ミシュラン1つ星の広尾「Ode」生井祐介シェフ 25歳未経験からの料理人人生 - BLOGOS編集部
※この記事は2018年12月13日にBLOGOSで公開されたものです
外国人観光客の増加、SNSの普及。
現在、飲食店のアプローチの仕方が大きく変化している。
東京・広尾にある「Restaurant Ode」の生井祐介シェフは、自らシェフを務めてミシュランの1つ星を獲得した前店を去年辞め、自分の店をオープンさせた。積極的に海外レストランとのコラボを行う生井氏に、料理人人生を振り返ってもらいながら、食へのアプローチについて話を聞いた。
海外の客は料理人をクリエイターととらえる
――お店をオープンしたころ、インタビューで「海外からお客さんに来てほしい」ということをよくお話しになっていましたが、どういう思いだったのでしょうか?
インバウンドの需要が増えていましたが、ただやみくもに席を埋めるのではなくて、意識の高い、食に関心のある人たちに、わざわざ目指してもらえるようなレストランにしたいと考えたんです。
――海外からわざわざ来るお客さんは、やはり食に関心のある方が多いのでしょうか?
食に関心があるということに加えて、料理人がどういう”クリエイティブ”を行うのかということに期待していると感じます。
わざわざ東京に予約してまで来るお客さんとは、出てくる料理をただ「美味しい」というだけではなくて、「なぜこういう料理になったのか考えを知りたい」といった会話になる。
そうやって、対ヒトとして向き合って食べてくださるお客さんは、僕から料理以外の色々な情報を引き出してくれる気がします。
ただ食事に来た、美味しかったということ以外に記憶に残る旅のひとつになる。そういうことをスマートにやれる方が海外の方は比較的多いです。
――海外の方たちは、シェフ個人を超えてもっと広く日本人、日本に対してどういったものを求めているのでしょうか?
日本に来るお客さんは、「いま京都の紅葉がきれい」だとか色々なことを知っています。
日本のことを調べてきてくれるお客さんからは、その上で「なぜこういう風になっているのか」「なぜこういう食材を使うんだ」と聞かれることがあります。
どういうことをすれば興味を持ってお店に来てもらえるかを常に考えていて、例えばアミューズでドラ○ンボールという料理を出しています。海外の方の反応もとてもいいです。
25歳と遅いキャリアスタート
――シェフは料理の世界に入られる前は音楽活動をしていたと伺いました。
高校卒業後、料理とは無関係の専門学校を出た後、一度就職しましたが2年で我慢できなくなってしまい、地元の埼玉に戻りました。軽音楽部で一緒に活動していたような友人たちと、音楽活動がしたくなったんです。
――専門学校に行ったのは、何か目指すものがあったのでしょうか?
根拠も目標もまったくなく、ただ学生の時間を引き延ばしたいという安易な考えでした。
今考えると埼玉に戻ったのも、仕事から逃げて、友人たちと遊びたかっただけで。25歳まで、そんな感じでダラダラ過ごしてしまいました。
――そこから料理の世界に入ったのはどのようなきっかけがあったのですか?
2人の方が関係しています。
1人はお世話になっていた千葉のライブハウスのマスター。
元料理人で、当時お金のなかった僕たちにツケで飲み食いさせてくれていたんです。
それが全部美味しくて、料理って面白そうだなとぼんやり感じていました。
もう1人は当時付き合っていた大学生の彼女です。
就職が決まった彼女が大阪に行くことになり、離れ離れになったときにちゃんと職を持ってくれていないともう無理だ、と。
それで必死になったんですよね。
最初はマスターに料理を教わった後、他のお店を紹介してもらいキャリアがスタートしました。
――ちなみにその恋人というのは…
今の奥さんではないです(笑)。
――ないんですね(笑)。
なのでここはあまりフォーカスしないほうが…(笑)。
フランス行きを諦め軽井沢へ
――東京で数軒修行された後、軽井沢に行かれたとか。
フランスや海外で修行するというのも、年齢的に最後のチャンスだと考えていました。
それでも師事していたシェフに誘われて結局軽井沢に行きました。
――決め手になるものはありましたか?
「どこで働いていても、自分が何をするかが大事だよ」という話をされて、それが響きました。
フランスに修行に行っても”一緒くた”になってしまう人が多い中で、全然違うところでもそこで”自分”を磨けば”個”として立つのではないかと。
軽井沢では、スーパーの野菜と違って農家さんが「今はまだこれくらいだけど、生でもおいしいよ」とか、成長の過程を教えてくれて、そのつど色々な形、テイストのものを食べられる。今まで”ズッキーニとはこうだ”という固定観念で考えていた料理とは全く違う発想が生まれるようになりました。
また作り手によって味の違う野菜の個性にビックリさせられて、この料理には○○さんのルッコラ、○○さんのトマト、と指定して使っていました。
――そんな軽井沢から東京に戻ろうと思ったのは、なぜでしょうか?
東京は料理の世界でも日本の中心です。
東京で活躍しているシェフが憧れでしたし、田舎の軽井沢で、専門誌に自分と同年代の人たちがどんどん出てくるのを見ると、自分は全然スポットライトを浴びていないという思いがありました。
Facebookで増やした料理人の”友達”
ちょうどFacebookとかSNSが料理人の間で広まってきていて、僕は専門誌で見た有名なシェフに片っ端から友達申請していたんです。こういうことをやっています、と添えて。
友達になってしまえば、その人たちのタイムラインに自分の投稿がアップされる。そのころ軽井沢で暇だったので、頻繁に料理をアップしていたんです。
写真を撮って、加工アプリでカッコ良くする、という作業をとても楽しんでいました。
――自分の料理がどう映えるか、というのも少し意識したりしましたか?
少しどころではなかったですね。とても意識してやっていました。
だから料理を作っちゃ撮って、上げて、と続けていたら色々な人が気にしてくれて。東京に行きたいというのは、リアクションがぽつぽつ出てきたころでもあったんです。
――では今お客さんが写真を撮ってSNSに載せて、ということにネガティブなイメージはありますか?
まったくありません。
最初からミシュランの星を狙っていた
東京に戻った生井は軽井沢時代の常連客だったオーナーと2人で、2012年に東京・八丁堀に「CHICpeut-etre(シックプッテートル)」をオープンさせる。
――東京に出てきて、具体的に目標みたいなものはあったのでしょうか?
ミシュランの星は絶対取りたい、と思っていました。
――最初からはっきり狙われていたんですね。
ミシュランの星付き店で働いたことがなかったのが、自分の中ですごくコンプレックスだったんです。
――星を意識して、されていたことはありますか?
常にお客さんを喜ばせるのは大前提ですが、同業の人たちがSNSで見て数珠つなぎに来てくれたことは大きかったかもしれません。
みんなが知っているような有名なシェフが来てくれたときは一緒にツーショット写真を撮って、今日は○○シェフが来てくれました、とどんどんアップしました。
そうすると、同業の人たちが来てくれて、満足してくれたら外で紹介してくれて、食通の人たちが来るようになって、もうちょっとすると普通の人たちが来て。
そのころには、メディアの人たちが来るようになっていました。
――Facebookでやっていたことが実を結んだのですね。
そうですね。
僕はもう本当に”シェフフェチ”だったんです(笑)。ずっと専門誌を見てアイドル視していたので、どんなシェフが来店してくれても大概分かったんですよ。
そんな憧れの人たちが食べに来てくれたら、胸を借りるつもりで喜んでもらおうと頑張れたんです。
東京でのライバルは250円の弁当
――軽井沢でのお話を聞いて思い出しましたが、シック時代はランチのサラダがすごく美味しかった記憶があります。あれは軽井沢の野菜だったのでしょうか?
ほぼ軽井沢です。シーズンじゃないときは栃木の益子にある川田農園というところも使いました。
あれをやれば、近隣のお店にはまず勝てるだろうと思っていました。
お店のあった八丁堀の辺りは250円くらいから弁当が売られていたんです。
――250円のお弁当を敵だと意識されましたか?
価値観の問題です。どういう価値観を持っているのか。
僕が軽井沢で、朝採った野菜をサラダにしてワシワシと食べていたのを、東京でやったらどれだけ価値があることかというのは、分かる人はいるだろうと思っていました。分からない人はいいかな、と。
250円の弁当を持って通りかかった人が、ガラス張りの店内の山盛りのサラダを見て、人と会うときに予約してみようかな、とブックマークに入るくらいの感じにはなっていたと思います。
――そこから、独立して今のお店を始めようと思ったきっかけは何だったのでしょうか?
いつか独立したいというのは、八丁堀で店を始めたころからありました。
オーナーと共同経営で、ガストロノミック※みたいなレストランを作る夢はありましたが、オーナー的にはノー。それが叶わなかったので、自分でやるしかないなと決めました。
※文化と料理を考察すること。美食学。
もっと日本をアピールした方がいいと感じた
2017年のオープンから1年経過した現在、Odeは海外の飲食店とのコラボを積極的に行っている。コラボ相手の常連客などは、訪日客と違い日本に対する知識があまりないこともあるという。
――日本に詳しくないお客さんを相手にするときほど、挑むシェフとしては”日本”を出していこうという思いでしょうか?
日本に元からある料理やデザートを、形を変えてアレンジして出しています。
日本人が食べたら「安心する」とか「この味ね」という料理にすると、日本ではこういうものを美味しいと感じるんだというメッセージになるんです。
――先日シェフのお店でいただいたデザートに葛切り餅とおこしが入っていて、日本人の私はフレンチに使うという面白さを感じましたが、海外の方はまったく違う感覚だろうなと考えていました。
ロシアでもあれを出してビックリされましたが、とても喜んでいただきました。
海外での経験で、より日本をアピールした方がいいんだと感じました。
台湾で食事に行ったときにも、「これは台湾では幼少のころから食べるお菓子の味です」というのをガストロノミックに昇華したものが出されたんです。
海外のお店は、自国の料理を吸収して、モダンにしてレストランに出す、そういう再構築を必ずやっていたり、コンセプトに組み込んでいたりすることが多いですね。
――「日本をアピール」というとやはり海外のお客さんに来てもらいたいという意識ですか?
海外のお客さんも日本のお客さんも、どちらにも、面白く感じてもらえるかなと思います。
ミシュランの星を失い「悔しかった」
――コラボでもドラ○ンボールは出すんですか?
鉄板ですね。必ずやります。
――こじつけですけど”星”というと、ミシュランがそろそろ発表になりますが、今は星を失われています。このお店を始めるときも意識されましたか?
去年は8月までなら調査員が食べにくる可能性があると聞いていましたが、店のオープンが9月後半でした。
もう色々集計が終わった後で、とても悔しかったです。
――海外を意識されるとなおのこと星は大事ですよね。
海外の方は、ミシュランの評価でお店を決めるということは結構ありますね。
――ではそれが1つ星、2つ星となったときはドラゴンボールの星を増やしたりしませんか?
考えてもいいですね。2つ星を取ったら2個にしてもいいかもしれないですね。言えますしね「2つ星取りました!」って(笑)。
※インタビュー直後に発表されたミシュランガイド2019で「Restaurant Ode」は1つ星を獲得。
【BLOGOS編集部:川島透】