追悼デヴィッド・グレーバー:コロナ以降の新しい世界を想像するために - 伊藤聡
※この記事は2020年09月09日にBLOGOSで公開されたものです
去る2020年9月2日、アメリカの文化人類学者デヴィッド・グレーバーが急逝した。59歳の若さであった。今年、日本でも4月に『民主主義の非西洋起源について:「あいだ」の空間の民主主義』(以文社)、7月に『ブルシット・ジョブ──クソどうでもいい仕事の理論』(岩波書店)と2冊の著作が続けて刊行され、ついに彼の仕事が広く評価されるタイミングが訪れたかと期待した矢先の残念なできごとだった。
『負債論』(以文社/原著は2011年発表)で一躍話題となったグレーバーは、リーマンショック後に起こった「ウォール街占拠」運動で指導的な役割を果たした人物でもある。彼は8月29日にSNSへ動画を投稿し「体調が万全ではないのですが……」と語っていたが、そこからほんの数日後の思いもよらない知らせに「人はこのようにあっけなく命を落としてしまうものか」と驚きを禁じ得なかった。現在最注目であった思想家の死は惜しみきれない。今回はグレーバーを追悼しつつ、彼の思想がいまの日本社会でどのような意味を持つのか、彼の著作の一部を紹介しながら記事を進めていきたい。
『負債論』が描き出したお互いを尊重する生き方
グレーバーの著作はどれも、日常で生まれた疑問や発見をベースに書かれている。彼の本がいきいきと読者に訴えかけてくるのは、執筆の動機がパーソナルな経験から始まっているためだ。だからこそ、資本主義や官僚制といった大きな問題を扱ってもあまり抽象的にならず、地に足の着いた読後感がある。
彼が『負債論』を書いたきっかけのひとつは、パーティーで出会ったとある人物から言われた「ともかく借りたお金は返さないと」の言葉だったという。借りることは自業自得であり、返せなければ相応の罰を与えられても仕方がないという考え方。かつて学生ローンの返済で苦労した経験のあるグレーバーは、この断定的な言葉に反発を覚えたのだが、うまく反論ができなかった。
その後、彼は人類学者としての知識を総動員し、5000年にわたる人類の歴史をふりかえりながら、かつての共同体や古い社会で「貸し借り」はどのように行われていたかを1冊の本にまとめた。人類学の視点から見て、借りを返さないことは本当に罪であり、不名誉なことなのだろうか。
『負債論』は、人と人がコミュニケーションする上で避けて通れない「貸し借り」をテーマに歴史をたどり、新自由主義の弊害や貧富の差といった現代の問題へたどり着く。そこでグレーバーは「人はみな必ず、周囲から多くのものを借りながら生きていて、それらをすべて返そうと考えるのは間違っているのだから、少しずつ借りたり、返したりを繰りかえしていけばいい」と、胸のすくような視点から読者を勇気づけるのだ。
どのようにふるまえば、他人との関係をよりよく保ち、お互いを人間として尊重しながら生きていけるかが『負債論』のテーマだ。人を金融商品のように扱ってはならない、と論じるこの本に、数多くの読者が快哉を叫んだのではないか。
市民が政治や社会に抗議を示すヒント
グレーバーがリーマンショック後に「ウォール街を占拠せよ」運動へ参加していたことは先述したが、公園にキャンプを設営して泊まり込む、デモ行進をするといった直接行動の経験は『デモクラシー・プロジェクト:オキュパイ運動・直接民主主義・集合的想像力』(航思社)を書くきっかけとなった。
「ウォール街を占拠せよ」運動は、無責任な経営で経済を破壊した銀行を税金で救済し、1%の富裕層を優遇する一方、貧しい人びとには無策だった政府への批判として始まった。『デモクラシー・プロジェクト』は、市民が政治や社会に対していかに抗議の態度を示すべきか、その試行錯誤の記録でもある。日本でも今年、SNS上での抗議運動が現実の政治を動かしたことが何度もあり、「どのように声をあげればいいか」「具体的にどう行動すべきか」は切実な問題になっていると思う。
「平等とは、多種多様な価値を求めるのに必要な資源を平等に利用できるよう保障すること」というグレーバーの言葉は、コロナ以降に必要となる給付金や公的支援制度を考える上でも重い意味を持つはずだ。
意外な着眼点の本に『官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則』(以文社)がある。この本は、グレーバーの母親が亡くなり、その後に彼が経験した役所での手続きがあまりにも煩雑だったことに端を発して書かれた。膨大な提出書類、難解な手順、問い合わせるごとに変わる回答、不備による書類返却の連続。
いつ終わるとも知れない申請作業の堂々巡りに巻き込まれたグレーバー。こうした非効率、実は日本人の我々にも心当たりがある問題だ。今年行われた10万円の特別定額給付の申請書類にあった「受給を希望しない」のチェック欄を覚えているだろうか。なぜあのように無意味な欄があるのか。若干の悪意すら感じるチェック欄の不可解さこそ、グレーバーが『官僚制のユートピア』で突き止めようとしたものである。
アメリカだけではなく、日本もまた特有の非効率を温存している。コロナで浮上したいくつかの問題、たとえばインターネットで給付申請をするより郵送の方が早かった、いまだにファックスで情報をやり取りしているなどの混乱を考える上でもヒントが得られる書物だ。
従事すると心が荒む「意味のない仕事(ブルシット・ジョブ)」
今年翻訳が刊行され大いに話題となった『ブルシット・ジョブ──クソどうでもいい仕事の理論』のタイトルを目にした方は多いだろう。自分の仕事が社会に貢献していると感じられない人、もし明日自分の働いている会社がなくなっても誰も困らないだろうと考える人が増えている、というテーマにぎくっとした読者もいるはずだ。ここでも、グレーバーが学生時代に経験した皿洗いのアルバイトのエピソードが披露されている。
彼が皿洗いを手際よく終わらせ、空いた時間でアルバイト仲間と雑談をしていたら、店長から「勤務中なのだから時間をムダにするな」と叱られてしまった。グレーバーはそこで初めて「仕事の効率を上げすぎてはならない」という暗黙のルールを知る。こうした無意味さは働く者に徒労感をもたらすが、社会人であれば誰もが一度は「やるべき作業がないのに働いているふり」をした経験があるだろう。
意味のない仕事(ブルシット・ジョブ)に従事する者は、日々精神的な暴力にさらされているのと同じであり、心が荒んでいくと同書は指摘する。たとえば、誰も読まない記録や書類を作成する、見た目ばかり豪華で無意味なプレゼン資料に時間をかける、不要な管理職を配置して確認の量を増やす……。筆者はこの本の主張を他人事とは思えなかったし、多くの人がそれに近い意見ではないかと予想している。
グレーバーは『ブルシット・ジョブ』において、真の意味で他者に寄与するエッセンシャルワーカー(看護師や清掃人、保育士など)が低賃金にあえぐ状況を指摘した。「エッセンシャルワーク」もまた、現代日本に浮上した問題のひとつである。
小泉環境相は「ゴミ回収の作業員を称えるためにゴミ袋に感謝のメッセージを書こう」と提案したが、彼らに必要なのは十分な給与と福利厚生だ。私たちの社会は本当に尊重すべき人びとをないがしろにし、逆に不必要なものをあたかも必要であるかのように見せかけてきた。
グレーバーは、経済とは「わたしたちが互いをケアするための方法、わたしたちが互いの生存を支えていくための方法」*1だと述べ、それがコロナによってあきらかになったと主張する。こうした彼の意見に最大限の同意を示したい。もはや我々はコロナの前に、「通常」に戻ることなどできないのであり、非正規雇用や低賃金といったかたちで多くの人びとを抑圧することでしか成立しない経済を復活させたところで、誰も幸福にはなれないだろう。
本当に新しい社会をリアルに想像する力をつけるため、あらためてグレーバーの著書を読み返していきたい。「対抗力とは、まず何よりも想像力に根ざしている」*2とは、筆者が好きなグレーバーの言葉のひとつである。
*1 http://www.ibunsha.co.jp/contents/kataoka03/ *2 『アナーキスト人類学のための序章』(以文社)
簡易版グレーバー著作解説(翻訳刊行年順)
※一部、絶版書も含まれておりますのでご注意ください。詳しくは出版社のホームページ等を確認ください。
『アナーキスト人類学のための序章』(以文社)
グレーバーの思想がコンパクトにまとまった1冊。価格も手頃であり、この本から始めるのもよい。『負債論』につながるアイデアもすでに書かれている。
『資本主義後の世界のために 新しいアナーキズムの視座』(以文社)
インタビュー形式で読みやすく、内容も楽しい。「200年前、奴隷制度廃止はユートピア的夢想だと思われていたが、しかしそれが可能になったのだ。おそらく100年後、賃労働=奴隷制もなくなるだろう」との言葉に胸が躍る。
『デモクラシー・プロジェクト:オキュパイ運動・直接民主主義・集合的想像力』(航思社)
実際にデモや抗議行動をするとどのような困難があるか、意外な視点が提示されて興味ぶかい。抗議行動を通して、学生ローンに苦しむ若い学生と出会い、「かれらは幼少時から、自分たちがしなければならないと言われたことをきちんとやってきたし、勉強し、大学にも入ったのに、今まさにそれが罰せられ、侮辱され、そして債務者、道徳的な落伍者として扱われるような人生に直面している。かれらが、自分たちの未来を盗んだ金融界の大物たちに何かものを言いたいと思うことは、本当に驚くべきことなのだろうか」と語る場面がすばらしい。
『負債論』(以文社)
グレーバーの主著であり、彼の魅力がつまった最高の1冊。かなり厚いが、ここまでスリリングな本を読み通せないなどということは考えにくい。必読。
『官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則』(以文社)
テーマはビューロクラシー(官僚制)。本人の実体験がベースにある点は共通している。ドイツの郵便制度に言及するくだりがユニーク。
『民主主義の非西洋起源について:「あいだ」の空間の民主主義』(以文社)
「民主主義はアテネで生まれたのではない」というテーマ。「アナキズムと民主主義はおおむね同じものである」という思い切った主題が展開される。
『ブルシット・ジョブ──クソどうでもいい仕事の理論』(岩波書店)
こちらも大いにおすすめ。あらゆる社会人に読んでほしい、労働と尊厳にまつわる1冊。結論部分ではベーシック・インカムが提案されるが、その理由もすばらしく、納得度が高い。
伊藤聡
海外文学を中心に、映画・音楽に関連する原稿を執筆。著書『生きる技術は名作に学べ』(ソフトバンク新書)