天皇陛下は世界からどのようにみられているのか。評論家の八幡和郎さんは「外交の世界では国家元首は平等で、肩書きによる扱いの違いはないが、特別な存在として認識されているのは事実だ」という――。
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上皇さまの89歳の誕生日を祝うため、仙洞御所に入られる天皇、皇后両陛下=2022年12月23日、東京都港区 - 写真=時事通信フォト

■日本の天皇は英国王より格上なのか

「天皇陛下はエンペラーだから英国国王より格上だ」、「米国大統領も日本の天皇とエリザベス女王は別格の扱いをしていた」「天皇は万世一系で世界一古い君主の家系だ」といった認識が保守派の人たちから発信されることが多い。

しかし、戦後史観の歴史家や左翼・リベラル派の人たちは「天皇は国家元首でない」、「万世一系など嘘で王朝交代があった」、「東洋には中国の皇帝を頂点とする冊封体制という外交秩序があった」などと主張しているし、エリザベス女王の葬儀では、天皇陛下はほかの外国君主に比べて特別扱いはなく、座席もヨルダンやマレーシアの国王より下座だった。

こうした都市伝説ともいえるさまざまな言説の真実はどこにあるかについて、外交現場での経験や諸外国の王室について研究してきた立場から、客観的な評価を披露したい。

■世界に30人いる君主たちの肩書き

世界でいま君主国は44ある。ただし、15はイギリス連邦の構成国で、チャールズ国王を元首としているから、君主は30人である。

複数の諸侯が国王などを互選するマレーシア、アラブ首長国連邦、サモア、フランス大統領とスペインのウルヘル司教が共同君主になっているアンドラ、枢機卿の互選で教皇が選ばれるヴァチカンも君主国と分類されている(サモアは除くこともある)。

君主の肩書きでは、国王(キング)が、英連邦諸国、オランダ、ベルギー、スペイン、ノルウェー、スウェーデン、デンマーク、ブータン、タイ、カンボジア、レソト、エスワティニ、トンガである。

一方、ルクセンブルクが大公(グラン・デューク)、リヒテンシュタインが侯(ドイツ語ではフュルスト。英語では該当する語がなくプリンス)、モナコが公(プリンス)だ。

イスラム圏ではサウジアラビア、バーレーン、モロッコ、ヨルダンが国王(マリク。英語ではキング)、オマーン、ブルネイがスルタン、クウェート、アラブ首長国連邦、カタールがアミールである。

■カトリック圏では皇帝は国王より格上

中世の西ヨーロッパでは西ローマ帝国が滅びたのち、各地の王者が東ローマ帝国の皇帝の権威を認めていたが、フランク王国のカール大帝が教皇から皇帝として認められ、それがドイツやイタリアを領域とする神聖ローマ帝国皇帝に引き継がれた。

国王(キング)は皇帝に次ぐ上位の肩書きで、ローマ教皇から名乗ることを許されていた。ただし、ボヘミア王のように神聖ローマ帝国の領域内だと皇帝と上下関係があるが、フランスやイングランド、ハンガリーの国王は皇帝より格下でも君臣の関係はない。

英国王がフランスのノルマンディー公でもあると、その限りにおいてはフランス王の家臣だった。また、ロシアはギリシャ正教で、教皇の権威の下にないので皇帝として扱われた。

しかし、ナポレオンが台頭すると、ハプスブルク家は神聖ローマ帝国皇帝の地位を簒奪される前に捨ててオ−ストリア皇帝に「転身」した。ナポレオンもフランスの皇帝となり、カトリック圏の盟主としての意味は失われ、ドイツ統一でプロイセン王もドイツ皇帝になった。

これを見て悔しがったのが英国のビクトリア女王だったので、ディズレーリー首相は、インド帝国を創始して女王をその皇帝とした。イスラム圏では、イスラム帝国のカリフとか、ペルシャやムガール帝国のシャーもエンペラーと翻訳することもあった。

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■中国では始皇帝が最初に「皇帝」を名乗った

古代中国では王が君主の称号だった。ところが、戦国時代に覇者となった諸侯が王を名乗ってすっかり値打ちがなくなってしまったので、秦の始皇帝が伝説上の君主としての三皇五帝から1字ずつ取って皇帝という称号を名乗ることにした。

そして、中国の皇帝は朝貢してくる周辺国の支配者に王の称号を与えて領有権を認めることがあり、これを冊封といったが、冊封体制といった外交秩序があったと言い出したのは、戦後の媚中派の日本人学者であって、中国でも使われていない。

朝鮮や琉球の王は皇帝による冊封がないと王の称号を使わなかったが、古代の倭王や北方民族の君主たち、さらには、8世紀以前の朝鮮半島の国王たちは冊封を受ける前から王者だった。

また、モンゴルのハーン(汗)も中国の皇帝より格下という認識ではなかったし、冊封を受けながら同時に他の勢力の支配下にあることもあった。島津に支配されていた琉球がその一例だ。

■いつから「天皇」と呼ばれるようになったのか

皇帝の世界史を振り返ったところで、ここからは日本における歴史に目を移したい。

皇室の先祖は、スメラミコト、スメラギ、オオキミなどと呼ばれていたようだが、7世紀から徐々に外交文書においては「天皇」と表記するようになった。唐の中宗がこの称号を使っていたのを気に入って採用したのかもしれない。

ただ、日本人はこれをスメラミコトとか呼んでいたのであって、テンノウという読み方が定着したのは近代になってからだ。これは倭国といった言葉でも同様で、国内ではヤマトと読んでいた。

日本の天皇と中国の皇帝は遣唐使の廃絶以来、外交関係を持つことはなく、明治になって日本側から近代的な外交関係を持つことを提案した。清国ではどう扱ったものか議論があったが、曾国藩や李鴻章といった官僚政治家たちが検証した結果、歴史的に上下関係はないとして、欧米諸国の君主と同じように扱うことになり、1871年に日清修好条規が結ばれた。

朝鮮王の位置づけは独立国とする日本と、従属国とする清国が対立して、それが日清戦争の原因となったが、日本の勝利によって独立国と認められ、1897年に韓国皇帝となった。

このヨーロッパや東アジアでの王室相互の関係については、『日本人のための英仏独三国志 世界史の「複雑怪奇なり」が氷解!』と『日本人のための日中韓興亡史』(いずれもさくら舎)で詳細に論じたことがある。

■約40年前から「たった1人のエンペラー」に

幕末には欧米に対して、将軍がエンペラーを名乗っていたが、明治になるとエンペラーをもって天皇の英訳とした。第一次世界大戦後には、世界のほとんどの皇帝は廃絶し、第二次世界戦後には、日本以外ではエチオピア、それに場合によってはイランのシャーも皇帝と呼ばれるだけになった。

そして、エチオピアでは1974年、イランでは1978〜79年にそれぞれ革命が起き、帝政が崩壊。1977年には、中央アフリカの大統領だったボカサが皇帝を名乗り、一時は国際的にも受け入れられたが、これもわずか2年ほどで追放され、帝政は廃止された。

中央アフリカ皇帝 ボカサ1世(写真=CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)

その結果として、現在エンペラーを名乗っているのは日本の天皇だけとなり、世界遺産的な意味での権威はある。

■外交の世界では国家元首は平等

「唯一のエンペラー」でありながら、エリザベス女王の葬儀では特別扱いされなかったのはなぜか。

外交の世界では国家元首は平等で肩書きによる扱いの差はないが、君主が大統領より上位に扱われることはある。君主の間では、序列は就任順で決まるので、2019年5月即位の天皇陛下は、同年1月就任のマレーシアのアブドゥラ国王の次席と言うことになった。

王室外交では元国王も即位順に席次を与えられるので、エリザベス女王即位60年記念行事では、首席は1927年即位のミハイ・ルーマニア元国王で天皇陛下(現上皇)は第9位だった。

そうしたわけで、エンペラーだから上位だなんて言うことはないのだが、それでも日本の天皇が特別の存在として認識されているのも事実である。

■天皇が「特別な存在」である3つの理由

第一は日本という国そのものに対する評価だ。中韓以外のほとんどの国において好感度が高く、それ以上に、世界11位の人口を誇り、世界第3位の経済大国だ。

そして、神武創業が紀元前660年かどうかはともかくとして、統一国家が成立してから千数百年にわたって同一家系が君主であることは、ヨーロッパ人的感覚では尊敬される。

ヨーロッパで最古は、9世紀に始まるデンマーク(少しあやふやな点あり)、ついでは英国で、それより古く、しかも、男系男子で一貫していることは、驚異と考えられている(王位を失った王家ではフランス王家は987年即位のユーグ・カペーから現在の当主であるジャン四世まで男系男子嫡出である)。

次に日本の皇室、あるいは歴代の天皇が文化的にも、道徳的にも評価されてきたのも反映されている。先の戦争は日本の皇室に対する評価を厳しいものにしたが、昭和天皇が日本の民主化と平和国家としての発展、西側諸国との同盟に前向きな役割を果たされたことや、威厳で世界から尊敬される地位を回復された。

また、上皇陛下が国内のみならず海外にも頻繁に出かけられ、各国の人々とも海外の王室ともストイックに交流を深められたことも良かった。とくに天安門事件直後の訪中については賛否の議論があるが、あの時期の訪問だったからこそ、中国政府が日本の皇室に好意的な立場をとりやすくした。

■皇室と日本社会の切っても切れない関係

今上陛下はご即位後、すぐに新型コロナ渦に見舞われ、国内外へのご訪問の機会を制限されてしまった。また、皇后陛下のご体調という問題はあるが、徐々に独自のスタイルを確立されていくものと期待したい。

しかし、いくら両陛下や皇族が頑張られても、日本経済が凋落したり、政治的、文化的に評価が落ちたら、それに応じて、皇室への評価も下がるのである。

かつて昭和天皇が初の外遊にヨーロッパを選ばれたとき、米国のニクソン大統領はわざわざアンカレジまで出かけて陛下と会談したが、それと同じ対応をいつまでも期待できるかどうかはなんともいえないだろう。

また、清楚であるゆえに評価されることもあるが、一般論としては、入念でそれなりに豪華な接遇が良い印象を与えることも間違いのないことで、質の高い皇室施設や、食事、土産、エンターテインメントなども大事なことだ。

そういう意味で、秋篠宮皇嗣殿下邸の改修費が30億円を超えたと意地悪い批判がされたり、皇室行事や接遇に工夫が足りないように見えたりする現状は嘆かわしい。皇室において過度の節約がされることは、これまで築き上げてきた天皇への畏敬の念を減じることになり、日本外交にとって損失にしかならないのだ。

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八幡 和郎(やわた・かずお)
徳島文理大学教授、評論家
1951年、滋賀県生まれ。東京大学法学部卒業。通商産業省(現経済産業省)入省。フランスの国立行政学院(ENA)留学。北西アジア課長(中国・韓国・インド担当)、大臣官房情報管理課長、国土庁長官官房参事官などを歴任後、現在、徳島文理大学教授、国士舘大学大学院客員教授を務め、作家、評論家としてテレビなどでも活躍中。著著に『日本の総理大臣大全』(プレジデント社)』、『安倍さんはなぜリベラルに憎まれたのか』、『令和太閤記 寧々の戦国日記(八幡衣代と共著)』(いずれもワニブックス)『日本の政治「解体新書」 世襲・反日・宗教・利権、与野党のアキレス腱』 (小学館新書)など。
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(徳島文理大学教授、評論家 八幡 和郎)