バカ発見器に「発見されるバカ」にならないために - 御田寺圭
※この記事は2020年09月24日にBLOGOSで公開されたものです
「バカ発見器」ことツイッター
唐突だが、ツイッターは「バカ発見器」であると言われて久しい。
たしかにツイッターは、「コンビニの冷凍商品棚に身を投げ出した」「回転すし店の醤油さしを鼻に挿入した」などといった、愚かで不道徳な行いを自らタイムラインに公開する命知らずな人びとの話題には事欠かず、「バカ発見器」の名に恥じないメディアであることは論をまたない。
現在でも時折、タイムラインに動画付きで「不届き者」の所業が公開され、多くの人からの怒りを集めていたりする。
しかし現在、「バカ発見器」の索敵(さくてき)レンジは明らかに拡大している。
「冷凍庫に入ってみた」など不道徳な行いをする人びとのみならず、これまで「博学多才」なイメージを持たれていたような立場の人びと――たとえば学者、政治家、文化人、弁護士、医者など――にも「バカ発見器」のサーチ能力が及ぶようになった。一般的には「エリート」「インテリ」と呼ばれていた人でさえ、ツイッター上では愚にもつかない不規則発言を弄してしまう場面を、私たちはたびたび目撃するようになったのだ。
こうした現象が示唆するのは「バカ発見器」であるツイッターが、「いままで賢いとされていた人びとが実はバカだったことを白日の下に晒した」ということではない。そうではなくて、「これまで賢いと評されていた人びとの持つ『賢さ』がいったいなにによって作り出されていたのかを逆説的に示した」のだと言えるだろう。
「編集」の圧倒的な力
では、いままで「賢い」「インテリ」などと評されてきた人が、そもそもなぜそのような評価を得ていたのか――それはひとえに「編集」の力があったからだ。
なんらかの専門的知識によって賢いと評価されていた人が、専門外の分野でしばしば愚かな言動を発してしまうのを、SNSが普及する以前の時代では「編集」という行為が不可視化していた。出版社やマスメディアには「編集」という行程に携わる編集者というプロフェッショナルがいた。
そのおかげで「賢い」「インテリ」とされていた人びとは幸運にも、「この人は賢いことしか言わない人だ」という読者や世間からの印象形成に成功していたのだ。
だがSNSが当たり前のインフラとして人びとに利活用される時代となり、状況は一変した。
言うまでもなく、ツイッターには編集者がいない。個人が私的に運用するアカウントについては、原則として本人のみがその文責を負っている。これまではプロフェッショナルたちの編集という営為によって、自身の「賢い発言」しか見事に記録されなかった類の人びとも、私的な文章を投稿するツイッターというメディアでは、その言動が文字どおり《赤裸々》につづられるようになった。
その結果は読者の皆さんもご存知のとおりだろう。つねづね賢いとされてきた人びとでさえ、専門外の話題や、あるいは「無編集」の言明では、とてもではないが賢人とは評価し難い言動をしばしば見せていたのである。ツイッターで可視化される「無編集の知識人」の姿には――編集者たちの存在の重要性が逆説的に浮き彫りになっていると同時に――失望や落胆の色が隠せない人も少なくない。
長年憧れてきたあの人が、ツイッターでは事実無根のデマに踊らされたり、最悪の場合はデマやフェイクニュースを垂れ流す当事者になっていたりする。書籍や雑誌では理路整然と語るあの人が、ツイッターでは感情剥き出しの論理性の欠片もない主張を延々と繰り返している――そうした、ある種の「幻滅」に出くわす場面は、われらが愛すべき「バカ発見器」のせいで日常茶飯事となった。
「バカ発見器」ことツイッターによってあえなく「発見されたバカ」になってしまった有識者や知識人たちは、自分はバカではないということを示そうとして、さらに「無編集」の発言を繰り返して恥を上塗り、事態を収拾させるどころかさらに悪化させてしまうこともよくある光景となっている。
「黙考」の力に気づく
「バカ発見器」によって「発見されるバカ」の無残な姿は、しかし私たちに「幻滅」だけではなく、同時に重要な示唆や教訓も与えてくれている。
というのも、編集者はなぜ「賢い人」の「賢さ」を作りだせていたのか――それは彼らの編集によって「沈黙」を操ることができていたからだ。
「賢い人」の出力したテキストのなかに、読み手に「はぁ? なにを言っているんだ。バカかコイツは?」と思われそうな部分があったら、それをまるごと削除し「沈黙」に変えてしまう。そのような愚かな部分をなにか別のことばであえて言い繕うのではなく、なにも語っていないことにしてしまう。
なにを語っているかではなく、なにも語っていない空白部にこそ、賢者が賢者として評価される大きな所以があったのだ。
ツイッターをはじめ、インターネットでは脊髄反射的にリアクションをしたくなるような話題が毎日のように流れてくる。だがそこで安直に反応し「発見されるバカ」にならないためには「いかにただしい答えを、いかに短い期間で導き出せるか」をとことん修練し追求するのではなく「いかに沈黙を実践できるか」が重要になってくる。
SNSを覗いてみると、ほんの数分もしないうちに、とめどない話題や論争に巻き込まれ、黙っていられなくなり、さまざまな出来事に一言もの申したくなる。私たちは「すぐさま反応すること」を絶えずそそのかされている。
だれもあえてその場で沈黙を選べないからこそ、逆説的に「沈黙すること」の価値がきわめて高くなっている。SNSが当たり前のインフラとして普及した現代社会では、「なにを語るか」ではなく「なにを語らないか」こそが、自分の日常を、ひいては自分自身をつくっていくことになる。
琴線に触れる話題が毎日怒涛の勢いで流れてきて、スマートフォンやPCの文字を入力する指が思わず動きそうになる。だがそこであえて指を止めて沈黙することを選びたい。なにも語らない。なにも語らず、参加しない。参加せず、当事者にならない。当事者として近接した主観視点ではなく、距離を置いた場所でじっくりと黙考する――。「黙考する非当事者性」を目指す営みこそ、だれもが熱に浮かされる高速な情報コミュニケーションの世界で、私たちの暮らしをより穏やかで、豊かで、そして心安らぐものにしてくれるはずだ。
だれもが高速な情報ネットワークに手軽に接続できるいま、私たちにもっとも必要なことは「ただしくそしてすばやく発言すること」ではない。「ただしく沈黙すること」によって、もはや手懐けるには強大になりすぎた「言葉の力」を、少しでも自分の掌(たなごころ)におさめようとする、不断の努力だ。
自分がこの努力をつねに怠っていないといえば嘘になるし、多かれ少なかれ自分を棚上げしていることも重々承知している。しかしそれでも「発見されるバカ」とならないために、「黙考すること」を少しでも多くの人が実践できれば、インターネット世界も――ひいては自分自身の人生も――いまより平和で建設的で、そして心安らぐ場へと変わっていくのではないかと思う。