戦艦「大和」、敵艦に“主砲撃て!” 日米初のレーダー砲撃戦、 結果は?
太平洋戦争で行われるようになったレーダーによる遠距離砲撃。一般的に旧日本軍のレーダーはアメリカ軍のものよりも劣っていたといわれますが、実際はどうだったのでしょうか。日米ともにレーダー射撃を行った海戦を見てみます。
太平洋戦争最後の艦隊決戦
旧日本海軍の水上艦艇が敵艦隊に対して砲撃戦を仕掛けた最後の戦いが、1944(昭和19)年10月25日に起きたサマール沖海戦です。なお、この戦いは、戦艦「大和」が敵艦に主砲を撃った唯一のケースであるだけでなく、直前のスリガオ海峡海戦とともに日米艦隊がレーダーで砲撃し合った特別な海戦という側面もあります。
一般的に、当時の日本軍はアメリカ軍と比べてレーダー技術で劣っていたといわれますが、この海戦における実態はどうだったのか、振り返ってみましょう。
旧日本海軍の戦艦「大和」(画像:アメリカ海軍)。
そもそもサマール沖海戦とは、10月23日から26日にかけてフィリピン周辺海域で起きた各種海戦のなかのひとつです。この時期、シブヤン海海戦、スリガオ海峡海戦、それにエンガノ岬沖海戦も起きており、それに前出のサマール沖海戦などを加えた海戦を総称してレイテ沖海戦と呼びます。
戦いは、フィリピン中部のレイテ湾に上陸したアメリカ軍を砲撃するために出撃した旧日本海軍の連合艦隊(栗田艦隊ほか)と、これを迎撃するアメリカ太平洋艦隊とのあいだで行われました。
圧倒的な航空優勢にあるアメリカ軍側の航空攻撃で、主力の栗田艦隊は24日に戦艦「武藏」が沈没するなど多くの犠牲を出しつつも、日本の空母部隊(小沢艦隊)を囮にした作戦にアメリカ第3艦隊が食らいついたことで、栗田艦隊は戦力を十分に温存したまま、レイテ湾の手前にあるサマール沖まで到達します。
そこにいたのは、レイテ湾のアメリカ上陸部隊を航空支援する第7艦隊の護衛空母部隊「タフィ3」でした。
日本海軍のレーダー射撃の評価は?
サマール沖での戦闘は、栗田艦隊の砲撃で火蓋が切られました。タフィ3との距離は約3万2000m。日本艦隊の最大射程は戦艦「大和」が4万8000m、戦艦「金剛」「榛名」は3万5400mなので、砲弾は届くものの命中弾を得るのは難しい距離でした。
サマール沖海戦で奮闘したアメリカ海軍の駆逐艦「ヒーアマン」。マストの頂上にSCレーダー、手前の艦橋頂部にMk37射撃指揮装置を装備している(画像:アメリカ海軍)。
本来なら駆逐艦からなる水雷戦隊を先行させ、その間に戦艦と重巡洋艦が距離を詰めて砲撃と雷撃を同時に行うのが定石です。ところが、栗田健男司令長官は戦艦へ攻撃を優先させました。
この時、栗田艦隊が砲撃に使用したレーダー(電探)は1942(昭和17)年に採用された「対水上用22号電探」です。この電探はのちに、駆逐艦にも搭載できるよう小型化された「改二」や射撃用にも使える「改四」へと改造され、サマール沖で戦艦が搭載していたのは、故障が多かった機器を安定させ測距精度を上げた「改四」のさらなる改良型でした。完成したのは、1944(昭和19)年8月のこと。そして、レイテ沖海戦の前に各艦へと配備されました。
レイテ湾に出撃する前、日本艦隊はシンガポール南方のリンガ泊地で電探射撃の演習をしています。「榛名」の「戦闘詳報」でその時の評価を見ると、敵味方に分かれた際、互いのレーダー波が干渉し、味方の探知を妨げて問題になったと記されています。
一方、アメリカの護衛空母部隊「タフィ3」が使用していたのは1941(昭和16)年後半に採用された対空対水上警戒用SCレーダーの改良型と、パラボラアンテナと連動するMk37射撃指揮装置で5インチ(12.7cm)砲の射撃を行っていました。
栗田艦隊の戦艦は10月25日午前7時前後に砲撃を開始しています。これに対し、タフィ3は煙幕を展張してスコール(急な豪雨)に身を隠しながら護衛の駆逐艦を前進させ、雷撃戦を仕掛けました。
このサマール沖海戦で「大和」「金剛」がレーダー射撃により米艦隊に命中弾を与えたのか、現在でもはっきりしていません。
「金剛戦闘詳報」にはアメリカ艦隊のレーダー射撃についての所見が記されています。そこには「1万8000m付近で電測射撃を開始したが、米軍の砲撃は遠近がおおむね良好だが、左右に逸れる弾が多く大部分は300mほど手前に落下した。現状では我が軍と大差ないものと認める」とあります。
アメリカ側から見た栗田艦隊の動き
なお、日本栗田艦隊が砲撃を開始する直前にタフィ3の護衛空母から発進した艦載機も攻撃に加わったことで、栗田艦隊の足並みが乱れます。東へ逃走するタフィ3を栗田艦隊が追撃すると、高速の戦艦「金剛」が別行動を取り、単独で追撃します。戦艦「大和」はアメリカ駆逐艦が発射した魚雷に挟まれて並走する形になり、タフィ3との距離が大きく離れてしまいました。
その結果、栗田艦隊はいくつかのグループに分かれてタフィ3を追撃しています。
「大和」の艦隊司令部では追撃部隊と通信の不備もあり、状況をつかめないためいったん攻撃を中止し、集合を命じています。ただし、その後はアメリカ軍機に阻まれ、再び攻撃することはできませんでした。これをタフィ3では日本艦隊が突如として攻撃をやめて去って行ったことから、自分たちの奮戦で撃破したと判断しています。
ところで、栗田艦隊がタフィ3を壊滅できなかった理由の一つとして、徹甲弾を使用したため装甲のない護衛空母や駆逐艦の船体を突き抜けたからだというものがあります。これはタフィ3の戦闘報告書からも確認できますが、実際は米艦艇の艦内で爆発する砲弾もあり、栗田艦隊が徹甲弾だけでなく通常弾も使用していたことは明らかです。
また、船体を突き抜けた砲弾により艦内の電路や通信設備、機関室が損傷し、レーダー射撃ができなくなり、艦の速力も低下していった様子が戦闘報告書に残されています。
太平洋戦争を語るとき、しばしば日米のレーダー技術の差が取り上げられます。レーダーは日米とも1942(昭和17)年から海戦で使用を始めたばかりでした。ゆえに、光学機器のように夜や天候、煙幕などに左右されない利点こそあるものの、当時のレーダーはあくまで、砲弾自体を管制するものではなかったのです。
そこから鑑みるに、当時のレーダーはマリアナ沖海戦(1944年6月中旬)のように、敵機の接近を探知し待ち伏せをするには有効でしたが、実際のところは日米両軍とも、レーダーを使ったからといって砲撃戦の精度が飛躍的に向上したわけではなかったことが、サマール沖海戦の顛末からも見て取れます。日米ともにレーダー射撃も万能ではなかったといえるでしょう。