「原発事故で同級生が対立」RAG FAIR 引地洋輔が語る福島の復興 - BLOGOS編集部

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※この記事は2018年10月26日にBLOGOSで公開されたものです

東京電力福島第1原発事故からの復興を目指す福島をPRする「福島フェス2018」が20、21日の両日、東京都港区の六本木ヒルズアリーナで開かれた。5回目の今回もご当地グルメや地酒のブースから福島ゆかりのアーティストのステージまで盛りだくさんの企画で、両日で過去最多の3万人以上が来場。アカペラボーカルバンド「RAG FAIR」リーダーの引地洋輔さん(福島市出身)は実行委員会の一員として、裏方とステージ上の両輪でイベント成功のために奔走した。福島フェスや故郷への思いを聞いた。

高校の同級生とフェスを企画

――福島フェスも5回目を迎えました。実行委員会に加わった経緯を教えてください。

 

六本木での開催は5回目ですが、その前年の2013年に代々木公園で東北全体の復興イベントがありました。その一部としてスペースを借りて出展していたのですが、独立して大きくしたいというときに、同級生からRAG FAIRとして出演のオファーを頂いたのですが、都合がつかずに参加できなかった。でも、実行委員はほぼ全員が高校の同級生で、僕も実行委員として個人的に加わらせてくれと手を挙げて、六本木ヒルズでの初回から参加しています。

――あくまでも個人として参加なのですね。

はい。あと、RAG FAIRが所属しているワタナベエンターテインメントという事務所で、震災後に「WAEチャリティープロジェクト」という名前で基金のようなものを作って活動に取り組んでいます。震災直後はあれもこれもと基金の使い道があったのですが、時が経つとどういう風に使えばいいのかってなって。僕が福島出身で福島フェスについて紹介すると、事務所のプロジェクトにも協力いただいて、現在まで続いてきました。

――子どものころは福島県内各地に住んだそうですね。

実は福島県職員の息子でして。実家があるのは福島市なんですが、会津若松市の病院で生まれ、今の南相馬市に3年住み、白河市に3年、さらに福島市に3年。ここで家が建ちました。せっかく建てたのに南会津町に3年、でまた福島に戻ってきて。

――ほぼ県内全域を満喫しましたね。

しかも最後に郡山で余計な浪人を1年しました(笑)。予備校の寮に入って。いわきエリアだけはご縁がなかったのですけど、震災後に四倉小学校というところをお手伝いする形で定期的に通って少しご縁ができました。WAEプロジェクトで参加したので、僕は校歌をハモってみるっていう指導をしました。

同級生の間で意見対立 原発事故が生んだ構図

――原発事故から7年半が過ぎました。当時はどういう気持ちでいましたか。

直後は離れて住む福島の両親や、親せきの身の安全というレベルを考えていました。でも、時がたって、例えばフェイスブックとかで、同級生が2人並んで記事を上げた時にかたや「原発は絶対にいやだ」という友だちと、「風評被害に負けるな」「安全なものは安全なんだ」と。そんな対立を見ると、すごく心苦しいんですよ。人を真っ二つというか、人の対立を生んだんだなと感じた時が第2のつらい時期というか。

――原発事故の前は見られない対立だったんですね。

同じ学校に通って、どっちも知っている同級生が真逆の意見を書いている。もちろん原発の技術的なことはニュースを通じてしかわからなかったり、調べられる範囲でしか事実は受け取れないものです。でも、原発事故をきっかけに、人と人が対立しているという状況が生まれたことが一番苦しいですね。

――対立、分断という意味では原発事故の賠償金とか各方面で生まれてしまいました。

これも同級生で県に勤めていて賠償金とかに携わった人が、「人は難しくて、一回もらい始めるとなかなか元に戻れなかったりというのを見てしまった」と。そういう話はつらいですよ。

――風評被害で言えば、農産物は少しずつ回復してきていますね。

福島県で果物といえば、モモとかナシとか毎年実家から届くんです。最初は県のお墨付きなんでしょうか、「検査して安全を保証したものです」と知事かどなたかのお名前で紙が1枚入っていたんですね。全部検査して安全なものです。おいしく食べてくださいねっていう。それが一昨年ぐらいからですかね、紙がなくなったんです。それはなんか良いことだなと。安全だよ、それが当たり前ですよというところまで進んだのかなと思います。

「実際に福島へ行ってみて!」 フェスにかける思い

――仕事でも観光でも、一度福島に行くことで認識も変わるのではないでしょうか。

そうですね。福島フェスの開催後に毎回反省会をしています。3年前でしょうか、何を目指しているのか、成功は何なのかとなった時に、偶然でも立ち寄ってくれた人がフェスをきっかけに実際に福島に行ってくれればと。そういう人を増やすイベントだなって。それが一つゴールだというのが明確になって。昨年は温泉宿泊券を各宿の協力で当たるようにしたり、一つでも足を運んでもらうようなきっかけづくりをフェスの中で考えてやっています。

――あらためて福島の魅力は何なのでしょうか。

長所でも短所でもありますが、とにかく広いということは福島を考えるうえで外せないと思います。気候も文化も違う。かたや雪が一晩で1メートル積もるところと年に1回降るか降らないかというところが、一致団結するのはそもそも難しいなと思うんです。言葉も違うし。でも、そのでかい福島を狭い六本木の一か所に集めるのはすごく面白いんです。県内の人でも知らない福島がこの一か所にあると思うので。お客さんだけでなく、福島からいらっしゃった出店者の方もお互いに「あっ、こんなのもあるんだ」と発見とかしてもらえたらうれしいなって。

福島を楽しむ人の姿に今年も涙

――今回もものすごい人の数ですね。

ふらっと立ち寄った人が、「通りかかったんですけど楽しくてこんなに長くいちゃいました」って言ってくれて。そういうのすごくうれしいですよね。あと、予定を組んで来てくださる方も増えてきて。出演者も実行委員会も実はすごく楽しんで当日やっているんですけど、ステージに上がってお客さんの顔が楽しそうだったり、いい気分で酔っ払っていたりするのを見られて。今のとこ2年連続で泣いてます。なんか予期せず泣いてしまうんですよ。

――その涙は会場で福島を楽しんでくれたり、もしくは事故から7年以上たっても忘れずに応援してくれているのが伝わるから?

そうですね。うれしいだけじゃないとこもありますけど。つらさとか複雑さが残っています。まだ途中だし。毎年、来年は無理じゃないかと思いながら。でも、もうやめるわけにいかないぐらい応援してくれる人とか、楽しみにしてくれる人が増えて。正直、実行委員会が自腹を切ってやっているので。

――事前に聞いたら毎回赤が出ていると。

大赤字ですね(笑)。行政には行政のできることがあって、僕らはどこか文化祭の大人版というか。本当に個人のつながりで仲間が増えていっているので、こういうやり方で福島の発信をしてもいいんじゃないか、意味があるんじゃないかと。胸を張っています。

――今後の福島がどうなっていくか、どんな期待を抱いていますか。

大きいピンチを迎えて、そこからそれをポジティブに、なるべくチャンスとしていこうと。このフェスもそうです。でも、一般に福島の人は照れ屋で口下手でというか。東京のホスピタリティーレベルの水準があるとすると、福島はまだばらつきがあるなと正直感じるとこがあります。いいものもっているんだから、それを現場でちゃんと伝えてくださいよ、お願いしますみたいに感じます。今日のイベントに出店している人でも、若い世代がこの素材でこういうお菓子を作ろうよとかアイデアを出し合っているんです。新しい魅力を作っている人が福島にどんどん生まれているのはすごくうれしいです。

――事故から7年半以上が経ちました。これまで支援をされるということが多かったが、支援する側に立つ場面も生まれています。

まだ支援を受けなきゃいけない部分は多いです。そんな中でも、この間の北海道地震の時は新橋で日本酒のお祭りがあったんです。地震が早朝にあって、わずか数時間後に福島県の人でしょうか、「今度はお返しする番だ」となって、利益の一部ではなくて全売り上げを北海道と(豪雨被害に遭った)西日本に送ろうって決めて、そういう「助けてもらっているんだから今度は」っていうステージにも来ているなと感じます。

みんなにある故郷 エールを交換したい

――来年以降はどう開催していきますか。

六本木で始めた時からいつまでやろうかって話し合って、とりあえず、(2020年の)東京五輪まで頑張ろうとなったので、せめてそこまでは。できることならずっと続けたいですね。

――福島フェスを訪れた人が何を感じてくれたらうれしいですか。

復興とはまた別の思いもあるんです。そもそもなんですが、福島を離れて関東に来て、福島があまりに知られていないことが結構ショックで。僕が食べて育ったあの果物とか、遊んだ川とか山とか、名物が本当に知られていなくて、悔しかったですね。だから、復興というものがありつつ、純粋に福島を面白がってほしいし、こんなのあるんだよっていうのを伝えていきたい。「復興イベント」ではあるんですが、それだけではないもう一歩先に福島って面白い良いとこだねっていうのを純粋にポジティブにこのイベントを通じて感じてもらえたらすごくうれしいですね。

――全国たくさんの人が福島を応援してくれています。

みなさんに故郷があって、そこを離れて振り返った時に発見するものってあると思う。それを共有する、僕らはここで福島って面白いですよって発信して受けとってもらいたいですし、きっとあなたにはあなたの故郷があってその面白さを教えてくださいみたいな。エール交換じゃないですけど。そういうのが活発になるといいなって、すごく大きなことでいうと。福島が原発事故で大変になって、そういう思いはどんどん強くなりました。

復興への一歩と事故の爪痕を六本木ヒルズで紹介

都心に突如出現した「港区ふくしま」をコンセプトに、「STAGE(ライブ)」、「FOOD(飲食)」、「MARKETS(物産)」、「TRADITIONAL(福島の伝統)」の四つの観点から見つめた企画で、原発事故からの復興を目指す福島のファンを増やそうと開催された福島フェス。

福島県内約30の団体や企業が出展したブースをめぐると、復興へ歩みを進める人たちのたくましい姿の一方、原発事故の影響の根深さが伝わるブースなど、会場では期待と課題が交錯する福島のいまに出会った。20日の会場の様子をレポートする。

浪江焼きそばはわずか3時間で完売

正午過ぎの会場。もやしと豚肉に独特の太麺を加えてラードで炒め、濃い口のソースが特徴的な「なみえ焼そば」が人気を集めた。原発事故から7年7か月以上が過ぎた今も、町域の大半に避難指示が出ている浪江町ご当地グルメで、用意した400食はわずか3時間で完売。農業や漁業、林業などが主要産業だった浪江町で、安価で腹持ちが良い食べ物として半世紀以上前に考案された。

地元では、2008年11月に商工会青年部が中心になり、なみえ焼そばを通じた町おこしを目指す「浪江焼麺太国」を設立。2年後には「東北四大やきそばサミット」を開催し約3 万人を集客するなど、なみえ焼そばは地元のシンボルとして親しまれてきた。

避難者を勇気づけるご当地グルメ

だが、11年3月に東日本大震災、さらに原発事故が発生し、全町民約2万1000人が避難を余儀なくされた。そんな中、焼麺太国メンバーは自らも被災者でありながら、町民の避難先で焼きそばを振舞うなど活動を続けた。ご当地グルメの祭典「B-1グランプリ」には事故前から継続して挑戦を続け、愛知県豊川市で開かれた13年大会では念願の1位を獲得。終わりの見えない避難生活を送る町民らを勇気づけてきた。

浪江町では17年3月、町中心部など一部で避難指示が解除されたものの、現在の居住人口は約850人で、事故当時の約2万1500人の5%にも満たない。なみえ焼そばを提供する店も事故前には町内外に20店ほどあったが、現在は町内に限れば1か所のみという。

福島フェスに出店した「旭屋」の鈴木昭孝社長(61)も町内の自宅は動物に荒らされて住める状況になく、北に約33キロ離れた相馬市内に避難を続けている。もともとは太麺の製造業者で焼きそばを振舞うことはなかったが、「浪江の伝統の味を守らねばならない」との思いから、事故後からイベントなどで慣れない調理に挑戦している。

「バラバラになったままのみんなが焼きそばを食べて浪江を思い出してくれたらいい。初めて味わった人も浪江のことを知るいいきっかけになるはずだ」。

今後も故郷・浪江のため、町民のために、各地に出向いて自慢の味を伝え続ける考えだ。

高評価の日本酒が復興の追い風に

全国の酒蔵が昨年度に作った新酒の出来栄えを競う「全国新酒鑑評会」で、金賞を受賞した新酒の数が6年連続で日本一に輝き、高い評価を得ている福島県産の日本酒。会場では、両日で県内20の蔵元が自慢の酒計58銘柄を持ち寄って「酒どころ・ふくしま」をアピールし、酒蔵ごとに異なる味わいを飲み比べて楽しむ人の姿が終日絶えなかった。

京都・伏見、神戸・灘、広島・西条の「日本三大酒処」が一つの地域に蔵元が集まっているのに対し、福島県内ではほぼ全域に酒蔵が点在し、豊かな自然が育む良質なコメや水を生かした独自の酒造りを続けてきた。30年ほど前に杜氏の高齢化で後継者不足が課題になると、福島県酒造組合は県内各地の酒蔵を集め生産技術に関する情報共有を進めた。こうした取り組みが酒造りのレベルの底上げにつながり、6年連続日本一位の快挙に結び付いた。

復興を加速させるきっかけとして、躍進を続ける日本酒にかかる期待は大きい。日本酒を通じて福島に関心を抱いてもらおうと、福島県は今年9月、サラリーマンが集まる東京・新橋駅前で3回目となる「ふくしまの酒まつり」を開催し、過去最多の約3万8000人の来場者で賑わった。他にも、県内の酒蔵を巡るスタンプラリーや、女性向けのツアーを展開するなど、県は日本酒を呼び水に観光客の増加につなげたい考えだ。

目指すは女性や訪日外国人の囲い込み

「若者の日本酒離れ」が言われる中、福島県産を含めて全国で日本酒の出荷量は減少傾向にある。そんな中、福島県内の関係者は和食ブームに沸く海外への展開を強化している。福島県産の日本酒は17年度の出荷量は韓国やスウェーデンなどで伸び、約17万9000リットルと、過去最高を記録。最大の輸出先の米国・ニューヨークでは8月、ワインショップ2か所で日本酒の専門ブースを設置し、近くアンテナショップも開設する予定だ。米国で販路を拡大し、海外での風評被害の払拭につなげる狙いという。

福島県酒造組合によると、近年はワインや焼酎などより日本酒を好み、休日には酒蔵めぐりに訪れる女性が増えているほか、東京のイベントなどではインバウンド(訪日外国人)の姿が目立つという。県酒造組合の有賀義裕会長は「かつては外国の人にライスワインなどと呼ばれて製法も知られていなかったが、最近はジャパニーズ酒と日本酒を選ぶ人が増えて人気の高まりを感じる。日本酒を通じて福島の良さを知ってもらうことで、果物や野菜などほかの農産物の流通が加速したり福島全体が元気になる力になれれば」と話す。

復興への道のりはまだまだ長く

福島県沿岸部を走るJR常磐線の19年度中の全線開通や、原発事故を受けて作業員の拠点として使われてきたサッカー用施設「Jヴィレッジ」の営業再開――。会場には、第1原発の周辺4町の復興の歩みを紹介するパネルも並んだ。第1原発が立地する大熊、双葉の両町では現在でも全町避難が続いていることが示され、アイドルグループ「アップアップガールズ(2)」の高萩千夏さん(福島県いわき市出身)が避難指示の解除された街を訪れ、住民から地元に戻った思いなどを尋ねる様子などの動画も流された。

「福島フェス」に偶然立ち寄ったという都内の会社員の男性(26)は「今では、毎年3月にテレビで気づいたりするか、こうしたイベントに立ち寄るぐらいでないと、原発事故のことは思い出さない。復興が進んでいる部分は確かにあるけど、第1原発の周辺などは特にまだまだ膨大な時間がかかるのだと改めて気づかされた。東京にいる自分に何ができるかを考えていきたい」と感想を語った。

福島応援の思いを様々に表現

会津地方の伝統のおもちゃで、子どもの魔除けに使われた「赤べこ」。会場では赤べこを作る子供向けワークショップが開かれたほか、段ボール製の巨大赤べこ(全長2.5m)も展示され、来場者は「美味しい福島 また行きたい 一緒に頑張ろう」「がんばってね♥ふくしま」などと福島へのメッセージを思い思いに記した紙を張り付けていった。

メインステージでは、福島の復興に協力している人気グループ「TOKIO」リーダーの城島茂さんと畠利行副知事によるトークセッションや、福島第1原発を含む相馬・双葉地域で毎年夏に繰り広げられる伝統行事「相馬野馬追」の出陣式の実演などが繰り広げられた。

 

午後から時折見舞われた強い雨と風も弱まった夕方、初日のトリにはRAG FAIRが登場。「恋のマイレージ」「Good Good Day!」「Bohemian Rhapsody」などアンコールを含む9曲を披露した。

福島県郡山市出身のクリエーター箭内道彦さんが作曲した「予定~福島に帰ったら~」では、「いわきに帰ったら 浜通りを走る」「変わらないでいて 欲しい場所 なつかしいような いとしいような」などと歌って、会場をぎっしりと埋め尽くした来場者を喜ばせていた。