「国民保護」に関する情報、活動は、国際的には「民間防衛」に相当するものです。WW2期も日本のみならず、たとえばロンドンにおいてのその様子に関する資料が多く残されています。そこには、現代日本が学ぶべき多くのものが見られます。

「国民保護に関する情報」発出 非日常をつきつけられた我々は…?

 2022年10月4日朝、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)から弾道ミサイルの可能性があるものが発射され、午前7時29分ごろ全国瞬時警報システム(Jアラート)を通じて「国民保護に関する情報」が発出されました。そのサイレンやスマホの緊急メール、朝のテレビ番組の画面が突然切り替わったことに驚いた方も多いと思います。防衛省によると、発射を探知したのが午前7時22分頃、青森県上空を通過したのが同7時28分頃から29分頃との事です。


2022年10月4日、テレビの通常放送を中断し、ミサイルの発射情報が差し込まれた。画像はイメージ。

 Jアラートに驚かされる一方で、北朝鮮から約5分で日本に到達するミサイルに対してはほとんど退避する間もなく、「頑丈な建物、地下に避難」とか「地面に伏せて頭部を守る」とかいった行動が実際的なのか疑問視したり、最高高度約1000kmの上空を通過するだけのミサイルに警報などけしからんという意見も聞かれたりし、当日は1日中、「国民保護」という非日常的に聞こえるワードが各種メディアで大いに注目されました。


2022年10月4日の、北朝鮮からの弾道ミサイル飛翔コースイメージ(画像:防衛省)。

「国民保護」は「民間防衛」とほぼ同義語で、そして、民間防衛とは「敵対行為または災害の危険から一般住民を保護し、その被害から回復するのを援助し、また、一般住民が生き残るために必要な諸条件を備えることを目的として、警報、疎開、避難所(シェルター)や灯火管制の管理、救急、治療、消火、消毒、危険地帯の探知と表示、応急宿舎や必需品の供給、秩序の維持と回復、公共施設の応急修理などの人道的任務の一部または全部を行うこと」(小学館「日本大百科全書〈ニッポニカ〉」)とされています。

 日本における民間防衛は、たとえば太平洋戦争中の空襲に対応する「バケツリレー」がそれにあたります。しかしB-29による空襲の苛烈さに、バケツリレーはほとんど無意味なものでした。今回のJアラートに対する批判的な意見には、このバケツリレーの敗北経験があるように思います。

 民間防衛は、本当に無意味なのでしょうか。

「心理的兵器」と市民 有識者の予測と実際のところ

 第1次世界大戦後、イタリアの軍事学者ジュリオ・ドゥーエは爆撃機を重視し、敵国への無差別戦略爆撃は民衆にパニックを起こさせ、戦意を奪うことで戦争に早期の決着をつけ、流血も少なくなり人道的だ、と説きました。この考え方は空軍関係者から長く支持され、戦意喪失を狙うという考えは現代の戦略ミサイルに通じるものがあります。

 そして1938(昭和13)年、イギリスの精神科医の団体は、無差別戦略爆撃が実施されれば国民にパニックが起こり、第1次世界大戦時の前線兵士に見られた「戦闘ストレス反応」、いわゆる「シェルショック」のような精神疾患を発症する人が300万人から400万人になると予想しました。これは負傷者想定よりも多い数でした。


1940年7月9日ロンドン上空を飛行するドイツ軍のHe111爆撃機(画像:German Air Force photographer、Public domain、via Wikimedia Commons)。

 果たして1939(昭和14)年9月3日、イギリスがドイツに宣戦を布告して22分後には、ロンドンに空襲警報が鳴り響きました。パニックは起こったのでしょうか。

 精神科医たちの心配は杞憂でした。1940(昭和15)年9月7日からドイツ空軍によるロンドン空襲が始まりましたが、神経症と診断されたのは3か月間で約30人に留まったのです。イギリス国民の戦意を喪失させるどころか、かえって復讐心さえ煽り、ドイツ語の「ブリッツ(稲妻の意)」にちなんだ「ブリッツスピリット」という言葉も生まれました。


ロンドンで上空警戒する空軍補助員。多くが民間人だった(画像:National Archives at College Park、Public domain、via Wikimedia Commons)。

 開戦当初、ヒトラーはロンドン市街地の爆撃を厳禁していました。ジュリオ・ドゥーエの理論とは反対に、都市を無差別爆撃すれば敵愾心を煽り戦争が泥沼化すると恐れていたためで、その見方は正しかったのです。

ロンドン市民の「ブリッツスピリット」と民間防衛

 この「ブリッツスピリット」を支えたひとつが、民間防衛の充実でした。

 軍に入隊を望まなかった、または入隊できなかった人がホームガード(郷土防衛隊)、空襲対処サービス(ARP)、消防補助員(AFS)などの組織に参加しました。イギリスの常勤消防士は、1938(昭和13)年には約6600人だったのですが、1939(昭和14)年にはAFSを含めて約13万8000人にまで急拡大しました。


1940年の地下鉄オルドウィッチ駅の様子。爆弾の直撃に耐える強度は無かった(画像:Unknown authorUnknown author、Public domain、via Wikimedia Commons)。

 またシェルターも公共、民間で多く用意されました。地下鉄駅に避難するロンドン市民の写真が有名ですが、1939年までイギリス政府は、交通を阻害し、避難者が集まって厭戦反戦感情が高まることを恐れ、地下鉄駅を避難所にすることは許可していませんでした。しかしロンドン空襲が本格化すると、地下鉄駅を含む多くの公共、民間シェルターが用意されるようになります。

 ちなみにロンドン空襲が始まった1940(昭和15)年には、ロンドン市民の4%が地下鉄駅や大規模公共シェルター、9%が中規模公共シェルター、27%が民間シェルターに避難し、60%は自宅またはホームシェルターに居たことが分かっています。


爆撃された自宅から花と時計を持ち出したという写真だが、プロパガンダと推察される(画像:Unknown authorUnknown author、Public domain、via Wikimedia Commons)。

 このようにジュリオ・ドゥーエの理論は外れ、イギリスの精神科医たちは民間人の適応性と機知を過小評価していたことが分かりました。戦後の研究で、民間防衛は国民に対し、何もしないで絶望するのではなく、自らも働いて反撃するという士気の維持を物心両面から補完していたともいわれ、実際に精神疾患者数は減少していました。単純比較はできませんが、日本のB-29空襲に対するバケツリレーの経験とはかなり印象が異なります。

 日本の民間防衛も全く無力だったわけではありません。1942(昭和17)年4月のドーリットル空襲では、バケツリレーも一定の効果を発揮しています。弾道ミサイルや極超音速滑空弾など北朝鮮のミサイル開発は進んでいるものの、今回のJアラートを受けてもどうしたらよいか分からなかったり、自分事とは捉えなかったりした方も多いのではないでしょうか。パニックと同時に無力感、思考停止を誘うのも「心理的兵器」です。日本も「ブリッツスピリット」に学ぶことはあると思います。