MeTooは盛大なブーメランと成り果てたのか? - 赤木智弘
※この記事は2018年08月25日にBLOGOSで公開されたものです
ハリウッドの大物プロデューサーに性的暴行を受けたと告発し、アメリカにおけるMeToo運動を牽引する一人とみなされていた女優が、過去に年下の男性俳優に性的暴行を行っていたのではないかという疑惑が話題になっている。
報道によると、女優は2013年当時に17歳だった男性俳優に対して、性的暴行を行い、2017年の11月に訴訟を示唆され、約38万ドルの解決金を支払ったとされている。(*1)(*2)
MeToo運動とは、TwitterなどのSNSで、自らが受けた性的暴行を告白することで共有し、性的暴行を受けたことを主張できなかったりトラウマとして抱え込んでいる人たちへの支援を表明する草の根運動である。
しかし日本では、そもそも女性がそうしたことを告白することを望まない人たちがいることに加え、検察にレイプ被害をもみ消された伊藤詩織さんの問題とMeTooが結びついたことで、政治的党派性からMeToo運動を否定的に捉えたり、それどころか公然と批判する人が増えてしまった。
決定的だったのが、作家のはあちゅう氏によるセクハラ告発で、彼女が当時の上司からセクハラを受けたと告発した一方で、自身は童貞を揶揄することをお金儲け手段の一つにしていたことが批判され、一時は謝罪も行ったが、その後開き直って謝罪を削除。その首尾一貫しない見苦しい態度が問題とされた。
この一件から、日本でのMeToo運動は急速にしぼんでしまった。
そして、今回の報道がされたことにより、ますますMeToo運動は窮地に陥っている。検索をすればMeTooを「ブーメランだ」と揶揄する声が聞こえてくる。
「ブーメラン」とは、主張をする人たちが「武器」として利用したことが、自分の身に降り掛かってくる様子を指す。まさに、相手に投げつけた武器が、グルっと回って自分に戻ってきて、自分を危機に晒すのだ。そうした様子は非常に見苦しく、ネットからは格好の嘲笑の的となる。
確かにそのような可能性はMeToo運動の初期から言われてはいた。たとえその場では「あなたのことが好き」と言っていても、あとからそれを「本当は嫌だった。私は性的暴行を受けていた」と翻すことは、いくらでも恣意的に可能だろうと。
今回の件でも、女優の側は同意の上でのセックスだったと考えているようだ。(*2)
しかしそれでも、男性は「性的暴行だった」と主張してきたから、解決金を渡すしかなかった。
結局の所、今回被害にあった男性のみならず、すべての性的暴行を受けたと考えている人達が、本当に当時それを嫌であったのかということは証明のしようがない。
性的暴行の告発は、良心でもって「本当に嫌だったのだろう」と考えることは可能だし、裁判などではそういう運用をされていることも多い。
しかし、性的暴行を受けた告白が社会運動と化し、多くの人が「私も性的暴行を受けた」と主張しだせば、当然その中にはお金目当てや、あとから受けた恨みなどを晴らすためにMeToo運動を利用する人が出てくることは、十分に予測され、良心的な運用ではやっていけない部分も出てきてしまう。そして実際にそうなりつつあるというのが現状である。
さて、ではMeToo運動は、このままブーメランと成り果て、消えていく運命にあるのだろうか?
僕は、今回取り上げた女優の騒動が明るみに出るまでは、そう思っていた。
MeToo運動がフェミニズムによる「私達女性は常に被害者。あいつら男は常に加害者」という姿勢の下に利用され続ける限り、ブーメランに成り果てるしかないし、成り果てるべきと考えていた。実際、はあちゅう氏の童貞へのハラスメント行為に対して、日本のMeToo運動は極めて冷淡で、男性の性的被害など一切考慮していないことは明らかだった。それどころか「はあちゅう氏への批判はMeTooへの批判だ」などと主張する人までいる始末であった。
しかし、今回の事件が明るみになったことで、男性被害者がMeTooと、自らの性的被害を主張することに意味があるとみなされれば、MeToo運動はフェミニズムのご都合主義的な考え方を脱しうる。性別などにかかわらず、すべての人を包摂した「まっとうなMeToo運動」の萌芽を、僕は今回の件に見るのである。
MeTooは確かにフェミニズム活動家からすればブーメランになったのだろう。しかし、実際に男性が性的暴行を受けていたとすれば、その武器の軌道は決して「自らの性的被害を告白したから、自分に当たった」のではなく、まっとうに正しく「性的加害者を撃った」のである。
ブーメランではなく、それぞれ別の性的加害があった。それだけのことなのである。
MeToo運動を否定する人には「お前たちも痛い腹を探られたくないだろう、ならば黙ってろ」という考え方がある。それは性的被害を被害者の心のうちに留めることで、表面的には健全な社会が存在するように取り繕う態度である。
また、MeToo運動を利用してきた人たちの中にも「私達女性は常に被害者。あいつら男は常に加害者」という考え方があった。これもまた男性の被害告白を覆い隠す圧力であり、それはMeToo運動を否定する人たちの考え方と同類である。
しかし本来、MeToo運動は、そのような恣意的なヴェールから、性的加害を暴露することが目的としていたはずだ。むしろ今回の騒動により、MeToo運動は「被害を告白すれば、一方的な被害者に立てる」ようなご都合主義的な代物ではなくなり、正しく性的加害の実態を知らしめる運動に変化したのである。
性的暴行を批判する立場にたてばこそ、むしろMeToo運動が「味方」とみなした人物を撃ったことは喜ぶべきことである。それはまさにMeToo運動が、誰かの思惑を超えて、真に個人的な運動になり得る可能性を示したのだから。
ブーメランに成り果てたのは、恣意的な欲望のために運動を利用してきた人たちが掲げてきた、偽りのMeToo運動である。今ここに至ってようやくまっとうなMeToo運動が始まったのである。
*1:#MeToo告発の女性俳優、自らも性的暴行で追及され和解金を支払っていた(HUFFPOST)https://www.huffingtonpost.jp/2018/08/19/asia-argento-made-deal_a_23505217/
*2:MeToo告発女優が“性的暴行”報道を否定。しかし「問題の2ショット」には触れず(HUFFPOST)https://www.huffingtonpost.jp/2018/08/22/asia-argento-denied-the-report-but-did-not-mention-the-photo_a_23506920/