明治5年10月14日に新橋〜横浜間で開業した日本初の鉄道のうち、海上に伸びていた「高輪築堤」の建設に“しょこたん”こと中川翔子さんのご先祖様が関わっていました。その功績と名残を追います。

150年前の鉄道の遺構「高輪築堤」とは?

 2019年4月、高輪ゲートウェイ駅東側の再開発工事の現場から、1872(明治5)年10月14日に新橋〜横浜間で開業した日本初の鉄道の遺構が発見されました。築堤や石垣など、現在の港区芝浦から品川駅近辺まで2km以上に渡って地中に残っていた構造物は「高輪築堤」と名付けられ、2021年に国の史跡として指定された上で、一部区間で現地保存される見通しです。


出土した高輪築堤(画像:港区)。

 明治時代末期から大正初期に埋立が行われるまで、「高輪築堤」区間は東京湾の海上にありました。わざわざ陸地を避けて線路を通した背景には当時の陸軍の意向もあったと言われていますが、海上の築堤を走る蒸気機関車は錦絵などにも描かれ、明治時代の“文明開化”の象徴でもありました。

 この築堤の建設に、人夫や資材の確保、工事計画の管理など全般を行う「土木請負人」として、幕末から明治にかけて活躍した平野弥十郎という人物が大きく関わっています。実は歌手・アイドル・漫画家・YouTuberなど多くの肩書きを持つ“しょこたん”ことタレント・中川翔子さんの先祖にあたります。

 平野氏が晩年まで綴っていた日記をまとめた「平野弥十郎幕末・維新日記」(北海道大学図書刊行会)からその足跡を紐解きつつ、高輪築堤の建設に至る過程、そして今も各地に残る遺構を見てみましょう。

お台場も!? “しょこたん”ご先祖の初期の仕事

 1823(文政6)年浅草に生まれた弥十郎は、21歳で下駄を扱う商家・平野家の入り婿ととなり、その店が閉店してからは先代からの縁で薩摩藩邸の出入りを許され、30歳で土木工事の請負人としての道へ進みます。翌年にはペリー提督が率いる黒船が来航するというタイミングでした。

 開国を迫るアメリカに慌てた幕府は、わずか3か月後に品川沖へ6か所の台場(大砲などの砲台)の建造を開始、防衛への準備を進めていきます。現在でいう「お台場」の由来です。ここで平野は人夫を集め、砲台と船積み場の建設に陣頭指揮をとったそうです。

 翌年に薩摩藩が独自で台場を築いた際には、20〜30人を動かせる複数の棟梁にまとめて協力を得ることで、1500人もの人員を必要とした工事を成功に導き、請負人としての手腕が世に知られることになります。

横浜の鉄道関連施設にも名残り

 その次には伊予松山藩が幕府か命じられた「神奈川台場」の建設を落札。工事中にはこの台場を設計した勝麟太郎(勝海舟)との折衝も多く、その詳細は弥十郎にだけ伝えられ、作業は一任されていたといいます。弥十郎は「神奈川砲台」と染め抜かれた手ぬぐいを1800枚も関係者に配布、酒を振る舞うなどしてもてなし、工事に関わった人々をしっかりと労ったそうです。こうして、砲台は松山藩が当初見積もっていた8万両という予算よりも3万両近く安い予算で完成しました。


東高島貨物駅の敷地外縁には、神奈川台場の石垣が残る(宮武和多哉撮影)。

 この後、明治に入って日本初の鉄道建設を請け負う弥十郎ですが、この神奈川台場も、後に鉄道関連施設へ変わっています。大正時代初期に周囲のほとんどが埋め立てられ、1924(大正13)年に東高島駅(貨物駅)が開業(のち廃止)。現在も敷地には石積みの台場の遺構がわずかに残っていますが、周辺開発で急速に姿を消しつつあります。

 江戸の土木従事者たちは幕末の建造ラッシュで好景気に沸いたものの、明治新政府の樹立で状況は一変、多くの請負人は人夫を抱えたまま路頭に迷うこととなります。弥十郎は現在の横浜・馬車道通りの改修などで不況を凌ぎますが、海上に石垣を築造した経験はすぐ、全く別の方向で生かされることとなります。

ついに「日本初の鉄道」建設に携わる!〜高輪築堤

 新政府が鉄道の建設を始めると、台場の築造の経験があった弥十郎は、のちに「高輪築堤」と呼ばれる幅3.6mの築堤を海上に建設する工事を請け負いました。同時代にはニューヨークで鉄道専用の高架、ロンドンで地下鉄の実用化もありましたが、地上を走らない「鉄道専用の海上築堤」が、しかも国内初の鉄道の設備として建設されたのは世界的に見ても珍しいといえるでしょう。

 なお鉄道の設計を担当したイギリス人技師エドモンド・モレルは、日本の材木による枕木の導入を決めるなど、いわば“アリモノ”で建設を進めたことでも知られています。イギリスの鉄道+日本の石垣という柔軟な組み合わせは、その環境の中で生まれたのかもしれません。

高輪築堤はいかにして造られたのか 開業は見ずに

 平野弥十郎が率いる作業班は、まず現在の品川八ツ山を約3m切り下げるなどして、その残土を確保。海上の築堤から陸地に入った鉄道は、切り下げによってできた低地を通過する線形で、開業当時の品川駅もこの場所に設けられていました(現在の八ツ山橋の北側)。

 また築堤を固めるため約30cm×90cmの石を4万本も調達する必要があり、石の産地である神奈川県真鶴、根府川などの有力者に協力を依頼しています。また弥十郎は薩摩藩との縁を生かし、高輪の旧薩摩藩邸(現在のSHINAGAWA GOOSなどの一帯)の庭石も一部使用したようです。


再開発が進む高輪ゲートウェイ駅東口。この周辺も海だった(宮武和多哉撮影)。

 弥十郎は築堤に近い現在の高輪ゲートウェイ駅西口近辺に事務所を構え、鉄道工事に忙殺される一方、時には鉄道建設を担当する大久保利通や木戸孝允と交流を持ち、酒を酌み交わすことも。工事は順調に進み、開業の前年には馬が踏み固めた築堤の上に資材運搬用のレールが敷かれるまでになります。

 この頃には明治維新後のインフラ建設も各地で進み、平野と関係が深かった棟梁・2代目清水喜助(現在の清水建設の源流)のように、名声や財産をなす土木関係者も多かったといいます。しかし弥十郎は、1872(明治5)年10月の鉄道開業にも試運転にも立ち合わず、北海道を開拓する官庁「開拓使」の官吏(役人)になるべく、請負業を辞して同年1月に北海道へ旅立ちました。

150年後の“しょこたん”へつながるまで

 開拓使の給料は当時の請負業の収入より大幅に低いものでした。しかし弥十郎は、「請負業は波があるから、良い時に止めて官吏になるのが良い」と家族を説得し、立場を変えて新たに託された場所を選んだのです。

 北海道に渡った平野弥十郎は函館〜札幌間の「札幌新道」を建設、浦河・小樽・石狩などで様々な道路や建築物に関わり、札幌・北1条西6丁目(現在の北海道庁南側、日銀札幌支店周辺と思われる)で晩年を過ごしていたといいます。

 また四男の伊藤一隆氏は札幌農学校の1期生として、ウィリアム・スミス・クラークが離任する際に残した“boys be ambitious!“(青年よ大志を抱け)との言葉を受けた一人でもあります。のちに道庁職員として国内初の鮭・鱒の人工孵化場の創設に関わり、平野弥十郎も世を去る半年前、1889(明治22)年2月にこの孵化場を見学しました。ただ、弥十郎は翌月に北海道庁に出向いた後は、同年10月に67歳で亡くなるまで、表舞台に姿を表すことはなかったようです。


石狩港の周辺には今でも石積みの倉庫跡が多く残る。平野は明治14年にこの周辺の道路整備を行った(宮武和多哉撮影)。

 そして伊藤一隆のひ孫にあたるのが、中川翔子さんのお母様、中川桂子さん。こうして150年の時を経て、5代後に中川翔子さんへ繋がるわけです。

 その系譜を受け継いだ中川翔子さんは、伊藤一隆の功績を讃える展示がある「千歳サケのふるさと館」や数々のゆかりの地をプライベートで訪れ、その様子を著書『ねこのあしあと』やSNSなどに残しています。

 昨年もご自身のYouTubeチャンネルで、一族が住まれていた北1条西6丁目から程近いお店でいくら丼を堪能されたばかり。平野弥十郎から続く北海道との縁は、まだまだ繋がっているようです。