※この記事は2018年08月08日にBLOGOSで公開されたものです

汚い寝室で迎えた朝

朝、いつものようにベッドで目覚め、そのまま枕元のスマホでメールをチェックすると、編集者さんから「記事を公開しました」という連絡が入っていました。その記事は、日頃書いているものの中でもとりわけ多くの人に届けたい、大事な情報を載せた取材記事。

すぐにツイッターやFacebookでシェアして、ぜひ読んでくださいと呼びかけなければ…と思ったものの、瞬間的に“いや、本当にいいのか?”というためらいが生じました。

なぜならばそのときの私は、前夜の化粧を顔につけたまま、パンツ一丁という装いで、ベッドカバーのついていないベッドに横たわり、枕カバーのついていない枕に頭を乗せていたからです。

どうして寝具カバー一式がついていなかったかというと、その一週間ほど前から、意を決して洗濯のためにカバーをすべて取り外し(この時点で本当に億劫だった)、カバー類の洗濯はなんとか済ませたものの、今度は装着が億劫で、今日は疲れたから明日やろう、と先延ばしにし続けていたためです。

もっと言うと、そんなむき出しの私の横たわるむき出しのベッドが設置されている私の寝室は、洗濯機のある洗面所と隣り合っている事情から、洗濯乾燥を終えた衣類が一旦、仮置きされる部屋を兼ねています。

そうなると自ずとベッド部分以外のスペースには、洗濯乾燥済み以上、畳まれ未満というステイタスの数日分の衣類が、もはや前衛アートのような風格をもってダイナミックに散乱していました。

情報の仲介者として信頼に足るのか

シェアしなければならない重要な情報が起き抜けの私の手元にある。

しかし果たして、こんな汚い部屋の、汚いベッドに、汚い格好で寝そべったままの私が、「これはとても重要な情報です」と主張したところで説得力はあるのか。

何せ誰にも見えていないとは言ったって、ほかでもない自分には全部見えているわけです。

「とても大事な情報ですぜひ読んでください」(と紫原はパンツ一丁でツイート)というナレーションが頭の中で流れることからは逃れられません。

もちろん、汚い人の言うことに価値がないとは全く思いません。

誰が、どんな格好で、どんな場所から発言しようと、情報そのものの持つ価値や重要性は変わることはないし、情報の受け手としては、そういう情報を見定め、受け取らなくてはなりません。

そうではなく、これはひとえに仕事に携わる私の気分、あるいは心構えの問題です。

たとえば「私はこう思う」というタイプの原稿であれば別に、どんなに汚いベッドからどんなに汚い私が発信したって何も問題ないのです。それが発言者である私自身であることに違いないのですから。

しかしながら、取材相手に託された貴重な情報を発信したり、読んでくださいとおすすめしたりする際、私はあくまでも仲介業者です。情報提供者からも、読者からも、信頼に足る自分でなければならないという気持ちがあります。

特にその日の記事は私の手垢を極力つけず、自分自身はなるべく透明なままで橋渡ししたいタイプのものでした。その上で、朝、起きた瞬間の自分を客観視して、それができる私ではないかもしれないと、朝から自分に不信感を抱いてしまうというのはちょっとまずいなと思いました。

そこで私は決心したんです。まずは寝室を片付け、その上優雅に装飾してみよう、と。

何しろ起き抜けの、ベッドの中にいる自分というのは、1日の中で最もゼロ地点に近いところにいるわけです。前日どれだけ家の外に出て、社会の荒波にもまれようとも、家に帰って、最もプライベートな空間であるところの寝室の、最たるプライベートゾーンであるベッドに入って、無防備に寝る。

それによって大なり小なり一旦は生活がリセットされますので、翌朝起きた瞬間というのは、いわばその日の自分の“生まれたて”の瞬間であるわけです。そんな貴重な瞬間を、綺麗に片付いた優雅な寝室で迎える。

それを自分にとって当たり前の日課とするというのは、ある意味で最も自分自身の自尊心を底上げしてくれることなのではないか。

玄関やリビング、人の目に触れる場所が人のために片付いていることより、他の誰の目にも触れない寝室が、ほかでもない自分のためにだけ片付けられ、装飾されていることでこそ、得られるものがあるのではないかと思うのです。(当然ながら顔も洗うようにしますが、パジャマをどうするかについては目下検討中です)

そういえば、かの有名なマリリン・モンローは、寝るとき何を身にまとうのですかと尋ねられ「シャネルの5番」と答えたそうです。

好きな香水の香りを身に着けて眠りにつき、起きて真っ先に同じ香りを嗅ぐ。シャネルの5番は、夜を経て、新しく朝を迎えたまっさらな彼女を、目覚めた瞬間からマリリン・モンローに仕立ててくれる香りだったのでしょう。

1日の最初と最後に、自分が何者であるのかを定義する場所、それが寝室。

『なりたい私は寝室で作る』っていう本、誰か一緒に作りませんか?

馬小屋で生まれたキリストについては別途考えます。