旧日本海軍が使った世界最大の戦艦、大和型の目玉ともいえる装備に46cm砲があります。この強大な艦砲を世界で最初に造ったのはイギリス海軍でした。その目的と顛末、それに触発されたアメリカの動きを見てみます。

日本より早かったイギリスの46cm砲開発計画

 旧日本海軍の大和型戦艦というと、世界最大最強の証左のひとつとして口径46cmの主砲が取り上げられることが多いです。しかし、軍艦に46cm砲を搭載したのは「大和」が初めてではありません。46cm砲の歴史を紐解くと第1次世界大戦にまで遡ります。


18インチ単装砲を搭載する大型軽巡洋艦として1917(大正6)年に就役した「フューリアス」(画像:アメリカ海軍)。

 主砲を同じ口径にそろえた弩(ド)級戦艦として知られる「ドレッドノート」を、イギリス海軍が完成させたのは1906(明治39)年のこと。その主砲の口径は12インチ(30.5cm)でした。

 ただ、これが当時、世界最大の主砲だったかというとそうではなく、1885(明治18)年にイタリアが完成させたイタリア級の2隻「イタリア」「レパント」は、イギリスのアームストロング社が製造した17インチ(43.2cm)砲を搭載していました。

 第1次世界大戦が勃発すると、イギリスでは「ドレッドノート」を発案した当時の第一海軍卿ジョン・フィッシャーが、バルト海のドイツ本土に進攻する際の支援艦として、高速を発揮でき、かつ強力な大口径砲を搭載した「ハッシュ・ハッシュ・クルーサー」を構想します。こうして生まれたのが、カレイジュアス級巡洋戦艦です。

 その主砲の口径は15インチ(38.1cm)でしたが、3番艦「フューリアス」ではより強力な18インチ(45.7cm≒46cm)単装砲を搭載することになります。しかし、とりあえず造ってはみたものの、いざ試射をしたら射撃の衝撃に船体が耐えられないことが露呈し、結局、バルト海侵攻作戦も中止になったことから使い道がなくなりました。

陸上砲として転用を計画、一転して再び艦砲へ

 その後「フューリアス」は、当時イギリス海軍が開発を始めた航空母艦(空母)の実験艦へ改造されることが決定し、18インチ砲は撤去されます。こうして、宙に浮いた18インチ砲は、意外なところで再利用されることになります。

 ドーバー海峡の哨戒部隊を指揮するレジナルド・ベーコン提督は、18インチ砲をフランスの西部戦線に運び、陸上砲としてドイツ占領下のベルギーにある軍事施設を砲撃する計画を立てます。この提案は海軍上層部に承認されました。

 ただし、射程の関係から18インチ砲を設置する場所として、ベルギー西部のウェストエンドを占領することが要求されます。ところが、イギリス軍はウェストエンド攻略に失敗します。

 そこで、ベーコンは別の転用案を考え出します。彼は18インチ砲を海上輸送するにあたり、モニター艦の使用を予定していました。ただ、彼自身は小型艦と組み合わせることで、再び艦載砲としても使えると考えていました。

 モニター艦はアメリカ南北戦争の装甲艦「モニター」に由来する、いわば小型の軍艦です。「モニター」自体は世界初の旋回砲塔を採用した軍艦で、モニター艦は小型の船体に比較的大口径の主砲を搭載した艦艇として、沿岸や内海での砲撃戦や対地攻撃に使われました。

イギリス海軍46cm砲の最初の目標は?

 イギリス海軍は第1次世界大戦で対地攻撃用にモニター艦を使用していました。しかし、低速で防御力が弱く、敵艦と砲撃戦になって沈められる艦もありました。そのモニター艦に「フューリアス」の18インチ砲を転用し、海上からベルギーのドイツ軍施設を砲撃しようとベーコン提督は考えたのです。

 18インチ砲を流用することになったのは、1915(大正4)年に8隻が竣工し、当初は12インチ連装砲を搭載していたロード・クライブ級モニター艦でした。


1918年11月、北海で降伏したドイツ艦隊を監視する「ロード・クライブ」。艦尾に見えるのが巨大な18インチ単装砲塔(画像:帝室戦争博物館)。

 1918(大正7)年6月、18インチ砲2門がネーム・シップの「ロード・クライブ」と8番艦「ジェネラル・ウルフ」に搭載されます。ただし、「フューリアス」の砲塔を船体の小さなロード・クライブ級には載せられないので、砲塔や砲架は設計をやり直しています。

 こうして生まれた18インチ搭載モニター艦は早速実戦に投入され、同年9月28日、「ジェネラル・ウルフ」がベルギーのオステンデ郊外にある鉄道橋を砲撃。続いて「ロード・クライブ」も10月14日に砲撃をしています。ただ、その翌月、11月14日に第1次世界大戦が休戦を迎えたことで、これ以上の砲撃は行われませんでした。

 ちなみに、予備だった3基目の18インチ砲は、5番艦「プリンス・ユージーン」に搭載する予定でしたが、その前に戦争は終わりました。その後、予備の18インチ砲は戦争中に海軍の訓練施設になっていたロンドンの水晶宮に展示されたのち、試射を行い廃棄されています。

イギリスに触発された日米両国、その結果は?

 これらイギリス海軍の18インチ砲は他国に影響を与えました。アメリカ海軍は1917(大正6)年に2タイプの18インチ砲を試作しました。イギリスと同盟国だった日本においても、旧日本海軍が18インチ砲の研究に着手しています。

 ところが1922(大正11)年のワシントン軍縮条約で、日本における18インチ砲の開発はいったん停止します。再開したのは1935(昭和10)年に日本がロンドン軍縮条約を脱退したのが契機でした。結果、日本は軍縮条約の制限を受けない大和型戦艦に46cm砲を採用します。


アメリカ本土ダルグレン試射場の18インチ砲。アメリカ海軍はいったん16インチに改造後、再び18インチ砲に戻して試射を行った(画像:アメリカ海軍)。

 一方、アメリカ海軍は新たに建造を計画した一連の戦艦に18インチ砲の搭載を計画したものの、仮に搭載した場合、戦艦の全幅が広がってしまい、パナマ運河が通過できなくなるため、その制限の問題から採用を見送りました。それでもアメリカ海軍は18インチ砲の研究を続けます。

 アメリカ海軍は、試作の18インチ砲に手を加え、太平洋戦争開戦後の1942(昭和17)年から終戦後の1945(昭和20)年8月24日まで、ジョージア州ダルグレン試射場で18インチ砲を使って装甲の貫通力と各種徹甲弾をテストしています。あわせてアイオワ級などに採用された16インチ(40.6cm)砲マーク7の検証も行っています。ただ、その後、戦艦の新造が計画されなかったため、アメリカ艦で18インチ砲を搭載したものは登場することはありませんでした。

 なお、18インチ砲の元祖イギリス海軍は、第1次世界大戦後に16インチ砲を採用しています。しかし、ロンドン軍縮条約失効後に建造したキング・ジョージ5世級戦艦は14インチ4連装砲塔を採用し、その後誕生したイギリス最後の戦艦「ヴァンガード」も、冒頭に記したカレイジュアス級巡洋戦艦が搭載していた15インチ砲を転用・搭載したため、18インチ砲に戻ることはありませんでした。