※この記事は2018年07月03日にBLOGOSで公開されたものです

桂歌丸は「品」を感じさせる芸人だった。その「品」をもたらしていた大きな要素は、芸への真摯な姿勢だった。

それを思う時にまずベースとなるのが、全国に知られる「笑点の歌丸」という顔だ。1966年から笑点大喜利メンバー及び司会者として50年もの長きに渡り日曜夕方の顔であり続け、国民の誰もに知られる知名度を得た。

だがそれは、あくまでテレビで知られる人気者としてのものだと、本人が誰よりも自覚していた。ゆえに「笑点の歌丸」と肩を並べる「落語家の歌丸」がいなくては、本人が納得できなかったのだろう。

そうあり続けるために、果敢に取り組んでいたのが「円朝もの」と言われる長講噺だった。落語の神様と言われる三遊亭円朝。明治期に円朝が創作し書き残した物語には、語り終えるのに何日も要する長編落語が幾編もある。それは落語という話芸で先人が到達したひとつの頂でもある。

大ネタに挑み続けた「落語家」桂歌丸

例えば「牡丹灯籠」「真景累ヶ淵」「怪談乳房榎」などの怪談噺、「塩原多助一代記」「双蝶々雪の子別れ」などの人情噺、歌丸はこれらの大ネタに晩年まで取り組み続けた。

しかし、こういう長講噺は容易に取り組めるものではなく、語りきるのに気力も体力も時間も要する。加齢と共に衰えがちな記憶力との闘いもある。さらに発表の機会も限られ、全国隅々で頻繁に出来るような商売に向くネタではない。

歌丸クラスであれば、このようなハードルの高い円朝ものに無理に取り組まなくても、すでに十八番としている持ちネタだけで全国の落語会に赴くのに何不自由はない。だが、ライフワークのごとくこれらの厄介な大ネタに挑み続けたのは、繰り返すが「笑点の歌丸」と「落語家の歌丸」を自ら納得のいく両輪として保つためだ。

過大にも過小にもならぬ評につとめるが、桂歌丸はこの「円朝もの」において落語史に刻印されるような芸域に辿り着いたわけではないと個人的に思う。取り組み続け、挑み続け、落語家として話芸者として前を向き続け、その背中を見せ続けた姿勢そのものが、まごうことなき桂歌丸の功績だった。落語の道、芸の道に終わりはないと後進に語りかけるかのように。

察するに歌丸自身は、こと「円朝もの」においては、昭和の名人・六代目三遊亭円生が至った芸の高みを常々見上げていたことだろう。歌丸の音源を聴くと、円生が残した噺の構成を細部までリスペクトしていたことが随所に伺えていた…。

こうして、年齢にあらがい「円朝もの」に挑み続けた歌丸は、国民的人気番組に出演し続ける華やかさの一方で、真摯に芸道を歩んでいた。大衆と向きあい続ける半身と、芸の高みを求め続ける半身、合わせた全身が桂歌丸という芸人だった。この両輪をいくスタンスが歌丸ならではの「品」を醸していたのだと思う。

晩年は入退院の繰り返しもあり、歌丸に対して「趣味が入院、特技が退院」というフレーズが落語界でもよく聞かれ、客席を笑いでくすぐっていた。体調の不安定さが度々心配を招いていたが、退院しては高座に上がり続け、総じれば生涯現役を貫いた恵まれた芸人人生だった。

そして、その現役ぶりの一端を「笑点」の中に思い巡らせると、司会引退を発表する節目の場面が鮮やかな記憶に残っている。

< 「笑点」(日本テレビ) 2016年5月15日放送より >
桂歌丸「実はあたくし桂歌丸、来週の放送を最後に大喜利の司会を辞めさせて頂きたいと思っております」
客席「ええええ~(驚き)」
歌丸「若い方々に譲らなければ長続きはしないと思っておりますので…、50年間色んなことがございました。(来週は)最後の大喜利、生放送を一生懸命つとめさせて頂きます。よろしくどうぞお願いを致します。そういったところでお時間のようです。来週お目にかかりましょう。ありがとうございました」
客席「(大拍手)」
…と、司会降板の発表と挨拶を終え拍手に包まれる中、観客の一人が「まだ、できるぞー!」と声を掛けた。すると歌丸は、先ほどまで大喜利で使っていた小道具だった「YES・NO」の札をすかさず手にして掲げ、「NO!」と即答で切り返した。このアドリブに客席は大爆笑となった。

当時79歳だった大ベテランが見せたみずみずしい笑いの反射神経にのけぞった。これが人気番組の第一線で50年に渡り活躍した芸人の瞬発力なのだと、素直に「すごい」と唸った。

桂歌丸――享年81歳、人気落語家として、落語芸術協会会長として、生涯現役だったことを記憶に残したい。