“生産性がない発言”に同調したデヴィ夫人にも読んでほしい小説「彼女は頭が悪いから」について - 紫原 明子
※この記事は2018年08月27日にBLOGOSで公開されたものです
すこし前のことですが、杉田水脈議員の「LGBTの人に生産性がない」という発言を取り上げたある番組において、タレントのデヴィ夫人が「子どもを作れないのだからたしかに生産性がない」と発言しました。
子どもを産むことを「生産」とし、人間の優劣をその意味での「生産性」ではかろうとする発言の愚かさについては、炎上後、インターネットのみならず、雑誌や新聞、テレビでも十分に語られてきたと思います。けれどもデヴィ夫人にはそれが伝わっていないのだなあと落胆しました。
ただ、ひとつだけ良かったと思うのは、番組中でほかの出演者の方が、即座にデヴィ夫人に反論されていた点です。目の前の人との会話の中で思いがけず無知や、誤解や、無理解と直面するということはこれからもきっと多々あります。そういうときに「それは違いますよ」と伝えられるか、またどう伝えるべきか。これは私たちにとって身近な問題です。
「生産性のない人たちの支援は後回しだ」とかいうスーパーむかつく思想との戦い方
https://note.mu/mikipond/n/nd5ee09126075
ライターの小池みきさんが書かれたこちらの記事はすでに多くの人に読まれていますが、あらためてご紹介します。“「自分の身の周りで繰り広げられる、薄めた杉田水脈案件」を極力見逃さず対応していく”、そのための方法が具体的に紹介されていますので、折にふれて読み返したい記事です。
ところで、デヴィ夫人はこの発言よりもさらに前、TOKIOの山口達也氏が未成年への強制わいせつで書類送検された事件に際して、被害女子を貶める内容の記事をブログにアップしたことがありました。
具体的には、「(キスを迫られたくらいで)ここまでことを大きくして、関係者、スポンサー方に与えた損害は億単位」「キスされたくらいなら洗面所で口をうがいして帰ってくればいいだけ」といったものです。
のちに「山口がキスを迫っただけかと思っていたがそうではなかったので記事を削除する」という趣旨のツイートとともに、該当記事は削除されました。しかしこのツイートではデヴィ夫人が未だ、キス程度なら騒ぐ方が悪い、と考えていることは否定できません。
改めて考えてみると、複数のスポンサーがついている人気タレントだから、そうでない者は彼らの愚行をある程度は甘んじて受け入れるべきというのは、いかにも杉田水脈さんの「生産性」発言に同調したデヴィ夫人らしい考え方です。さて今回、そんなデヴィ夫人に、ぜひ読んでいただきたい小説があるんです。
文藝春秋から出版された、姫野カオルコさんの小説、『彼女は頭が悪いから』です。
登場人物たちの行動や思考は「想像力」を働かせる材料に
こちらは2年前に実際に起きた、東大生による強制わいせつ事件に着想を得て書かれた群像劇です。
主人公は女子大に通う神立美咲。美咲はある日、ふとしたきっかけで出会った東大生の竹内つばさと淡い恋に落ちます。ところが、さまざまな外的要因により、次第に二人の関係はいびつなものへと変化、ついには、おぞましい強制わいせつ事件に発展してしまいます。
強制わいせつ事件の被害者となった神立美咲は、プライバシーが守られたり、必要なケアを受けるでもなく、むしろ有望な東大生の前途を台無しにした尻軽女、危機意識のない女、むしろ東大生を狙った陰謀だったのではないかなど、ネットを中心に、激しい誹謗中傷を受けることになります。中には、“のこのこついて行ったんだから同意だろ!”とツイッターに投稿する、どことなく既視感のある発言をするタレントも登場します。
この本が今この時期に世に出てきたこと、本当にありがたく感じます。なぜなら私たちが同様の事件を報道で目にしたとき、その断片的な情報ではとても補いきれないものが、取材をもとに、リアリティをもって描写されているからです。
つばさの誘いを受け、恐ろしい飲み会に赴いた美咲。つばさはなぜ美咲を呼んだのか。また美咲は、なぜそこに行ったのか。犯行の現場に複数いた東大生達は、なぜ誰も自らの行為に疑問を持たなかったのか。読者は、現実であれば決して知りえない事実、その日、その瞬間にいたるまでの、登場人物たちの行動や思考をうかがい知ることができます。
もちろんこの本の中に書かれていることはあくまでもフィクションです。当然ながら、すべてがこの通りだったわけではないでしょう。けれども、どうかすべてが完全にこの通りでなければ良い、と願ってしまうほど、描かれている様々なおぞましさと、それが発生する力学に関して、残念なことに不自然さがないのです。
前途有望な東大生らによって、一体少女の何が踏みにじられたのか。
そしてそれは、東大生の前途に比べれば取るに足らないものだったのか。
お金やブランドなど、ついわかりやすい価値にとらわれがちな私たちが、自分からすこし離れた場所、けれど同じ社会の中で起きる出来事に対して、今よりもっと想像力を働かせるための材料を数多く与えてくれるのが、この『彼女は頭が悪いから』です。
さて、そんな本作ですが、僭越ながら私には一点だけ、どうしても気になった点がありました。以下、小説としては少しネタバレとも言える内容になるため、気にならない方だけ読んでください。
誰でも何か特権を得た時“悪用しない”と言い切れないのでは
私の唯一気になった点というのは、作中で描かれている、加害者の親たちの姿です。
作中、加害者の親はほぼ全員、子どもの犯した罪に対して罪の意識が薄く、また被害者への同情心も希薄、自己中心的で薄情な人間として描かれていました。けれども果たして本当にそうなのだろうか、むしろそれならどんなに良いかと、私は思ってしまうのです。
薄情な親が育てたから子どもが薄情な事件に手を染める。そんな簡単な話なら親である私たちのやるべきことは明確です。
けれども、「東大生」のように社会的なステイタスがその動機の根底に横たわるものについては、多くの人が大人になる中で当たり前に備える倫理観が、必ずしも抑止力にならない場合があるのではないか。そんな風に思うのです。
作中でも、折に触れて東大生の自尊感情や、東大生に向けられる他者からの羨望の眼差しといったものが描かれていました。
仮にもし自分が突如として、それほど特別なステイタスや、ある種の特権を手にした場合、自分自身はそれを悪用しないでいられるか。いかに道徳やモラルのある親に育てられていたって、絶対にないとは言い切れないものなのではないかと思うのです。
「凡庸な悪」というハンナ・アーレントの有名な言葉があります。ある種の悪というのは、根源的な悪ではなく、ふつうの人間がふと何かのきっかけで思考停止し、自分の外にあるものに判断基準を委ねたことにより起きる、というものです。
もちろん、だからといって加害者達に罪がないと言いたいわけではありません。そうではなく、誰しも加害者となる可能性を秘めた中で、子どもを育てる大人として、ある意味“現象”として生じかねない悪を、いかにして発生させないでいられるか。そのために私たちは子どもに何を教え、どんな姿勢を示せば良いのか。そういうことを考えていかなければいけないなと思うのです。