民意に「耳を傾けすぎる政府」が混乱深めた?西田亮介氏に聞く、コロナ禍で場当たり的な対策が続いた理由 - 村上 隆則

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※この記事は2020年09月07日にBLOGOSで公開されたものです

新型コロナウイルスによって社会が大きく揺れていた7月末、東京工業大学准教授で社会学者の西田亮介氏が『コロナ危機の社会学』(朝日新聞出版)を上梓した。本書はコロナ禍において、不安が蔓延していく中で、不確かな情報によって政治や行政が混乱していく様を記録した一冊だ。

今回、新型コロナによって浮き彫りになった政治・行政の課題は何なのか、また、それらを生んだSNSをはじめとする現代の情報環境が持つ問題について話を聞いた。

感染症とともに顕在化した「耳を傾けすぎる政府」

--新型コロナウイルス感染症によって、この数ヶ月間、世の中はとても混乱した状況が続いていました。政治の分野でもそれは顕著だったかと思います。そのようすをどのように見ていましたか

まず、今回の新型コロナウイルス感染症の拡大は、戦後誰も経験したことのない規模でおこっています。10年前の新型インフルエンザの国内感染拡大と比べてもそうですし、社会、経済への影響もそうです。その点では、一定の混乱は仕方がないともいえます。

ただその中でも、政府が可視化された、わかりやすい「民意」に対して過剰に耳を傾けすぎたこと、つまり政策効果よりもそれによって支持率回復等が優先された可能性を懸念しています。

--『コロナ危機の社会学』の中でも「耳を傾けすぎる政府」というのはひとつのキーワードになっていますね

はい、「耳を傾けすぎる政府」という概念には、少なくとも3つのことが含意されています。

それは、①何かの原則に基づく判断ではなく、局面に応じて場当たり的に耳を傾けていること、②国民のことよりも、政権維持や内閣支持率といった政治の都合と利益を中心に考えていること、③効果的な対処よりも、単に幅広い人々の不安に突き動かされた不満と要求に対症療法的に何かしようとしているかのように見せかけたいということです。

--新型コロナによって、そのような状況が生まれたのでしょうか

新型コロナの影響ももちろんあるとは思いますが、これは安倍政権自体が持つ特徴のひとつが噴出したと考えています。おそらくこれまでに生じたいくつかの政治的なスキャンダル、インシデントも重なり、政治不信、それから政権支持層と不支持層の分断も強まっていました。このような政治的、社会的積み重ねが、コロナ禍でそのような事態を招来したという見立てです。

--これまではそうした対応の仕方でも様々なインシデントを乗り切ることができたものの、新型コロナにはそれでは難しかった?

コロナ禍は社会、経済に大きく影響を与えました。それらへの影響や人々の不安、不満、不信感にまったく答えられていないでしょう。

平時には場当たり的な対応で、相対的な優位に立つことができれば勝てる選挙もそうですし、いつの間にかソサエティ5.0的なものになってしまった「アベノミクス」はじめ、看板ばかりで実質が伴わない政策だとしてもなんとか政権の都合で乗り切ることができていましたが、人間の事情を考慮してくれないウイルスにはそうはいきません。

--一方で、民意に耳を傾けて政治をおこなうというのは、自然なことのような気もします

民意を注視する必要があるのは当然ですが、民意は正確であるとは限りません。ネットのランキングなどで可視化される、統計的妥当性も定かではない「民意」はなおさらです。他方、自由民主主義社会における民意は、たとえそれが不正確なものだとしても表明する権利が保障されているべきです。それが表現の自由でしょう。最近は世界中でその原則が揺らいでいます。しかしそうであれば、なおさら政治システムは単に民意に従えばよいというものでもありません。政策の前提となる情報に関して、政治行政システムと国民のあいだには非対称性が存在します。理解を求めるべく現状を詳しく説明するとか、場合によっては、ある政策の必要性を説得するということもすべきです。公文書、データの改ざん、隠蔽、国民の代表でもある国会での質疑、記者会見の受け答え等を見ても、端からそうした姿勢が見られませんでした。

--もし別の政権だったらうまくいったのでしょうか

わかりません。初期対応は相当程度、計画的なものだったので、それほど政権の如何にそれほど依存しないものだったようにも見えます。実際、新型コロナについては、野党も同じような「耳を傾けすぎる政治」になっています。たとえば国民民主党の玉木雄一郎代表は、「玉木私案」として、一時期補正予算100兆円、真水で用意するべきだと言っていました。いきなり国債で100兆円財政出動するべきだと言っているわけですが、しかも、使途の中身を見る限り、政府案とそれほど変わらないわけです。しかし民主党政権で行われた東日本大震災の復旧復興方針とは真逆ともいえるものです。どう理解すればよいのか、十分に説明しないどころか最近はこうした提案に言及することもめっきり少なくなったようです。思いつきだったのでしょうか。

これは、与党も野党もネットやSNSなどで見えやすくなっている民意に即応しようとしすぎているといえるのではないでしょうか。政治学者の御厨貴先生は政権を総括して「やっている感」と評していました。その現れのようでもありますよね。

感染症だけでなく、不安のマネジメントに失敗した

--それくらい先の見えないというか、予測しづらい状況だったということでしょうか

感染症それ自体については、感染の先行き含めてある程度計算できるところがあるはずです。ただし、緊急事態宣言などで、広く国民生活や経済活動を制限することになったように、また持続化給付金や特別定額給付金のような給付措置もあり、コロナ対策は純粋な感染症対策の範囲にとどまりません。派生して広範に強い不安が生じ、そのマネジメントに失敗したのではないでしょうか。

10年前、新型インフルエンザが感染拡大したときにも、情報が人々の行動へ影響するということや、そうした状況を防ぐために行政が情報発信をしっかりとやっていかなければならないということは総括されていました。しかし、これはいまのところ改善されていません。ネットとSNSの普及もありむしろ、その重要性はますます増していますが、十分検討されてこなかったか、かたちにされてこなかったのではないでしょうか。

--情報がないことによって、不安ばかりが募っていく事態になっているわけですね

客観的な事態と認識の乖離はしばしば生じますが、不安によって人々は突き動かされます。なんとなく不安だから買い増しをする、買い占めをするということがありえるわけです。たとえ供給体制が揺らいでいなくても、そのことが実際の品不足を引き起こしたりするわけですよね。

もちろん感染対策もしっかりやる必要はありますが、政治も、行政も人々の不安とどう向き合って丁寧に対処する方法も考えるべきです。

--情報流通によって広がっていく不安に対して、できることはあるのでしょうか

WHOはおもにネットのデマ情報において、インフォデミック(インフォメーションとエピデミックを組み合わせた造語)の対応が必要だということで、ISAQという基準を出しています。

これは情報を発信するにあたって必要な、4つの項目「Identify(明確化)」「Simplify(簡素化)」「Amplify(拡散)」「Quantify(定量化)」の頭文字を取ったものです。不用意なデマ情報の拡散を防ごうというわけですね。

--たしかにネットではISAQとは真逆の不安を煽るような情報が拡散しやすいので有用だと思います。マスメディアについてはどうでしょうか

マスメディアも、とくにワイドショー的なものはこれらの観点でどれにも合致しないどころか、でたらめもいいところだったと思います。

ワイドショーは、やはり視聴率に重点をおいた番組作りになりますし、朝から晩まで、同じような内容を繰り返し流しています。ただ日本においては、よくも悪くもワイドショーは多くの人に見られていて、「民放キー局がやっているから」と、妙に信頼されている面もある。

--ネットではそうしたワイドショーの姿勢は批判されていましたが、結果的に、ネットでもその情報が大量に流れているという状況が生まれていました

結局、日本のメディア環境の特殊性というのは、ネットとマスメディアの距離がとても近いことです。ネットで広まっている情報の少なくない部分は新聞社やテレビの情報をもとにしたものです。それらがSNSなど様々な経路から大量に流通しています。

なので、マスコミ各社がどういった発信をするかは、新型コロナに対する世論や人々の受け止め方に強い影響を持っていたはずです。それがひどかった、でたらめだったといえるのではないでしょうか。

--マスメディアやSNSであやふやな情報が生まれ、それがネットを介して拡散することで民意のようなものを形成し、目に触れやすくなることで、「耳を傾けすぎる政府」が生まれる。ある種、仕組みのようなものができているということだと思いますが、これは今後どのような問題を生むと思いますか

「耳を傾けすぎる政治」に関連して、最近懸念するのは、本当に困っている人の声やニーズが聞き取りづらくなったのではないかと思うんですね。

生活保護バッシングや母子家庭の貧困問題などをはじめとして、日本においては、本当に困っている人ほど声を上げないという問題がある。そんな中で多くの人が、「政権どうなってるんだ」と思って、SNSで声高に発信すると、もともと声を上げることの少ない本当に困っている人の声がますます見えにくくなります。本来であれば本当に困っている人から対処しなければならないのに、「耳を傾けすぎる政府」は声の大きいマジョリティを優先してしまいます。このことを、大変懸念しています。

文系の議論は「必要ない」

--今回、アフターコロナ、withコロナ、ポストコロナといった言葉も出てくる中で、科学だけではだめなのではないか、文系的な議論も必要だという声もありますが、それについてはどう考えていますか

これは自分のものも含めてですが、感染症の今後の先行きや感染症抑止に関していえば、文系の議論は必要ないと思います。明らかに専門外ですよね。どんなバックグラウンドを持っている人が、どんな観点から言っているのかを注視する必要があります。私もそうです。感染症それ自体や動向予想、対処方法はまったく専門外ですから、それらについて何か言っているわけではありません。私が論じているのは社会、政治、メディアの問題についてです。最近、コロナに関係する書籍が多数出ていて、実際に読んだりもしているのですが、専門外の文系知識人がとくに勉強せずインタビューを受けても、みんな新型コロナと関係ないいつもの持論を展開するだけのものも少なくありません。

研究者は社会に何か大きなことがあったとき、自分の議論を普及させるチャンスだと思うわけです。どんな分野でも、ほとんどの研究者はそういう欲望を持っています。私もそうです。専門家もみんな、ものを言いたいということですよ。

こういう状況下で、かろうじて文系の研究者ができることは何かというと、自分の専門分野において「いま起きていることに疑問を持つ」と言うことですね。

たとえば今回ここで話していることは、ウイルスの問題ではありません。繰り返しですが、政治、行政、メディアの問題です。コロナ禍は、すぐに解決できる問題ではないし、実際、対策それ自体もよく見れば各国どこもうまくいっていないんだけれども、社会問題、政治の問題としての課題を提起することはできるはずです。

--国民からすると、政治のそうした変化になかなか期待が持てないというのもあるとは思いますが

政治に期待していないというのはそのとおりだと思います。一方で、政治にしかできないこともたくさんあるわけです。

たとえば、特措法に基づいて緊急事態宣言を出すのも広義の政治です。特措法や感染症法を改正できるのもそうです。いま我々はこうした状況下で政治にしかできないことをちゃんとやってもらわないと困るということが明らかになっているということなので、それについてはちゃんと文句を言っていかないといけない。これは間違いないはずです。

プロフィール
西田亮介(にしだ・りょうすけ):東京工業大学准教授。博士(政策・メディア)。専門は社会学、公共政策学。情報と政治、若者の政治参加、情報化と公共政策、自治体の情報発信とガバナンス、ジャーナリズム、無業社会等を研究。近著に『コロナ危機の社会学』(朝日新聞出版)『なぜ政治はわかりにくいのか』(春秋社)『情報武装する政治』 (KADOKAWA)など多数。