戦艦「長門」見に行こうぜ!! 戦前はさながらテーマパークの軍港 地域も潤う観光資源
旧日本海軍の鎮守府が置かれていた呉は21世紀現在、多くの観光客を集める人気の観光地です。そうした軍港の「観光地としての」姿は、実は戦前も同様だったといいます。観光資源としての軍港の、かつての様子や人気のお土産のお話。
今も昔も「軍港」は人気の観光地
「大和ミュージアム」の立ち上げに尽力した呉市海事歴史科学館館長 戸郄一成氏による、「大和ミュージアムにみる地域と博物館の相互協力の姿」と題した一般社団法人 御殿場市観光協会主催の講演会が、2022年10月9日に静岡県御殿場市で開かれます。
「大和ミュージアム」と言えば、軍港都市だった呉市の名前をさらに広く知らしめた博物館であり、コロナウイルス感染症拡大前までは毎年50万人から90万人が訪れる観光資源として、地域振興にも大いに貢献しています。
戦前の施設も残る呉港周辺、写真は埠頭に保存されていた荷役用クレーン。後ろは音響測定艦「ひびき」(月刊PANZER編集部撮影)。
とはいえ、実は戦前も軍港は観光資源でした。日本海軍といえば戦艦「大和」の建造秘話にも見られるように、秘密主義が徹底していたようなイメージかもしれませんが、鎮守府のある横須賀、呉、佐世保、舞鶴のような主要軍港は訪れる人も多い観光地であり、修学旅行の行程にも組み込まれるような、現代の「大和ミュージアム」に勝るとも劣らないテーマパークのような役割を果たしていました。
海軍でも、停泊している艦船や施設の見学を可能な限り受け入れていたようで、「『陸奥』と『長門』は日本の誇り」と、いろはかるたにもうたわれるような有名艦が寄港している時には、人々が基地に押し寄せたといいます。
戦前から軍港周辺には、軍港や在泊艦艇の兵站を支える様々な公的機関や民間業者が集まっており、その傍らでこうした観光客目当ての宿泊施設や土産物店も軒を連ねていました。軍港周辺は海軍との取引で地域経済が回り、そして観光客の落とすお金も地域振興の一助になっていました。
人気のお土産はやっぱりお菓子 「吉備団子」大ブレイク
土産物の売り上げもバカにならないものでした。旅行から帰ってくると土産物を周囲の人に配る、日本以外にあまり見られないというこの習慣が、地域文化を全国へ伝播するのにひと役買っており、メディアの広告も未発達な時代に、土産物はそれぞれの地域をアピールするのに大きく役立ちました。そして、人に配る土産物といえば、いまも昔も菓子類がポピュラーです。
そうした土産物のひとつが、岡山みやげとして知られる「吉備団子(きびだんご)」です。なお、鬼退治に向かう桃太郎が携行したという「黍団子(きびだんご)」とは別物で、音が同じだけだそうです。今日の形に近い吉備団子が商品化されたのは明治維新以降だそうで、そして土産物として全国にブレイクしたのは鉄道と軍隊が大きく関係しています。
吉備団子が売られている岡山駅は、広島宇品港へ繋がる兵站線の主要駅です。日清、日露戦争で出征していた多くの復員兵が宇品港から鉄道で帰郷し、その途中の岡山駅で購入した吉備団子を地元への土産としたのがブレイクのきっかけとなりました。外敵を鬼となぞらえて、戦地から故郷に凱旋するイメージもひと役買ったようです。
2022年現在の呉港周辺は案内板が充実しており歩き回りやすい。潜水艦が見えるアレイからすこじまに設置されていた案内板(月刊PANZER編集部撮影)。
菓子類は海軍も多く買い付けていました。艦艇乗員用ばかりでなく、外国寄港地でのレセプション用の菓子類の需要も大きく、軍港周辺には菓子を納入する業者が多かったのです。鎮守府観光でも土産物は菓子類がポピュラーで、軍艦煎餅、軍港饅頭などがあり、呉には海兵団にかけた「海兵団子」(団子)、巡洋艦にかけた「巡洋羹」(羊羹)などユニークなネーミングのものもあって、最近、一部でリバイバルしているようです。
ちなみに有名な「間宮羊羹」は海軍部内用で、当時、民間には出回らず土産物として売られることもありませんでした。2022年現在は呉の土産物として販売されています。
模型は機密の網をくぐって制作された高級品!
また模型も売られていました。プラモデルはまだ存在しませんが、金属製や陶器製の軍艦や大砲、高角砲、飛行機などの模型が商品化されています。
模型は現物に忠実であるほど良いものの、そこが観光土産と軍事機密のバランスの難しい所でした。現在はスマホで誰でも簡単に写真を撮れますが、当時はカメラもフィルムも高価で、誰でも持っているものではありませんでした。しかも防諜上の制限が多く、たとえカメラやフィルムがあったとしても兵器の写真を撮ることはままなりません。
そうしたわけで模型の原型を作ること自体が大変であり、加えて性能を悟らせないようあえてデフォルメして海軍省の許可をとる、という手間が必要でした。かなり高価なものになりましたが、模型コレクターも居ました。
「大和ミュージアム」は呉港を望み造船所も見える立地で、JR呉駅からの行程も商業施設が充実している(月刊PANZER編集部撮影)。
戦前の鎮守府観光は海軍のアピール、国威発揚と社会教育という意味が強かったかもしれませんが、地域では制約の多いなかでも海軍や観光客、ディープなファンのニーズを上手く受け止めて地域振興に努力していました。当時の土産物にそれが良くあらわれていると思います。
令和時代の「大和ミュージアム」の役割も社会教育であり、地域振興でもあります。軍事施設や兵器を見ることを社会教育と捉えようが、単なる観光と捉えようが、何を感じて考えるかは各個人の自由であり、それは、いまも昔も変わりません。