「読むのも書くのも140文字だけで済まさないほうがいい」荻上チキ氏が語る SNS時代のメディア・リテラシー - BLOGOS編集部
※この記事は2018年08月31日にBLOGOSで公開されたものです
ネット上に溢れる不確かな情報をどう見極めていくのか、世界中で課題になっている。そんな中、評論家の荻上チキ氏は、メディアの偏りは当たり前のことだという。著書『日本の大問題 残酷な日本の未来を変える22の方法』が発売中の同氏に、SNS時代のメディア・リテラシーについて語ってもらった。【取材:村上隆則、撮影:弘田充】
数千字、数万字の文章でないとたどり着けない結論がある
―― 荻上さんは評論家であると同時に、少し前まではSYNODOSというメディアの編集長でもありました。SYNODOSはやや専門的な記事を掲載する媒体ではありましたが、その役割についてどのように考えていましたか
荻上チキ氏(以下、荻上): SYNODOSは、ある問題について適切なオピニオンを言おうとした人が、最初は数十文字で十分だと思っていたのに、数千字、数万字の文章でないとたどり着けない結論があるということに気付く場でもありました。
マスメディアや審議会などの場で、丁寧に議論を詰めていこうということにするためには、やっぱり、それ相応の論法とか資料が必要になってきて、それくらいの文字数になっていくわけですね。
そうした、数千字、数万字の論法というものが、ちゃんとウェブ空間にあるということ。研究者は、紀要とか、ジャーナルとか、そうしたところに載せているいろんな論文というものを、新書よりはわかりやすく、でも、ほかのネット記事よりは読み応えがあるというようなレベルにかみ砕いて紹介する。そういった記事に対するニーズを感じていました。
――メディアを運営していく中で、その点に変化はありましたか
荻上:その点は今も変わらないです。今もなお、多くの人たちは短文のあおり文句やまとめの文言、記事のタイトルだけ読んで反応していますが、そういう状況の中でも、読めば学べる、単に反応するだけではなくて読めばその人も変わるような、根拠のある議論というのは必要になってくると思います。
先日、サマータイムの導入が話題になったときには、睡眠学会が掲載していたサマータイムについての解説が広がりました。あれは今回の件に合わせて公開されていたわけではないのですが、睡眠学の一つの蓄積として、サマータイムを導入すると睡眠障害が加速し、さまざまな疾病リスク、心臓疾患などのリスクが増大するというようなことを掲載していた。そういうものがあれば、例えば経済効果はいくらだと言われても、反対に損失もあるんだということが見えてきます。
いろいろな知見がウェブにあることによって、それを参照することでアジェンダのセッティングのされ方が変わっていく。つまり、サマータイムにしても、「暑さ対策」だと言われていたものに対して、そのために本当に人が時間を移さなきゃいけないの?という疑問があった。そこに睡眠障害が生まれるというデータもあるよという指摘が入り、別の視点からの議論が展開されていく。
そういった人々が議論するための材料が常にウェブ上で更新されつづけていくことによって、こぼしてはいけない理性の声、根拠のある声みたいなものを届きやすくすることはできる。そういったことを志すサイトがもっと増えてほしいなとは思っています。
偏っていないメディアを志向した段階で、その人は永遠にだまされ続けてしまう
―― ここ数年、メディアが増えてきたこともあり、それぞれのメディアが持つ偏りというものが批判されることも増えていますね
荻上:よくTwitterなどで、「メディアが偏向している」という批判をする人がいますが、それを言ってしまったら本当は何のメディアも見られないんですよね。
偏っているというのは単なる事実であって批判にはなりません。その上で、どの方向に偏っているものなのかを踏まえた上で付き合う必要がある。そもそも、すべてのコミュニケーションは偏らざるを得ないんです。
仮に中立と謳っていたとしても、中立というものは、人がどこかの段階で恣意的に線を引いたものです。つまり、誰かの政治的意図に基づいた中立でしかない。ですから、ある種純粋な存在として偏ってないメディアを志向した段階で、その人は永遠にだまされ続けてしまうわけです。だいたい、「右でも左でもない」「普通の日本人」と言ってる人って、とても偏ってるじゃないですか。
にもかかわらず、偏っているとされる有害ものを排除することによって、社会が公正に近づくという考え方を持っている人が少なからずいる。そうした言説がメディア批判の中では、カジュアルなカルチャーとして受け入れられています。
どこかの新聞をバカにするだけで、いっぱしの議論をしているような気になっている。でも、そういったコミュニケーションをすることで、自分たちの優位性みたいなものを確保することができたりするわけですよね。
そういった議論を行う人が一定数いるという状況は、これからも変わらないと思います。その人たちは「偏ってないゲーム」をしている偏った人たちとして、今後も何らかのメディアを叩き続けるでしょう。
ただ、それを織り込んだ上で、政治コミュニケーションとか、メディアコミュニケーションとかを展開していくことは必要です。一部の意見ではあるけども、クリティカルものなのか、それとも多くの人がつぶやいているように見えるけれども、実際は少数なのか、そうしたものを見ながら一つの土地勘のようなものを獲得しつつ、それと付き合っていこうとしていくということが必要だと思うんですね。
それはこれからいろんなメディアの人、政治関係の人、研究者の人、それぞれが身体的に獲得していくものじゃないかなと思います。
-- 偏り自体が問題であると指摘する人が多いのは、メディアリテラシー教育というものがうまく機能してないのかなとも思いますが
荻上:メディア論の講義なんかでは、すべてのメディアがどういった特徴を持ちがちなのかっていうことをやったりもします。
新聞にしても、その生い立ちや、背景や、立ち位置などを知った上で読む。どの新聞にも読む価値のある記事っていうのはあるわけですから。そういうものを差し引いた上で付き合えるようになるのは重要かなと思います。
やっぱり、新聞の読み比べができる人って少ないと思うんです。能力的にというよりは、慣習的に。だから、そういう人にある程度の知識を植え付けておくことで、「あの新聞はゆがんでいたのか、ひどい」みたいな状況は変えられるんじゃないかと思います。
読むのも書くのも140文字だけで済まさないほうがいい
―― ほかに、こういうことを習慣付けるといい、みたいなことはありますか
荻上:読むのも書くのも140文字だけで済まさないほうがいいとは思います。大学生でも、論文を書く訓練をさせられると、2,000字、4,000字、6,000字…と、長文を書く経験をしますよね。
そうやって書いていくと、このテーマを扱うには○○文字じゃ足りないというのがなんとなくわかってくる。そうやって、必要な議論と、議論に必要なコストっていうものを感覚で計算できるようになることが高等教育の一つの役割だと思うんです。
大学を出た段階で、何となくこの議論に必要な投資とコストがどれくらいのものなのか、あるいは、どういったものを検索すればいいのかという大ざっぱなリサーチ方法までを知るのが、まず学部生で身につけるべきことです。
そう考えると、日本では大学レベルのものを半数の人には求めていいはずなんです。大学進学率がちょうど半分くらいですから。
また、議論をするのであれば、たくさんの人が無意識のうちに思いつくような俗説をそのままつぶやくのではなく、その場で一歩立ち止まって熟考したり、そのために何かしらの原典みたいなものに触れたりしたほうがいい。一回触れるとそれは身体にたまっていくので、本当は継続してほしいとは思うんですけどね。
――しっかりと調べて書くということを経験すると、論じることの難しさにも気付きますよね
荻上:自分たちの社会だからこそ、社会に対してどういった益を浸透させて、どんな社会を達成したいのかというビジョンが必要で。本来は、そのビジョンと具体的な方法論というものを研さんしていきながら、民衆は成熟していくはずなんですよね。
だけれども、世の中には何となく議論のうまみだけを吸うフリーライダーみたいな人もいる。一種のオピニオンリーダーの人はそれが養分になるわけですね。「応援された。じゃあ、明日もツイートしよう」みたいな。それもいい方向に行くことは当然あるわけですから、機能主義的には何も否定はできない。
そうではなくて、ただ自分の養分になるわけではなく、何でもいいからひとつ、有益なものを残そうと思うんだったら、それなりの準備と、訓練と、そうした節度みたいなものが求められてくるのではないでしょうか。
そうはいっても、なかなか難しいと思うので、僕は粛々と記事や放送を作って、ウェブ上にアップしていくっていうことを続けたいと思います。
プロフィール
荻上チキ(おぎうえ・ちき):1981年、兵庫県生まれ。評論家。ニュースサイト「シノドス」元編集長。著書に『日本の大問題(ダイヤモンド社)』『すべての新聞は「偏って」いる ホンネと数字のメディア論(扶桑社)』など。ラジオ番組『荻上チキ・Session-22(TBSラジオ)』ではメインパーソナリティを務める。
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