 戦闘機 100年の戦い 「たかが風船」相手に人類はどれほど手を焼いてきたのか
アメリカによる飛行物体の撃墜が相次いでいます。気球にF-22戦闘機を発進させ対処したのはオーバーキル(やりすぎ)のようにも見えますが、この「気球対戦闘機」という図式は、実は100年前から変わらないものです。
複葉機の時代から因縁の相手だった気球
2023年2月に入り、アメリカ空軍は4機の飛行物体をアメリカ領空で撃墜しました。その内2月4日(現地時間)に撃墜した飛行物体は、中国の超大型偵察用気球であることが判明しています。それ以外の3機については、国防総省は気球とは明言していません。
2月4日の迎撃には、バージニア州ラングレー空軍基地のアメリカ空軍第1戦闘航空団に所属するF-22戦闘機「ラプター」が出動し、中国の気球をミサイルで撃墜しました。「第5世代の高性能ステルス戦闘機 vs 気球」、すなわち究極のハイテクとローテクの対決という図式で、勝負にもならないように思いますが、高高度飛行する気球はF-22にとっても厄介な敵でした。
1916年8月7日ソンム戦線で撮影された準備中のイギリス軍の観測気球。右下には水素ガスボンベが積み上げられている(画像:IWM/帝国戦争博物館)。
気球(軽航空機) vs 戦闘機(重航空機)のライバル関係は、実は100年以上も続いています。
航空業界では気球がずっと先達でした。最初に人が飛行したのは1783年のことで、フランスのモンゴルフィエ兄弟の熱気球によるものでした。重航空機が人を乗せて飛行したのは、それから120年も経過した1903(明治36)年、ライト兄弟によるものでした。
気球は、人を乗せて飛行したわずか11年後には、軍用に使われます。1794年フランス陸軍は、オーストリア軍とのフリュリュスの戦いで、偵察のために水素ガスの気球を使用しました。もっともその効果については軍と科学者で評価が分かれています。軍はあまり有効性を認めず、取扱いの難しさもあって、このころ軍用としてはあまり活用されませんでした。
仏陸軍の観測気球ゴンドラ。観測機材や有線電話などが搭載されている。偵察員には3次元的に目標の位置関係を認識する特殊技能が求められた(画像:IWM/帝国戦争博物館)。
19世紀に入ると、射程が伸びた砲兵の間接射撃観測のため、気球による偵察が見直されるようになります。1870(明治3)年の普仏戦争ではフランス、プロイセン両軍が偵察や連絡手段として気球を多用しました。プロイセン軍に包囲されたパリから、外部と連絡を付けるため、66機もの気球が建造されて飛び立っています。
気球が浮かんでいるということは、自分の上に砲弾が降ってくるかもしれないことを意味します。それで気球を撃墜する方法も盛んに研究されました。現代でも使われている傑作機関銃ブローニングM2 12.7mm機銃は、もともと対気球用にこのころ開発されたものです。
落とすにも厄介な有人気球はやがて飛行船へ
見かけによらず気球は強靭です。普仏戦争でパリを包囲していたプロイセン軍も、上空を飛び越えていくフランスの気球を撃ち落とそうとしますが、発進した66機のうち撃墜できたのは1機のみでした。
1909(明治42)年にドイツ陸軍が実施した対気球戦の研究記録によると、高度1200mに係留した15mの気球にマキシム機関銃で2700発射撃し、命中弾は76発だったとか。標的気球は微動だにせず浮揚し続けたそうです。
敵機が迫って気球の地上回収が間に合わないと判断すると搭乗員はゴンドラからパラシュートで脱出した(画像:IWM/帝国戦争博物館)。
第1次世界大戦が勃発すると、固定翼の戦闘機が実用化され気球攻撃に使われるようになりますが、そうなっても気球はやはり難敵でした。周囲には阻塞(そさい)気球(航空機を妨害するため係留された気球)や対空火器が配置され、敵護衛戦闘機と空中戦になることもあります。止まっている気球を射撃するのは速度差があり過ぎて照準が難しく、浮揚ガスである水素が爆発すれば巻き込まれる可能性もありました。
「アリゾナ・バルーン・バスター」の異名をとったフランク・ルーク・ジュニア少尉。この写真が撮影されたのは戦死10日前という(画像:サンディエゴ航空宇宙博物館)。
5機以上撃墜すれば「バルーン・バスター」と呼ばれ、撃墜王として讃えられるほどでした。ちなみに2023年2月4日に中国の気球を撃墜したF-22のコールサインである「フランク01」「フランク02」の「フランク」は、第1次世界大戦でドイツ軍気球14機とドイツ軍機4機を撃墜し、「アリゾナ・バルーン・バスター」の異名をとったアメリカ陸軍航空隊のフランク・ルーク・ジュニア少尉にちなんだものです。少尉は1918(大正7)年9月29日、気球撃墜後に自らも撃墜され戦死しています。
霞ヶ浦上空の民間飛行船「グラーフ・ツェッペリン」号。WW1後の1929年、世界一周飛行で来日。左下の人物は船長を務めたフーゴー・エッケナー博士(個人所蔵写真)。
第1次世界大戦では、気球に推進装置をとりつけた飛行船も軍用兵器として投入されました。飛行船もいわゆる軽航空機に分類され、気球の直系にあるといえるものです。
そして軽航空機 vs 重航空機のハイライトは、「空の魔王」ツェッペリン飛行船 vs イギリス戦闘機といえるでしょう。飛行船は身を守るため飛行高度をどんどん上げ、非力な戦闘機がやっと上り詰めるという構図が21世紀に再現されているのも皮肉です。
気球は無人の大陸間横断兵器へ
第2次世界大戦でも気球 vs 戦闘機の戦いはありました。
日本は太平洋戦争末期に高空を吹く偏西風を利用した世界最初の大陸間横断兵器を実用化しました。「ふ号兵器」と呼ばれた風船爆弾です。アメリカ軍は対策に頭を痛めます。爆弾としては小型でしたが、生物兵器を搭載するかもしれないという懸念や心理的効果が大きかったのです。
アメリカ陸軍機が撮影した飛翔中の風船爆弾(画像:アメリカ海軍国立博物館)。
何とか発見、捕捉しようと、墜落した「ふ号」のレーダー反射率を調べてレーダーを調整しましたがうまくいきません。太平洋沿岸に電波受信サイトを設けて「ふ号」が発する電波を捕えようとし、95の疑わしい信号を検出するものの、そもそも送信機を持つ「ふ号」は少なく迎撃には役立ちません。
1945年4月11日、アッツ島付近で撮影された風船爆弾を迎撃するP-38戦闘機のガンカメラ映像(画像:11th Air Force Fighter、Public domain、via Wikimedia Commons)。
結局「ふ号」の発見はほとんど目視に頼るしかなく、戦闘機がスクランブル発進しても捕捉できることは稀でした。それでも約20機を撃墜したとされます。終戦後、GHQは日本の航空機研究を禁止しますが、その中には気球も含まれていました。
米大陸で風船爆弾が発見された場所を示した分布図。今回の中国気球の飛翔コースと類似している(画像:Robert C. Mikesh、Public domain、via Wikimedia Commons)。
21世紀に入っても気球は戦闘機のライバルであり続けています。「バルーン・バスター」の称号は復活するのでしょうか。