西武国分寺線に恋ヶ窪という駅があります。この「恋」とは何でしょうか。由来は駅から1kmほどの池にありました。「窪」というマイナスイメージの語が来ても、それをものともしない恋の力です。

恋山形、恋し浜、母恋と「恋駅」は数あれど

 名称に「恋」が付く駅が全国にいくつかあります。その中でも西武国分寺線の恋ヶ窪駅(東京都国分寺市)は一見地味な駅ですが、駅名の由来という点では、後述するようにいわば正統派の「恋」駅といえます。そして命名の経緯を考察していくと、「恋の力は抜群で、慣習にも打ち勝てる」といったストーリーまである駅です。


西武国分寺線の恋ヶ窪駅(2023年1月、内田宗治撮影)。

 同駅の恋の力を語る前に、ほかの「恋」駅を見てみましょう。智頭急行に恋山形駅(鳥取県智頭町)があります。恋にちなんで駅名標がハートの形をしていたり、ホーム屋根やフェンスがピンク色に演出されていたりと、特別な駅といった感に溢れています。

 三陸鉄道の恋し浜駅(岩手県大船渡市)には、海の見えるホームに「幸せの鐘」が設置されています。恋の成就を願うホタテの貝殻による絵馬がたくさん吊るされたスペースもあり、同駅は「恋のパワースポット」とも呼ばれています。

 もう1駅、恋の付く駅としてJR室蘭本線の母恋駅(北海道室蘭市)がありますが、こちらは「母」のイメージが強く、「母の日記念乗車券」が発売されていたこともありました。

 さて、恋ヶ窪駅のある西武国分寺線は、池袋線や新宿線といった西武鉄道の主要路線とは異なり、6両編成の普通電車のみの運行で、多くの区間が単線です。同駅は郊外の西武線の駅として、ごく普通の存在といった印象を持つ人がほとんどでしょう。

平安末期の、遊女の悲恋物語

 では駅名の由来は何でしょうか。

 元となった恋ヶ窪という地名は、平安時代末期頃に鎌倉街道の宿駅があり、遊女などもいたために起こったとされています。同宿に夙妻太夫(あさづまたゆう)という遊女がいて、源頼朝に仕える畠山重忠と恋仲になりました。

 重忠は武勇、教養ともに備え清廉潔白な人柄でもあり、坂東武者の鑑といわれた武将です。2022年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、重忠役を中川大志が演じています。そのことから分かるとおり、見映えのいい武者としてもっぱらの評判でもありました。


智頭急行智頭線の恋山形駅。ホーム屋根などがピンク色に装飾され、ハート形のモニュメントも至る所にある(乗りものニュース編集部撮影)。

 ところが夙妻大夫に熱をあげるもう1人の男がいて、その男が夙妻大夫に「重忠は西国の平氏との戦で討ち死にした」と嘘をついたことで、悲嘆にくれた夙妻大夫は、近くの池に身を投げ亡くなってしまいます。その池は、現在のJR中央線の西国分寺駅すぐ近くの「姿見の池」一帯に広がっていたとされます。恋ヶ窪という地名の由来には、こうした悲恋物語があるわけです。

 前述の恋山形駅は、1994(平成6)年の開業時に「来い山形」という意味を含めた命名、恋し浜駅は2009(平成21)年に小石浜駅からの名称変更、母恋駅はアイヌ語の発音を元にした当て字といったことを考えると、恋ヶ窪駅はまさに、「恋」駅の正統派といえるでしょう。

 もうひとつ紹介すべきは、地形と駅名との関係を考えた際、恋ヶ窪駅が例外中の例外、「恋」の力を強く示している点です。

駅名に「窪」や「谷」を避けていた中あえて

 昭和初期以降、東京メトロを除く東京付近の私鉄各社は、駅名に小高い所を示す「○○山駅」や「○○丘駅」という名称を数多く誕生させたのに比べ、低い所や落ち窪んだ所を示す「○○谷駅」や「○○窪(久保)駅」という命名を行ってきませんでした。関連の不動産業と密接に関係して、沿線のイメージダウンを避けるためです。

 東急東横線の旧九品仏駅を1929(昭和4)年に自由ヶ丘(現・自由が丘)駅と改称したのがその代表例です。たとえば都内の私鉄の駅では代官山、久我山、梅ヶ丘、ひばりヶ丘など○○山駅や○○丘駅が多数ありますが、実は都内のJR(旧国鉄)にはそうした駅名が1つもないのが示唆に富みます。


国分寺〜恋ヶ窪間を走る西武国分寺線の列車。写真手前右がJR中央線線路。線路より低いこの一帯の低地が、恋ヶ窪の「窪(低地)」の由来(2019年5月、内田宗治撮影)。

 一方、○○谷駅や○○窪(久保)駅は、JRに鶯谷、市ケ谷、荻窪、大久保など、東京メトロに茗荷谷、雑司が谷など多数ありますが、私鉄には少数しかありません(渋谷などJRとのターミナル駅は除く)。私鉄について詳しく述べれば、糀谷、保谷、幡ヶ谷、雪が谷大塚などの○○谷駅がありますが、これらは全て大正時代以前、すなわち不動産業を強く意識する以前の開業です。東京の私鉄で谷や窪の付く駅は、いずれも1927(昭和2)年開業の祖師ヶ谷大蔵、世田ヶ谷中原(現・世田谷代田)、碑文谷(現・学芸大学)以降はありません。

 そうした中、都内で唯一の例外が1955(昭和30)年開業の恋ヶ窪駅です。西武鉄道では、田無町を1959(昭和34)年にひばりヶ丘へ駅名改称するなどイメージを重視していたのにもかかわらず、恋ヶ窪では低地を示す「窪」を駅名としました。「恋」という圧倒的に高イメージの語があるので、低いイメージの窪があっても問題なしとしたのでしょう。「恋」が当時の私鉄業界の慣例を打ち破ったわけです。

 前述の「姿見の池」は中央線の線路脇にあり、また車窓からも木々に囲まれた中、チラリと見えます。恋ヶ窪駅からは南に1kmほどの所となりますが、古の恋に思いを馳せながら訪れてみてはいかがでしょうか。