社会人になってから家計簿を付け始めたイチロウさん。平均して手取り15万円の会社員だが、3年間で100万円もの社会保険料や税金を払ってきたという(筆者撮影)

現代の日本は、非正規雇用の拡大により、所得格差が急速に広がっている。そこにあるのは、いったん貧困のワナに陥ると抜け出すことが困難な「貧困強制社会」である。本連載では「ボクらの貧困」、つまり男性の貧困の個別ケースにフォーカスしてリポートしていく。

今回紹介するのは「自由に使えるお金が少なくて困っています」と編集部にメールをくれた、26歳の男性だ。

「取られるお金」の多さに愕然とした

給与「622万5847円」、厚生年金と雇用保険などの社会保険料「91万5697円」、所得税と住民税の合計「21万7803円」、消費税「7万3272円」――。


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給与622万5847円といっても年収ではない。都内の会社員イチロウさん(仮名、26歳)が2019年4月に社会人になってから昨年末までの3年ほどの間に、働いて得たお金と差し引かれた税金など収支の総計である。

なぜ1円単位までわかるのか。それはこの間、イチロウさんが欠かさず家計簿を付けているからだ。きっかけは、正社員として働き始めたとき、ふと「自分は人生でどれくらいのお金を使うのかな」と思ったことだという。

「几帳面な性格というわけではありません。項目を少なくしてエクセルを使えば、後は給与明細とレシートの数字を打ち込むだけなので手間も時間もそれほどかからないんですよ」

ちなみに額面給与から社会保険料と税金を差し引いた手取り額は「509万2347円」。1カ月当たりの手取り額を算出すると約15万4000円になる。

この間、数カ月間だけ短時間勤務のアルバイトをしていた時期があるが、そのほかはフルタイムで働いてきた。典型的なワーキングプアである。

家計簿を付け続けて気が付いたのは、自由に使えるお金などほとんどないということだった。イチロウさんは「ただでさえ少ない給与から(社会保険料や税金として)2割も持っていかれてる。合わせるとこれまで100万円以上も払っているのに、その負担に見合った還元がなされていない」と訴える。

「使うお金」を知りたくて始めたことなのに、図らずも「取られるお金」の多さに愕然とすることになったというわけだ。

地方都市出身のイチロウさんは、現在は都内のシェアハウスで1人暮らしをしている。シェアハウスを選んだのは初期費用が掛からないから。家賃は5万円。1カ月の食費は3万円以内に抑えるのが目標だ。無駄遣いをしないよう、食料品は1週間分をまとめて買う。安価なモヤシと納豆、豚のひき肉は欠かせない。炒め物でひき肉を使うと、肉の脂身が食用油代わりになるのでその分節約ができるという。

最近、ショックを受けたのは、小麦粉が値上がりしたせいで6枚切りの食パンが100円で買えなくなったこと。友人の結婚式に出席して収支が赤字になりそうになった月は、昼食を「カロリーメイト」や「ウイダーinゼリー」にして出費を抑えた。午後7時、8時まで残業をしていると、空腹で集中できず往生したという。

「コンビニなんて何年も入っていません。なぜかわかりますか。高いからですよ。果物も高級品。もうずっと食べてません」

飲食関係の会社に就職したが…

自営業を営む両親のもとで育った。裕福とはいえなかったが、大学は仕送りをもらいながら通うことができた。一方で就職活動には苦戦した。「コミュニケーション下手で、面接ではいつも緊張してしまって」と振り返るイチロウさん。人手不足とされる介護や小売、飲食業界なら採用されるはずと友人からアドバイスを受け、飲食関係の会社に滑り込むことができたという。

会社では正社員として店舗を任されたものの、客からのクレーム対応に苦労した。ライスの提供が遅れた男性からは、謝っても、謝っても「なんだそのクソ対応は!」「やめちまえ!」と怒鳴られ、デリバリーを頼んだ女性からは電話越しに「まだ届かねーんだよ!」とキレられた。深夜までサービス残業をしても、給与は20万円足らず。一方でお金を使う暇がないので、半年余りで貯金は100万円になった。

早々に「このままではもたない」と思った。職場の人間関係には恵まれたものの、勤続1年がたつ前に退職。すぐに書店でアルバイトを始めたが、折悪しくコロナ禍の直撃を受ける。時短営業や休業のあおりで、月収は休業手当を含めても5万円を切った。貯金の残高がみるみる減っていく中、必死で就職活動をしてなんとか現在の流通情報関連の会社に転職することができた。

会社では飛び込みの営業も任されているが、雇用形態は半年更新を繰り返す契約社員。最近、時給が100円アップして1200円になったのに、手取り額は減ってしまった。給料に応じて差し引かれる社会保険料や税金が増えたからだ。

イチロウさんは「世間ではよく(ワーキングプアに対して)『好きでその仕事を選んだんでしょ』と言われますが、違いますよ。それしかないから、仕方なく選んでるだけです」とため息をつく。

同感である。一部の会社でサービス残業が常態化していることも、飲食業界の行き過ぎた“お客さま第一主義”もイチロウさんの自己責任ではない。メンタルに不調をきたす前に退職したのはむしろ賢明な判断といえる。最大の問題はフルタイムで働いても、生活保護水準と変わらない手取りの雇用しか選べないことだ。

この間、イチロウさんに「公助」の恩恵はあったのか。

最初に会社を辞めたとき、失業保険を受けるためにハローワークに足を運んだものの、「保険の加入期間が1年未満の場合、失業保険はもらえない」と説明された。コロナ禍で住居確保給付金の申請をしようとしたところ「シェアハウスは対象外」と門前払いされた。コロナ対策である10万円の臨時特別給付金に期待していたが、対象は住民税非課税世帯や子育て世帯に限定された。

「失業保険については僕の知識不足でした。でも、(コロナ対策については)若い単身者のことももう少し考えてほしい。僕たちの世代は年金も掛け捨てでしょうし……。3年間で100万円もの税金を払ってきたのに、見返りは(2020年に支給された特別定額給付金の)10万円だけ、というのが実感です」

「本当に苦しんでる人に寄り添った政治を」

高齢者や子育て世帯ばかりが優遇されていると感じているのだろうか。そう尋ねると、すぐに「そんなことは思っていません」という答えが返ってきた。世代間の対立の話にするつもりはないという。イチロウさんは「僕がいいたいのは、政治家には本当に貧困に苦しんでいる人のところにちゃんとお金を還元する政策を考えてほしいということです」と力を込める。

イチロウさんにいわせると、安倍晋三元首相の肝いりだった布マスク「アベノマスク」の配布や、不具合が相次いだ接触確認アプリ「COCOA(ココア)」の開発にあそこまでお金をかける必要があったのか疑問だという。そしてこう繰り返す。「本当に苦しんでる人に寄り添った政治をしてほしい」

たびたび政治に言及するだけあり、イチロウさんは選挙にはできるだけ足を運ぶという。若者の中には政治不信から「投票しても変わらない」と選挙に行かない人も少なくない。たしかに現在の小選挙区制度の下では死票になるリスクも高い。しかし、イチロウさんの考えは違う。

「僕は、選挙はまだましな政党や候補に投票する機会だと考えています。(死票になるからといって)選挙に行かない人が増えると、落としたい人を圧勝させてしまうことになりかねない。僕にとって投票は払った税金の見返りとして権利。昔の人が選挙権を勝ち取ってきた歴史を知っていれば、棄権する気になれないというのもあります」

昨年10月の衆院選では、政権与党によるコロナ禍対策に不信感があったので野党共闘の候補に1票を投じた。ただ支持政党が決まっているわけではない。「岸田内閣に期待がないわけではありません。評価はもう少し見極めてからにしたいと思っています」と話す。

いまイチロウさんが切望しているのはベーシックインカムだという。「時給が少し上がったところで、手取りはむしろ減るってことがわかってしまった。だったら5万円でも、10万円でも現金を支給してくれたほうがありがたいです」

コロナ貧困を取材する中でベーシックインカムを望む人が増えたと感じる。関心の高まりの背景には、パソナグループ会長の竹中平蔵さんがベーシックインカムの導入を提案したこともあるだろう。イチロウさんのように働いても人間らしい暮らしができず、袋小路に陥った人たちにとって、その提案は魅力的に映ったはずだ。

ただ現在のように高い家賃水準や、医療や教育、福祉といったベーシックサービスにも費用がかかる状態が放置されたままでは、わずかな現金などすぐに吹き飛んでしまうだろう。家賃補助制度の導入やベーシックサービスの無償化・低額化がない中でベーシックインカムだけを導入しても、待っているのは究極の自己責任社会だ。そうした議論がなされないままベーシックインカムへの期待だけが高まる現状に、私はむしろ空恐ろしさを覚えてしまう。

唯一の贅沢は「読書」

イチロウさんには唯一自分に許している贅沢があるという。それは読書だ。家計簿によるとこの3年間の書籍代は「18万8413円」。高額な専門書などは図書館で借りるが、書籍の購入費用だけはできるだけ惜しみたくないという。

今はまっているのは古代ギリシャの哲学者であるプラトンの著作を集めた「プラトン全集」。イチロウさんによると、プラトンは理想国家において、政治は一部のエリートが担うべきであることや、彼らは私的財産を所有しないこと、さらには生産労働に就かない代わりに国を治める仕事に徹底して奉仕することなどを主張している。

イチロウさんはプラトン全集について語るときばかりは、それまでの物静かな口調とは打って変わって熱心に身を乗り出してきた。「めちゃくちゃおもしろいです。これを紀元前5世紀に生まれた人が言ってたんですよ。すごいですよね」

少なくともイチロウさんが上げたくだりについては、現在の政治家にこそ聞いてほしい話である。

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(藤田 和恵 : ジャーナリスト)