【会見全文・前編】「あきらめたら試合終了」安田純平さんが明かす40ヶ月のシリア拘束 - BLOGOS編集部
※この記事は2018年11月03日にBLOGOSで公開されたものです
シリアで武装勢力に拘束され、10月に3年4か月ぶりに解放されたフリージャーナリストの安田純平さんが2日、東京都千代田区の日本記者クラブで、帰国後初めての記者会見を行なった。
虐待など非人道的な扱いを受けた一方、武装勢力から渡されたノートには長期間に及んだ過酷な監禁生活を日記にしたため続けた。「自己責任」と非難する声がネット上であがる中、「可能な限り説明することが私の責任」として臨んだ会見は予定を大幅に上回る2時間半以上に及び、拘束から解放されるまでの経緯を詳細に明かした。
会見の最後には、人気バスケットボール漫画「スラムダンク」の名言を思わせる「あきらめたら試合終了」との言葉を紹介。「諦めたら、精神的にも肉体的にも弱ってしまうとずっと考え続けていた」と理由を話した。会見の様子をほぼ全文の書き起こしでお伝えする。
【会見全文】
安田純平と申します。宜しくお願いします。 本日は貴重なお時間を割いていただきましてありがとうございます。 今回、私の解放に向けてご尽力いただいたみなさま、ご心配いただいた皆様にお詫びしますとともに、深く感謝申し上げたいと思います。本当にありがとうございます。
私自身の行動によって、日本政府が当事者にされてしまったという点について、大変申し訳ないと思っています。 何が起こったのか、可能な限り説明することが私の責任であると思っています。この場をお借りしまして、拘束から解放までの経緯について説明させていただきたいと思います。宜しくお願いします。
◆イスラム国に関する資料を手に
まず、今回の取材の目的についてお話いたします。2015年、5月末に日本を出まして、トルコに入りました。取材を進めるうちに、シリアの反政府組織である自由シリア軍から、イスラム国に関する資料を入手しまして、それまで表に出ていなかった資料であろうと。イスラム国に人質になったフランス人であるとか、アルカイダ系組織であった、アル=ヌスラ戦線の人質であったスウェーデン人の映像であるとか。そういうものが入っておりましたので、信憑性は高いであろうと。考えて、その関連の取材をしていました。
イスラム国の資料については、戦闘員のリストであるとか、それぞれの家族構成によって給料が違うとか、それぞれの月の予算の表であるとか、イスラム国が単なる「ならずもの」というよりは、きっちりとした国家のような組織を構成しているという一端が見えましたので、さらに取材をしたいと考えていました。
それから、2015年の5月ごろ、当時イスラム国が注目されていた中で、それ以外の反政府側の組織がイスラム国に対抗するという意味で、それぞれ、いがみあっていた各組織がひとつのまとめといいますか、協力関係を組むということをし始めて、背後にいる協力者や支援者、組織であるというところからも、同意が出たということで、同盟関係を組むようになりまして、シリア北部、北西部のイドリブ県を中心とした反政府側の地域が一定の安定を見せ始めたころで、イドリブにあるイドリブ市、並びにイスラムシュブール市という主要都市を政府側が奪い取りまして、勢力を伸ばし始めていた時期。
◆イスラム国かアサド政権かという単純な話ではない
イスラム国が非常に注目される中で、非常に凶悪な組織であると言われていた。一方で、アサド政権については空爆などによって多くの死傷者を出していた。イスラム国に問題があるならば、ではアサド政権ではどうなのかという、単純な話なのかというと、おそらくそうではないであろうという中で、イドリブを中心としていた反政府側の地域には、どんな可能性があるのかがあるのか、というところを見たいと思っていました。
この絶対的な権力のない地域で武装勢力が、力があるといってもですね、人々のこの地域社会がどのように安定しているのか。おそらく人々の共通の価値観や倫理観であるイスラムがこの地域の安定に寄与しているのであろうと考えまして。
◆イスラムの地域社会を外部から探りたい
当時、すでにイドリブの中にはイスラム法廷という、イスラムの法律ですね。シャリーアに基づく裁判を行うイスラム法廷が設置されていたり。
イスラム系組織の同盟軍であるファタハ軍というのがあったのですが、そのファタハ軍の構成組織それぞれからメンバーを出して、警察組織を組み、一般治安の維持を始めていた。そういった状況、それからその中で生活しているキリスト教徒であるとか、イスラム教のドロズ派であるとか、少数派の人々がどういういった生活をしているのかをぜひ見たいと思っていました。このイスラムに基づく地域社会というものが外部の人間から見て理解しうるものなのか、理解しあえるものなのかということを探りたいなというのが今回の目的でした。
そういった地域に外国人義勇兵も集まっていて、そこで生活しながら、反政府運動に参加するという、外国人が関与することについて批判する人々もいたんですけれども、反政府運動そのものを疑問視するという声もあったのですが、そういった人々がどのような事情で、そのような戦闘地域にやってきていたのか。
彼らがどんな理想を抱いてそこに来るのか。彼らが元々住んでいる国や社会に何か問題があるのかどうなのかというところまでいずれ広げることができれば、現在のこの世界を見る上で、これからの世界を見る上で参考になるのではないかと考えたのが今回の取材の目的でした。
いわゆる有益国民国家という枠組みを超えてそれとまた違った価値観で動く非常に大きな人の流れがあるわけですけど、そういった世界が存在するという、表に見えている世界とは違う世界があると。そういうものを追ってみたいと思っていました。
◆後藤健二さんをガイドをした人と知り合う
そういった考えのもとに現地に入る方法を色々探っていたんですが、現地の組織にいくつかあたるなかで、日本人の知人から紹介された、シリア難民の小学校を運営している人々と知り合いまして、そこのシリア難民の紹介で、今回シリア入りをするきっかけを作ってもらったシリア人のガイドと知り合いました。
彼は、イスラム国に殺害された後藤健二さんのガイドをしていた人で、後藤さんがイスラム国に拘束されてビデオが公開されたときに、世界中で「I am Kenji」という紙を持って、彼の解放を訴える運動が広がりました。彼も顔を出してそういったものをやっていた。
彼はトルコのアンタキヤというところに住んでいたのですが、顔を出してそういった行動をするというのが、一定のリスクがあるわけでして、その中でそういったことをやっていた。彼はそういうことをやっていたということも含め、私は彼を信用しまして、それから彼が紹介してくれたシリア側の組織というのが、反米武装組織の、非常に有力な組織のアハラール・シャムという組織でした。
私は2012年にシリアで反政府側の地域に入って現地の様子を取材したのですが、当時知り合った人物がアハラール・シャムのかなりランクの高い司令官になっていまして。そのほか、アハラール・シャムのメディアの活動をしている人間であるとか、いう人々もいたので、アハラール・シャムの中に知り合いがいるのか?と聞かれたときに彼らの名前を挙げ、彼らとも直接話をして、「何かあったときはよろしく」という話をしていました。
◆2015年6月22日:トルコ国境からシリア入り
6月22日に、シリアに入る案内をする人物から連絡が入ったと。「今夜移動するから」ということで、国境に近いトルコの町なのですが、そこに向かいました。ガイドについては、「自分は仕事があるので現地で兄がお前を受け入れる」と。「兄がアハラール・シャムの司令官である。彼がお前の身元保証をする」という話を受けていました。
シリア入りの方法は、国境の町に住んでいる人物と一緒に国境を越えてシリア側に入り、そこに迎えに来ているガイドのいとこである人物が、車で迎えに来ているので、その車に乗って彼の実家に行き、その兄と合流するのだ、というのが、シリア入りの説明でした。
トルコからシリアに入るこの地域の入り方なのですが、国境付近は山岳地帯なんですが 深夜に野営にまぎれて山道を入っていくという方法です。彼とともにすぐに入っていこうとしたのですが、そのあたりは多くのシリア人が出入りしている場所でした。
当時、トルコ側が国境をかなり厳しく管理していていまして、国境を越えていこうとする人物が銃撃されるというようなニュースもあった時期でして、あまりあちこちでの出入りはなかったようで、私が入ろうとした場所が、多くのシリア人の出入りに利用されていたようでした。
◆「自分でもおかしいと思いながら歩き続けた」
そこで関係者が出てくるのを待っていたら、別のシリア人から、「まず迎えが来るのをガイドのお前が見に行って確認してから一緒に入ったほうがいいんじゃないか」ということを言われたようで、「お前はここで待っていろ、自分が先に行って様子を見てくるから」と言って案内人が一人で中に入って行って、それを2往復ほどやっていました。
私は暗闇の中で待っていたのですが、彼がシリア側に入って様子を見に行っている間に、彼が行ったのとは別の方向からシリア人がたくさん入ってきまして、シリア人の家族をどうやら送ってきたような様子でした。大きな荷物を持った男性、女性が入ってきたのですが、その案内をしてきた2人組が「ではシリアに行こうか」という話をしてきまして。
「ちょっと話が違うな」と思ったんですけれども、話がついているかのような様子で、これは聞いている話と全然違うと思ったのですが、そういうものだろうと思って、そちら側に入ってしまったんですね。これはもう、自分でもちょっとおかしいと思いながら、そのまま歩き続けてしまった。これはもう、まったく自分でもわからない。
◆ピックアップトラックに乗せられ移動
1時間ほど歩いて、途中、ここはシリア・トルコの国境だというところを越えて、中に入っていったのですが、そこで2人組の仲間に両腕を強くではないのですが、つかまれるというか、半ば促すようではあったのですが、ピックアップトラックに乗せられて。荷物を後ろに載せ、私が後部座席の真ん中に乗り、彼らが前の座席に2人、後部座席私の両側に座って、目隠しはされずに移動をしていきました。
◆2015年6月23日:パン工場に入れられた
移動を始めて数分で、チェックポイントがありまして、アルカイダ系の組織であるヌスラ戦線のバナーが見えました。チェックポイントの人物が「アハラール・シャムか」と聞いて。運転手が私に聞こえないような声でぼそぼそと説明して「では行け」と合図をされて入っていった。
私は、この経緯を見ていて、私は彼らの仲間である、同じ組織の人間に対する通し方とちょっと違うなとは思いました。トルコとの行き来をする場所は突き当りですので、そこに行くときに一度通ってまた出てくわけですよね。
そこで同じ組織のやり方とはちょっと違うのではないかと思ったんですが、そこからしばらく走り、東側に回って恐らく20分ほど走ったところのパン工場の事務所に入れられました。そこで、朝までいたんですが、この工場では、荷物はまだ奪われていない状況だったんですが、6月22日の深夜に入りましたので、23日の朝未明に、この工場に入れられたという経緯です。
朝に彼らの関係者が来まして、「荷物は置いて、お前だけ来い」ということで車に乗せられられて民家に移ることになり、監禁されることになったと。この時点で荷物はすべて奪われている状態です。
当初、スパイ容疑の尋問が始まりまして、23日、24日の2日間はとにかく何者であるかということを聞かれました。25日になった時点では、すでにスパイ容疑というのは晴れたようで誰もそういうことは言わなくなったといわれたんですが、監禁は解かれませんでした。
◆2015年6月26日:集合住宅の建物の地下に監禁
26日の深夜未明に、別の場所に移動すると言われて、また車に乗せられました。目隠しはされないのですが、後部座席に寝そべる形で、周りから見えないようにしろと。周りも見るなという形で移動させられまして。
大きな町ではなさそうですが、住宅地の中の、集合住宅であると思われる建物の地下に入れられました。この時点で彼らは、上空に米軍の無人機・偵察機が飛んでいるので、その農家、監禁場所からトイレまで外に出ないといけないので、見られないように移しただけで心配は要らないということを言われました。
その地下室が、非常に水はけが悪い部屋で、6畳ほどの部屋なのですが、床が本当に水溜りに近いくらい水がたまっているところで環境が悪くて、毎日来ていた通訳が「我々としても良くないと思っているのでいずれ移動する」と言われていました。
◆2015年6月29日:一戸建ての民家に移動
29日の深夜に一戸建ての民家に移動させられました。この民家というのが、おそらくそれまで空き家だったような建物で、床などはかなり汚れていまして、私のために探してきて用意したのであろうという印象でした。その場所の一部屋を私のために使い、ドアは閉められている状態でした。
当初は窓は開いてたんですが、その外のシャッターは閉まっている状態ですね。見張りは初日からいた人物ひとりを含め5人。1人はイエメン人で残りはシリア人であると言われましたね。彼らと話す間で分かったのですが、そういう状態で監禁が始まりました。当初、彼らもどういう扱いをするかをまだ決めていなかった様子で、あくまでゲストであると言い方をしていましたが、完全監禁状態であるのですが。
◆2015年7月下旬 「日本政府に金を要求する」と言われる
7月下旬に彼らから「日本政府に金を要求する」と言われました。この時点で正式に人質であるということを言われたわけです。8月上旬に、「日本に送るから個人情報を書け」と言われまして。家族の名前であるとか、簡単なメッセージですね。申し訳ないというような文章を書いて渡しました。彼らは、アメリカにある日本の領事館にメールを送ったということを言っていました。シリアではなく別の国にいる協力者が、作業をやっていると。
それに対して、日本側からは金を払う用意はあると言ってきたと。ついては何が目的なのかを言えと。彼らは金銭であるとか、特殊な武器、恐らく対空兵器だと思いますが、そのリストを送ったと。日本側からは武器の提供は無理である。金を払う用意はあるという言い方をしてきた。ついては、あなたたちはどういう組織であるのかということを聞いてきたと。
その後は、日本側はのらりくらり。彼らから言われたのは、組織名は日本側に言っていないということ。私にも言っていなかったです。彼らが何者なのか、当然気になりましたので、イスラム系の同盟軍であるファタハかと。
私の身元受け入れをすると言ってたアハラール・シャムも入っているファタハであるならば、まだ何か良い環境になるかもしれないというのがあって、「ファタハであるか?」ということを聞いたら、「あんなのイスラム系じゃないか」と。嫌そうに否定をしまして。それから、自由シリア軍と共同作戦を行っているということを言っていました。
◆工場やお菓子で自分たちで稼いでいる
彼らは、外国の組織、国からの支援は基本的に受けていない、それをやると言うことを聞かなければいけなくなるので、それをしないようにしていると。先ほど言った工場やお菓子など色んなプロジェクトをやって、自分たちで稼いで資金を調達しているという言い方をしていました。
そういうことで、日本側には組織名は言わない。私に対しても言わない。組織名を言って身代金を取った場合、身代金の支払いと同時に、報復を受ける可能性があるわけですよね。彼らの組織がそういった活動をしているということが他の組織に知られることを避けたかったのかなという印象がありました。最後まで彼らの組織名は基本的に言われていません。
◆日本政府の時間稼ぎ 自分なりの対応を考えるように
通訳からは「組織名を言わなくても、日本側は金を払うだろうか?」と言ってきたり、日本側とやり取りしているようなことを言われました。それについて、日本政府のイスラム国に拘束された2人に対して、身代金を払うであるということはしていなかったので、私に対して日本政府が身代金を払うことは無いはずだと。日本政府の対応については平等にやるはずだと思っていましたので、日本政府は時間稼ぎをしているのではないかと思いました。
イスラム国の事件では、11月に後藤さんが拘束され、12月にはご家族への脅迫なりがあり、その後、1月末には脅迫のビデオが出るという流れでした。日本側が対応しているのであれば、組織名は聞くなり、時間稼ぎをやっているのはやっていてもおかしくないなと思いましたので、時間稼ぎをしている間に私なりの対応であるとかというのを考えながら、私も応対しようかなと考えていました。
◆テレビは見ることができた
民家にいた間は彼らから「ゲストである」と言われており、部屋にはテレビがありまして衛星番組を見ることができました。その地域にある公共の電気、発電機で電気を供給するところと契約していたようで、1日6時間であるとか、長いときは10時間くらい電気がきまして、テレビを見ることもできたと。
7月半ばに窓もすべて閉められました。ただその後、観音開きの窓が2つあったんですが、その1つだけは開けられまして、夏だったので部屋の中はサウナのような状態だったんですが、窓をひとつ開けることで、多少過ごしやすい状況になりました。
民家なので部屋の中にはトイレはないということで、1日2回、彼らが食事を運んでくるときにトイレについでに行くと。彼らが見張っている間にトイレに行き、済ませてすぐに戻るという具合ですね。
◆食事はときにシリアのスイーツも
食事の内容は基本的に彼らと同じものを持ってきていて、量的にも特に少ないということはありませんでした。頻繁に鶏肉であるとか、日によってはシリアのスイーツを持ってきたりですね。鶏肉を料理して持って来たり。
それから、トルコの料理であるラフマジュンという、ピザのような薄いものなんですけど、トルコの新聞に包んで持ってきたことがあります。
それから通訳の持っている携帯電話がメッセージを受信したことがある。ということを考えて、トルコの国境からかなり近い場所であろうと考えていました。周囲には民家たくさんありました。
私がいた民家のすぐ横にも人が住んでいて年配の女性の声であるとか、子供の声であるとか。外からは大勢の子供が遊んでいる声も聞こえました。イスラムの礼拝を呼びかけるアザーンのアナウンスも、かなり大きな音で聞こえていたので、このあたりは住宅地であろうと思っていました。
◆2015年12月7日 「生存証明」の個人情報を書かされる
そういった状態でずっと続いていたんですけれども、12月7日に日本側に送るから個人情報を書けといわれ書かされました。この中には日本側に対して放置するようにというメッセージを入れたのですけれども、そういった個人情報を書いて、彼らは「日本側から個人情報を書け」といってきたのは生存証明、私が生きているという証明であろうと。
人質と引き換えに、身代金なり対価をわたす以上は人質が絶対に生きているという証明が必要ですよね。生きているか分からないのに対価を渡すわけには行かないはずですので、 生存証明は絶対的に必要なわけですが、彼らはそれを求めてきたと思ったようで、非常に機嫌よくなりまして。看守の中の一人は、「今月中にはお前は帰れるからな」と言ってきたり。彼らは身代金を取れると思ったようです。
◆2015年12月20日:日本側から返事なく武装集団の機嫌が悪くなる
12月20日過ぎになっても日本側から返事なくなったということで非常に機嫌が悪くなってきまして、そうこうしているうちに、国境なき記者団から流れた情報をもとに、私が人質状態にあるという報道も流れまして、12月の末になり、日本側が連絡を絶ったということをはっきり言われまして、非常に機嫌が悪い様子になりまして、トイレの行きかえりに尻をけってきたりということもされるようになりました。
◆2015年12月31日:妻の連絡先を書かされる
12月31日に彼らから「妻の連絡先を教えろ」と。「日本政府に対して圧力をかけさせる」と。電話番号とメールアドレスを書かされました。
◆2016年1月6日:妻からの質問に回答させられる
1月6日、妻から、私しか答えられない質問を書いたものを印刷して持ってきまして、答えろと持ってきたので答えました。このあたりも報道されていると思いますが、英語とアルファベットで答えたものです。
◆2016年1月16日:別の一戸建てに移動
1月16日には、別の一戸建ての民家に深夜に移動しました。目隠しをされまして移動すると。移動と同時に彼らの身の回りのものなどをまとめていまして、おそらく移動と同時に民家は放棄したと思います。
◆2016年1月19日:家族からの質問に再び回答
家族からの同じ質問項目の答えを再び書かされました。意味が分からなかったのですが、恐らく日本側が返事をしなかったんだろうと私は推測しました。返事がこないので届いていないのかもしれないと恐らく彼らは思ったのではないだろうかと。もう一度書きまして。これも報道されています、家族に対するメッセージを私も書いたんですが、これは2回目の方に入れています。
これも2回目に入れたもので帰国してからの報道を見るとよくわからないというふうに言われていますが「Okuhouchi」と意味しているんですね。「1億円を放置」という見方をされるんですが、私は妻のことを「Oku 」と読んでいまして、そこに放置という言葉をつけて書いています。
◆妻には私に何かあったら「放置しろ」と言っていた
常々妻には、私に何かあったら放置しろと言っていたので、妻の呼び名にそれを付けたら伝わるはずだということで、先ほど申しました12月7日の時点でそれは入れていました。
1月6日、19日のものにも別のメッセージを入れて書いたんだけれども、日本側からの反応がなくなったと。彼らは、生存証明を取ったということは払う方向になっていたはずが、わたしが個人情報を取った後に、連絡が取れなくなったというのは何かメッセージをしたんじゃないかと思ったようです。トイレに行く途中、頭を叩いたり背中を蹴ったりとか色々するようになってきました。
◆2016年3月15日:監禁に終止符を打つための動画撮影
紳士的に扱っていたので「大丈夫だ、払わなくてよい」とメッセージを送ったんじゃないかと疑ったのではないかと思うのですが、しばらくの間非常に機嫌の悪い状態が続いたんですけれども、3月14日にこの状態に終止符を打ちたいのでと動画を撮りました。
「何を話すか考えおけ」と。3月15日に彼らが台本を用意してきて、これを読めと言われました。翌日私の誕生日で彼らは知らなかったようで、それを伝えたんですが。
ビデオの前で話す内容は、彼らが用意したもので、非常に長い文章でした。これはいずれメディアにも公開されるだろうということが書いてありまして、皆さんがみているときにはメディアに流れているものなので、そういう部分は私のほうで削除しました。
それから、「もっと感情的なものを出せ」と言われて。私が用意していた家族に対するメッセージを付け足して、彼らが用意していた話の詩のような。これも映像で流れているんですが、内容的には暗闇の中で放置されているというような。それから非常に悲しいというようなことを表現している詩のような内容を読み上げる。
◆公開動画はメッセージを入れるとネットで解読される心配
彼らに言われた内容は、公開される動画になると、その中にメッセージを入れるといろんな人がネットで見ながら解読するような人が出てくるとまずいので、公開される可能性のあるものについてはメッセージは入れませんでした。
1月6、19、4月7日に入れたものの中に、払わないようにとか、放置するとか無視しろ、無事に帰るというメッセージを入れておいて、その後、日本側から連絡がなくなったという反応があったので、私の意志は十分伝わったであろうと考えました。なので動画であるとかというものについては彼らの言われた通りにやっていました。
◆「殺すようなことは絶対にない」と再三
動画の撮影が終わったあたりで対応がまた良くなりまして、1日2日の食事の間に、毎日おやつを持ってくるようになり、インスタントラーメンを作って持ってきたりとか、1か月続いたが、「これ以上続けるのはちょっときついからもうやめる」と終わりました。この時点で、1か月ほど様子見て、場合によっては放り出すことを彼らは考えてたんじゃないかなと私は思っていたんですが、「ここに至るまでに、われわれが殺すようなことは絶対にない」と再三言われていて、もし日本側が連絡を経つようなことがあれば、一ヶ月くらいで放り出すんじゃないかと何度か言われていたので一ヶ月がめどではないかと私は期待していました。
◆2016年5月9日:別の民家に移動
別の民家に移動して、これも一軒家なのですが。別の民家に移動したのですが、元居た場所は全部家具を撤去してそこは破棄して移動したと。
◆2016年5月14日:トルコの憲兵隊の拘束?
日没前の明るい時間に誰か家の門を開けて入ってきたような音がして。お互い話をしていたのを止めて、様子を聞いているような具合でした。
その入ってきた人物が、門から入って建物の周囲をうろうろ見ているような気配がしたんですが、彼らがだーっと外に出て言って捕まえて、中に引きずり込んで、私の部屋のドアの前で組み伏して「ジャンダルマ」だと。トルコの憲兵隊のことですね。組みふされた人物が「this is problem」「where will I go ?」と英語で話していた。
その後も「this is punishment」という声が聞こえて何か棒のような物で叩いている音が聞こえて、うめきごえのようなものが聞こえていたんですが、しばらく続いていたんですが、アラビア語ができない人物が様子を探って入り込んできた人を捕まえて、別の部屋に監禁されていました。
◆「なぜ殴るのか」たずねた
彼は日々拷問を受けているような音が聞こえていたんですけれども、彼らが話している声が聞こえて、彼がなぜ殴るのかときくと、「こいつは兵士じゃないか」と言っている声も聞こえました。私は、彼は私がいるのを分かって入ってきたのかということが気になりました。
そうなると、彼と抱きあわせで要求が始まるということになると話が変わってきてしまうなとかいうことを考えたので、非常に心配だったのですが、彼らからそういうことを追及されることもなかったので、恐らくそういうことっではなくて、空き家だったところに突然男たちが住み始め、怪しいのでちょっと様子を見に来たのかなと思っているのですけれども。
あのあたりのシリア側でアラビア語のできない外国人がうろうろするのはジャーナリストや活動家ということは考えにくいのかなと思っていまして、情報機関だったり憲兵隊が探っているということもありうるのかなと思ったんですけれども。
◆2016年5月23日:オレンジ色の服を着て「これが最後のチャンス」
オレンジの服を着て手書きのメッセージを持って写真撮影をするというものが公開されました。「助けてくださいこれが最後のチャンスです」というものと、私の名前。相手側から指定されて日本語で書けと言われました。日本語で書いたときに、カメラを持ってきた人物が、これが漢字か、ひらがなかカタカナかと言ってきまして、ある程度勉強して書かせたようです。
つまり、私が変なメッセージを書かないように、チェックができるような体制で書かせたようですね。それが23日に撮影があって、29日に公開された。部屋にまだテレビがありましたので、30日にテレビを見て流れたんだなと思いました。
◆呼び名は「ニダール」
私、彼らから「ニダール」と呼ばれていました。ニダールはアラブの名前なんですが、彼らは私にそういう名前をつけていて。「二ダールはどうするんだ」という声を彼らが言っているのが聞こえて、施設の代表者が「それはね」と言っているのが聞こえました。私の写真公開から1ヶ月をめどに解放することを考えていたんじゃないかなと思います。
◆2016年7月10日:別の場所へ移動
一緒にいる外国人をどうするのかということが問題としてあって、7月に入った頃に、「うわー!」と彼らが喜んでいるような大騒ぎの声が聞こえました。別の場所で作業をしている人物も呼んでお祝い騒ぎをしているのが聞こえてきました。それを聞いて私は、おそらく彼に対する身代金なりが出るという交渉がまとまったのかなと思いました。
7月10日夜、移動するといわれました。私は解放なのかもしれないと期待をしましたが、車に乗せられれて、かなり走って移動しまして、別の車に乗り換えて別の方向に向かいました。この中継地点まで行く途中の車の中で彼ら同士、どこまで行くのかと聞くと、「トルコ、トルコ」と言って。
やり取りをしていててっきり私はトルコまで行くのかと思ったのですが、私は別の車に乗せられて別の施設に運ばれて、中継地点まで言った車が家まで戻ってきて、一緒にいた外国人をトルコまで運んだのかなと思っています。
彼はその場所を知っていますから、場合によっては私の存在を知っていたのかもしれないので、その家を同時に放棄しなければ、その場所に私がいることがばれしまうかもしれないので、彼の解放と合わせて私を移動させたと推測しました。
◆大規模施設の独房では扇風機も
別の施設に移されました。非常に大きな施設なんですけれども、独房で、この時の部屋は幅1・5mくらいあって、居住する場所が2メートルくらい。その後ろ側にトイレがありまして、ドアがあって、反対側にトイレ。扇風機もついていて、電気がついている間は扇風機が回る。
ここに移ってからはテレビがなくなり、なぜなくなると聞くと、テレビを置いていることはゲスト扱いが続いていることだと思っていたので、どういうことだと聞いたら「施設が非常に大きいので、テレビの線を引っ張るのが大変である」とかいうような事情を後から言われたんですけれども。
◆「テレビ以外なら何でもいいぞ」
私に1日2回食事運ぶ人物は英語で毎回「何か欲しいものはあるか?」と聞いてきて、テレビと答えると、「テレビはダメだけれども、他のものなら何でもいいぞ」と言われまして。じゃあ本をくれと言って英語の辞書、英英辞典は彼が持ってきました。
それから、たびたび果物であるとか、スイーツも何度も持ってきました。7月の下旬に周囲で空爆の着弾の音が響きまして。僕の部屋のドアの反対のトイレの上に、太いパイプが何本も走っていまして。そのうちの1本が口をあけていまして。囚人が話している声が、彼らに聞こえるようにできていました。
◆空爆音に「大丈夫。ここはジャバル・ザウィーア」
そのパイプがかなり振動するような、かなり近い着弾音が響きまして、食事を持ってくる人物に「このあたりは空爆があるのか?」という話を聞いたのですが、彼は「こわいのか?」とうれしそうに聞いてきました。そして「大丈夫だ、ここはジャバル・ザウィーアだと」私の知らない地名だったので聞いたのですが、小さな村だと、大丈夫だと。空爆があるのは、街場であるということなので、ここは大丈夫だという言い方をして去っていったんですね。
このとき、ザウィーアというのをよく聞き取れなくて、そのあとまた来たときに聞き直して、彼から聞いたのですけれども、彼は「まずいことを言った」と思ったようで、この後何か欲しいかということは聞いてくれなくなりました。
だんだん機嫌が悪くなって、8月の後半に来なくなりました。つまり、私と話すとまずいことを話してしまうかもしれないと。それ以降、英語を話す人間は来なくなりました。そういった反応から、ジャバル・ザウィーアというところにいるかなり信憑性は高いのかなと考えていました。
◆パキスタン人夫婦が監禁されていた
そういった形で監禁が続いたのですけれども、10月の後半あたりに、右の部屋にいた7月後半に入ってきた囚人に対して、「帰すぞ」と言っているのが聞こえました。囚人と彼らのやり取りや、囚人が出されたのをドアの隙間から見たときの様子から話しているのを聞いて、パキスタン人と言っているのが聞こえまして、彼らが食事を運んでくるやり取りを見ていても、アラビアも英語もできない。夫婦でした。30~40代ぐらいの夫婦。
10月後半に帰すと言ったんですけれども女性の体調が悪かったようで、早く準備しろと言われるのに対して「ハマム(トイレ)、ハマム」と言っていて。伝えに来た人物は「じゃあ明日だ」といって去っていったんですね。
もし彼らの解放が何かしらの交渉によって成立したなら、明日解放はおかしいだろうと。相手側と、時間と場所を指定してやり取りをしているはずなので、体調が悪いから明日だというのはちょっとないなと思ったので、対価なしで帰すのかなという印象を受けていたんですね。それが翌日以降も帰されませんで、ずっと引っ張られていたんですね。それを見ていて、「ひょっとしてこれは私と一緒に帰すんじゃないか」と期待していたんです。