オペラ観劇で感じた子育てとの共通点 土台を作る“線の人”、水をさす“点の人”の必要性 - 紫原 明子
※この記事は2018年07月27日にBLOGOSで公開されたものです
先日、縁あって初めてオペラを鑑賞してきました。
演目はウェーバーの「魔弾と射手」。私は残念ながらオペラにもクラシック音楽にもまったく明るくないので、開演前にクラシック音楽評論家の鈴木淳史さんのレクチャーを受講しました。
それによると、一口にオペラと言ってもさまざまな形式があるそうで、すべて歌だけのものや、歌と歌のようなセリフとで進行するものなども。「魔弾の射手」は、歌とセリフとで物語が進行し、こういった形式を“シングシュピール”というそうです。
著名な外国人演出家による演出と、元宝塚のトップスターの大和悠河さんが悪魔役で出演されるという話題性もあってか、会場は多くの人で賑わっていました。これまで“オペラ鑑賞が趣味”と語る人に出会ったことが一度もなかったため、このお客さんの入りにはちょっと驚きました。
オペラはド派手演出で想像以上に楽しめたが…気になったぎこちないセリフ
劇中、セリフはすべて日本語で発され、歌はドイツ語で歌われました。歌には英語と日本語で字幕が付きます。事前にあらすじを把握して臨んだこともあって、初オペラは予想以上に楽しめました。
何より驚いたのはド派手な演出。セットは動くし、風が吹くし、火花が散る。
実は当初私は、かなりストイックな舞台を想像していました。基本的には数人の歌と演奏だけで魅せて、衣装やセットは最低限なのだろう。ウェーバーが生きていた時代、初上演されたときと同じ内容を粛々とやり続けているんだろう。それがオペラだろうと。だからこちらもある程度は覚悟を決めて、事前に眠くならないカフェイン飲料をキメておきました。
ところが蓋を開けてみると予想を裏切るエンタメ性の高さ。古典でありながらお高くとまっていないという点で、なんとなく昔、一度だけ観たスーパー歌舞伎を思い出しました。
また歌舞伎と似ているなと感じたのにはもうひとつ理由がありました。
日本語のセリフ部分のイントネーションが、最初から最後までかなり独特なんです。現代語を使っていながら、普通は絶対そんな喋り方しないよな、という謎の抑揚。
日本での歴史がそう長いわけでもないのに日本語セリフにまでこんな独自ルールがあるとは、オペラ、奥深し…と思いながら観たんですが、後々ツイッターを見たり、人の感想を聞いたりしていると、思わぬ事実が分かりました。
どうもあれ、オペラの流儀でもなんでもないようなんです。
むしろオペラ通の方々は、揃ってあのセリフ回しに総ツッコミ。ある方の見立てによると、日本語に精通していない外国人演出家が演技指導をした結果、“不幸にも”ああなってしまったのではないか、ということでした。
長時間一緒にいると個性は見えなくなってしまうのか
それにしても、演出家が日本語に精通していなかったとしても、演者の皆さんの方は日本語に馴染み深い方が決して少なくないはずです。どうしてその壁を越えて、不自然なまま完成されてしまったんだろう、そんなことを考えていると、ふと思い出したことがありました。
テレビ番組のディレクターをやっている友人が、以前こんな話をしていたんです。
「密着ドキュメンタリー番組を作るとき、数ヶ月から数年という時間、その人と一緒にいることになるんだけど、そうするとだんだんその人の考えが自分に内在化されてきて、何がその人の特異性だったか、何が視聴者にとって面白いのか、分からなくなるときがあるんだよね」
子育てで必要な「線の人」と「点の人」の存在
子育て支援や保育に関わる人達に取材する中で、「線の関わり」という言葉をよく聞かれます。
たとえば子育てにおいて、保育園の先生とか学校の先生、あるいは親戚や近所の人など、その子の成長を親以外にも継続的に見守ってくれる大人がいると良いそうで、なぜなら子どもにはそれぞれに個性があるし、すべての子どもが一律に成長するわけでもないので、長く見続けることでこそ「今日は元気がなさそう」とか「こういう事ができるようになったんだね」と、その子の変化や成長に気付くことができるためです。
つまり、今日だけ、ではなく、今日も明日も、来週も来月も、長く見続けていく、という意味でその関わりを“線”と表現されるんです。
ところが先に述べたように、長く見続けているからこそ見えなくなることが、やはりあります。子育てにおいては、たとえば長年虐待やハラスメントを受けていたりすると、それが当たり前のことになってしまっている場合もあります。
映画「万引き家族」で登場する家族にも、“店に陳列してあるものはまだ誰のものでもないから盗っていい”という、一般的なルールとは合致しない独自のルールが、家族の中の当たり前になっていました。
線で関わる人だけで時間が続くと自ずと思考は同質化し、一般的な価値観から大きく逸脱するようなことがあっても、それをおかしいと思えないことがあるのです。
だからこそやっぱり、コミュニティの外側から、まったく別の価値観を持って突然やってきて、よくも悪くも決まりきった流れに“水をさす”人。混乱や、気づきを与えて去っていく人。いわゆる“点”で関わる人も、やっぱり必要な存在なんだろうと思います。
点の人って、それまでの文脈を全く無視して介入してくるので、ときには無責任で傍若無人に見えることもありますが、クリエイターにとっての愛しい作品も、また親にとっての愛しい我が子も、いずれは作り手の手を離れ、世に出ていかねばなりません。
だからこそ、しかるべきタイミングにきちんと“点”と接する。そうさせる勇気を持たねばならないなと思います。