真山仁が占う日本社会の行方 若者は「死ぬ人は死んで」と言えるか? - BLOGOS編集部
※この記事は2018年11月28日にBLOGOSで公開されたものです
経済小説「ハゲタカ」などのヒット作で知られる小説家の真山仁さんが、日本社会が停滞に至った原因を探った社会派エッセイ「アディオス!ジャパン~日本はなぜ凋落したのか」(毎日新聞出版)が10月5日に刊行された。「問われる震災復興」「沖縄は可哀そうな場所なのか」など国内外18のテーマに独自の視点で切り込み、日本社会が勢いを取り戻すための術を提示している。メディアやSNSの在り方まで、日本社会をめぐる課題やエッセイに込めた思いを聞いた。
小説だけでは伝わらない「怒り」
ーー今回は小説ではなく、初のエッセイとなりました。エッセイを選んだ背景を教えてください。
私が小説を書く根源には、ある種の“怒り”があります。「おかしいのでは」と感じることがまかり通ってしまう世の中の仕組みや社会の常識に対して、「こんな日本でいいのか」と小説で訴えています。けれど、まだまだ多くの人に届いていないというもどかしさがあります。それで今回は、もっとストレートに伝える方法としてエッセイを選びました。決して小説家をやめるわけではありませんよ(笑)。
以前は思いは小説で伝えるべきだと考えていました。ですが、(東日本大震災の)「3.11」が起きてから小説だけではなく、自分の考えをちゃんと発言しようと思い始めたのです。それで、呼ばれればテレビ番組でコメントをしたりすることも増えていきました。私が言葉にして伝えることで、新たな視点を持った人が増えてくれれば、という思いからです。
震災・原発事故で抱いた 正しさばかりを競うTwitterへの違和感
ーー東日本大震災のどういった面がきっかけになったのですか。
一つは原発事故です。原発事故は絶対起きないという安全神話が世界中にありました。土地神話もそうですが、神話と言い出したら大体ダメになっていく。なぜなら神話に“if”(もし)はないので、疑わなくなるからです。震災の3年前に中国を舞台に原発を建設し事故が起きる小説「ベイジン」を書いたのも、原発の安全神話に警鐘を鳴らしたかったからです。
国家や電気事業者が何をすべきかについても一生懸命書いたつもりです。でもその警鐘は全く届かなかった。2011年の福島第1原子力発電事故が起きてしまったとき、無力感にさいなまれました。
もう一つはSNSの台頭です。ツイッターでは被災地の安否確認ができ、瞬時に様々な情報提供も行われ、良い面ももちろんありました。けれど、しばらく落ち着いてくると正しさばかりがつぶやかれることに違和感を持ったのです。
つぶやきなんだから放っておけばいいものを、自分と異なる意見を言う人を攻撃する。あるいは、自分の正しさを断定する人に何となく共感する人は、同じようなことを言う人ばかりフォローし、違う意見を否定する。炎上とフォローの連続で、ただひたすら正しさだけを言い争うようになった。
正しさを言い争うことは、非常に危険です。例えば、宗教には絶対的正しさはなく、イスラム教徒とキリスト教徒に議論させたらおそらく、何世紀かかったって答えは出ません。正しさを訴えることは、裏を返すとそれ以外のことを聞かないようになります。
もともと日本は内側に一つになろうという意識の強い民族性、国民性で、災害が起きるとすぐに「つながろう」「頑張ろう」「絆」と言い出す。いいことではあるけど、“正しさ”も含めて一つになるべきなのかというと、それは違うと思います。多様な意見が共存できる社会でないと、怖くて「そこはおかしいんじゃないか」と言えなくなってしまう。
本来、コミュニケーションは人の話を聞いて始まるものです。一方的に攻撃するか、共感するかしかないとか、共感した人がつるんで他を攻撃しているようではコミュニケーションは成り立ちません。
“マスゴミ”とSNSユーザーはやっていることが一緒
メディアを非難して言う「マスゴミ」という言葉が震災後にできましたが、SNSで情報を受発信している人たちこそ根本的にやっていることはマスゴミと一緒です。ただ、いわゆる従来のメディアはどこに届くかわかって書いているから、自制もするし、たくさんのゲートを越えてからしか表に出てこない。
ところが、SNSは当事者の生々しい発言がそのまま表に出てくるので、本来はきちんとセルフコントロールしなくてはならない。ところが現実には、火に油を注ぐようなことばかり起きています。
ーーエッセイでは、沖縄をかわいそうと見るかどうかや、東日本大震災被災地の震災遺構の話などからは、地域の問題としてだけ捉えられることの弊害が浮かび上がりました。さらには「無関心」の問題にも言及しています。
人間の思いが至る範囲は、距離に比例すると思います。つまり、遠いところや知らない街で起きていることには関心を持てない。たくさん人が死んだらかわいそうとは思うけど、それは自分たちではない。それが一般人だけかというと、メディアも同じで「東日本大震災を忘れない」は未だに続いている一方で、熊本地震のことは言及しなくなったし、北海道地震も火力発電が復旧したら割と静かになった。
マグニチュードの規模からいうとあまり変わらないはずです。あるいは広島や大阪など各地で起きている水害も、それほど注目されない。ひどい言い方ですが、メディアの中心である東京から遠いからだと思います。
情報化社会ではメディアが想像を止める道具になった
その一方で、グローバル、国際化に目を向けよと言われています。でも、国内で起きた出来事すら距離があると関心を持って見ることができない人が、どうやって海外の情報を見るのか。
変な話ですが、情報化社会だから、わざわざ行く必要もないし、ネットで見て自分と距離が遠ければ「関係ない」、「関心ない」、「知っている人いない」と切り捨てていく。分断社会とは言いませんが、想像することを止める道具にメディアがなってしまっています。
ーー事件が起きた根幹と、日本社会の中でどんな意味合いを持つかを見据えなければ、マスコミは“マスゴミ”と呼ばれると指摘しています。真山さんは元新聞記者ですが、その経験を踏まえて、今のマスコミはどのように映っていますか。
「誰が読むんだろう、これ」と不思議に思うことが増えています。メディアは一体何を伝えようとしているんだろうかとすら思いますね。伝えることがメディアの最大の責任だから、特権を持っているわけです。立ち入り禁止の中に入れて、名刺1枚で一流企業の社長にも取材できる。伝えるために聞きに行ってるわけで、そもそも聞きに行くことが目的ではない。
例えば、東芝でどうしてあんなことが起きたのだろうかという時に、もっと重要な質問がいくつもあるのに何で誰も聞かないんだろうと思いました。帰ってから会社で怒られるのが嫌なのか、鋭い質問をする記者が減りましたね。
取材対象者からの報復が面倒なので、特ダネや、なかなか誰にも会ってくれない人を口説いてものを書くより、広く浅くを徹底しろと上が言うような風潮もあるでしょう。何を伝えなければならないかとか、どう伝えなくてはならないか、というところに戸惑っているのだと思います。
週刊文春がやっていることは、週刊誌はこういうものだ、善悪は我々が決めることじゃないという信念が最大の原動力だと思う。奥さんや夫がいて他の異性や同性と性的関係があれば、「下衆だ」、「不倫だ」ということが週刊誌の仕事、役割だからと。逆に言うと、「あんな下品な」と言われることは週刊誌の誉め言葉です。
朝日新聞や読売新聞が週刊文春と同じことをやると「新聞が何やってんだ」と言われる。それは彼らの仕事じゃないと。だから、メディア自身が役割を踏まえて何を伝えなければならないのかをトップから現場まで分かっていないことに、一般の人のほうが気付いてしまっている。
ジャーナリストには「自分はひどい人」との意識が不可欠
マスコミは給料もいいし、今は特に高学歴な人が多いから、やっかみもある。自分たちが求めていないことをメディアが行っていたり、ひどい目に遭ったという当事者の声でもSNSで出れば、たちまち「ゴミ」と言われてしまいます。本来ゴミって言われて、「ごみの何が悪いんだ」と開き直れるのが記者で、ごみを拾って、集めて、まとめたら、それが多くの人が求めている記事になる。
例えば、被災地で号泣している人や呆然としている人に取材することを「かわいそうだ」と非難した読者がたくさんいました。でも、それを伝えないと震災でどんな目に遭ったかが伝わらないのです。孫を亡くした祖父に取材するなんて、誰だってやりたくないですけど、被災者自身の言葉で書くからこそ、悲惨さが伝わるわけです。あるいは次に起きた時に、幼い子をどうやって守ろうかというムーブメントの機会になるかもしれない。
なのに、こんなひどい取材をするなと怒り、さらに、そこに「人として」という一言を入れてくる。メディアは人じゃなくて、特権なんです。なぜ特権を持っているかというと、人であることをしばらく抑えなさいと言われているからです。ジャーナリストと称する人がたくさんいますけど、ジャーナリストはひどい人だって言われて、「ありがとう」って言える心意気がない人は名乗ってはだめだと思います。
ITの世界では人間が道具に振り回されている
ーーインタビューの冒頭にもありましたが、エッセイでも「平成は自分の価値観以外を認めなくなったSNS症候群が始まった時代」と指摘しています。
すべての前提として、一番の問題は、人間が道具に振り回されていることです。スマホにしてもコンピュータにしても、あるいはすべてのシステムに社会が振り回されている。ただし、多くのシステムは目に見えます。スマホにしてもパソコンにしても、自分で操作します。
でも、SNSの問題は打ち込むことはできるし、画面も見えるけれど、それがどういう風に波及するかに関しては、全くわからない。たぶんSNSを運営する人も全てを把握できません。例えば、今日本で盛り上がっていることが、南アフリカのケープタウンに伝わったときに、日本人はすごいと大騒ぎになるか、許せないと大騒ぎになるかは想像できない。
以前、ムハンマドの風刺画がSNSで拡散し、それをフランスのタブロイド紙が掲載して、襲撃される事件がありました。SNSなら今後もいくらでも起きます。意図したことではなくても、知らなかったでは済まされません。
世の中にはいろんな意見や好みを持つ人たちがいるのが健全です。朝からカレーやラーメンを食べる人もいるかもしれない。自分は嫌だ、「そんなことよくするね」と言うのはぎりぎりセーフでしょうけど、人として許せないと否定までしてしまう人がいる。なぜかというと、目の前にその人がいないからです。
SNSがコミュニケーションのツールであればよいのですが、いわゆる同調調和のためだけに使われる傾向が非常に強い。逆に言うと、とても誘導しやすい危うさをもっている。おそらく、ネット投票が実施されれば、上手に人の心を誘導できてしまうので、選挙が変わる危険はあります。
子どもはITから離れた不便、不自由を経験すべき
もちろんコミュニケーションツールとして役に立っているという人もいるでしょう。でも本当はやっぱり人は群れる動物で、相手の目を見たり、リアクションを見てその人たちのことを考える方が自然です。SNSはあくまでも遠く離れていても一体感を持てたり、忙しさで会えない合間を埋める道具であるべきだと思います。
ーーしっかりとした健全なコミュニケーションが前提になるということですか。
SNSで情報が瞬時に拡散することの破壊力はすごいし、どれだけ最初に教育しても悪意や意図を持った人たちのコントロールの仕方は難しいと思います。とは言え、単純に禁止するだけでは済みません。ここは科学技術の怖いところで一度便利さを知ってしまったら、手放せなくなる。たぶん、状況はもっとひどくなるであろうことを覚悟しなければならないですね。
できることなら、若い子たちほどITから離れて、不便、不自由を感じる場所に身を置いてほしい。道具に不十分さを残さないと、きっと人間が道具に負けてしまいます。「可愛い子には旅をさせよ」と同じで、子どもには不便さや不自由さも経験させたほうがいい。
高齢者が若者のチャンス奪えば、社会は破綻する
ーーあとがきには「現役世代と呼ばれる50歳以上がすべて引退し、次世代に未来を委譲する勇気が求められている。」と、非常に強い言葉で締めくくっています。50歳以上、そして次世代の若者たちに対し、メッセージをお願いします。
高齢社会になって、特に人口の多い団塊の世代の人が多く、みなさんお元気です。高齢者が元気な国は国も元気だと思いますし、社会的にも介護費用は少ないほうがいい。でも、元気な高齢者たちが若い人に挑戦する場を与えない限り、必ずその国は滅びます。なぜ生き物がある年齢で死ぬかと言うと、そこから先はもう十分、次の世代だけでやっていけるからです。
日本人は今まで一度も経験したことのない次元にきています。昔は退職して10年で死んだから、生命保険も含めて多くの社会保障制度は、退職後の10年程しか想定していなかった。ところが、今では平均年齢が90歳近いわけで、退職してから2、30年もどうやって生きるかわからない。
世界の先を走っている日本を注目している状況になっています。元気だからと高齢者が若い人の仕事やチャンスを奪ってしまったら、いずれ社会は破綻するでしょう。勇気をもって次世代に託す行動が求められています。
若い人は思い切って「死ぬ人は死んでください」と言うべき
もう一つ、我々50代以上が「日本はダメになった」、「こんなことでは本当に困ったことになる」と若い子たちの前で言うと、彼らは「困った社会を残すな」と怒ります。それはその通りですけど、本当は彼らにとってチャンスなのです。つまり、今の現役世代以上の人たちの価値観もシステムも、いずれ通用しなくなり、もうすぐこのシステムではやっていけない社会が来るということは一種のフロンティアです。
右肩上がりの高度経済成長のモデルがだめになってきた。スクラップアンドビルドという言葉がありますが、日本の経営者で現実にスクラップできる勇気がある人はほとんどいない。壊すことは簡単ではないので、結局ずっと生きながらえようとする。
でも今、新陳代謝を加速する時が来ているのです。若い人は思い切って「死ぬ人は死んでください」と言うべきです。
若者は50代以上を追い出すべきだ
少しずつ改良する時代は残念ながら平成で終わったと思います。これからの日本に必要なのは劇的な変化。それがわかっている人は明らかに増えていますが、執着しているものがいっぱいあって、「自分たちの築き上げた社会だ」と残念ながらみんな思っている。
でも、50代以上も自分たちの上の世代が築いてくれた社会を引き継いできたのです。もしかしたら、日本はその先輩たちがさぼれば、世界の最貧国になっていたかもしれない。まだ、戦争をやっていたかもしれないし、もっとひどい差別が起きていたかもしれない。前の世代の人たちが頑張ったからであって、決して自分たちだけで頑張ったわけではなく、執着していては次世代が前に出てこれない。
ですから、そういう人にはぜひ「アディオス!ジャパン」してくださいと言うぐらいの勇気を、若い人たちに持ってほしい。「悠々自適に隠居してください」と言えばいいので(笑)。そういうしたたかな力を若い人が持たないと、このチャンスは生かせないと思います。
プロフィール
真山仁(まやま じん): 1962年大阪府生まれ。同志社大学法学部政治学科卒業。新聞記者やフリーライターを経て、2004年に『ハゲタカ』で小説家デビュー。『ハゲタカ』は2007年にNHKでドラマ化されるなど大きな反響を呼び、18年夏にもテレビ朝日系で再びドラマ化された。金融や政治がテーマの作品に加え、危機に陥った原発を扱った『ベイジン』、地熱発電の可能性を表現した『マグマ』などはエネルギーの在り方について描いている。現在は、「サンデー毎日」(毎日新聞出版)で再生医療の未来を描いた「神域~サンクチュアリ」を連載するなど、様々な媒体で連載を抱えている。