日本で「肉食がタブー」とされた意外な歴史事情
なぜ長い間、日本人は「肉食」を嫌っていたのか?(写真:shige hattori/PIXTA)
今では当たり前となった「肉食」だが、昔は決して破ってはいけないタブーとされていた。日本人が肉食を忌み嫌った歴史背景とは? 歴史研究家の河合敦氏による新書『繰り返す日本史』より一部抜粋・再構成してお届けする。
穢れ(けがれ)というのは、死者だけが発するものではない。自然のあらゆるものには霊が宿っており、うっかり悪い霊に触れてしまうと穢れが発生し、人間に害をなすので禊(みそぎ)や祓(はらい)によってそぎ落とさなくてはならなくなる。こうした考え方をアニミズムといい、世界の多くの地域に存在する原始的な宗教・信仰である。日本の神道もその1つで、まさに八百万の神が万物に宿る霊威にあたる。
私も子どもの頃、お風呂場でおしっこをしたりすると、お風呂の神様の罰が当たると母親に叱られたが、このように今も日本人の中にアニミズムはしっかり根付いている。
「犬」は穢れを持ち込む動物だった
さらにそうした観念を強化したのが仏教である。例えば、仏教では動物は不浄といって穢れた存在であった。現在も、神社や寺院といった聖なる空間には入れないことが多い。とはいえ、平安時代の藤原道長のように、動物をペットとして愛玩する貴族は多かった。
ただし、犬は穢れを屋敷に持ち込むことがある。行き倒れ人や墓の死体などを掘り返して食べてしまうからだ。しかも、食べ物をほかの場所に移して埋める習性があるので、貴族の屋敷には、犬が持ち込んだ死体の一部が放置されることがあった。これを「咋入れ(さくいれ)」と呼ぶ。このようなことが起こると、その貴族は30日間穢れを落とすために屋敷に籠もらなくてはならない。
そこで平安時代には、野犬を見つけると容赦なく追い払った。御所内でも野犬が増えると、犬狩と称して宮門をすべて閉じ、大内裏の縁の下から犬を追い出し、官人が弓矢をもってこれを狩る行事があった。ただ、犬を傷つけない矢を用いたようで、捕まえた犬も殺さずに犬島という場所(おそらく川の中洲)へ流していたとされる。
肉食のタブーも仏教の思想だ。だから仏教を国教とした大和政権は、国家として肉食を規制した。675年、天武天皇が牛・馬・犬・猿・鶏を食べることを禁じたが、これが日本最初の肉食禁止令。ただ、禁令が出たからといって、それまでの獣肉食の風習が消えたわけではない。
そこで奈良時代の元明天皇も散乱する獣骨は埋め、「解体」は厳禁であると命じ、聖武天皇も「牛や馬は有用なので解体してはならぬ。違反すれば厳罰に処す」と諸国に禁令を発した。こうした奈良時代の度重なる禁令により、貴族の間では肉食が穢れであることが浸透したが、庶民から獣肉食の風習が消えるのにはさらに時間がかかった。
「女性に厳しかった」昔の日本文化
女性の出産や生理も穢れだとして忌み嫌われた。例えば妊婦は陣痛が始まると、産室と呼ばれる狭い部屋や小屋へ移され、日常の生活空間から遠ざけられ、産婆の助けを借りて出産した。夫の立ち会い出産など、昔はとんでもない話だったのである。
さらに、現代でいえばずいぶん失礼な話であるが、女性自体が穢れた存在だとされ、富士山や相撲見物など、女人禁制とする場所も多かった。
なぜ女性がこのような扱いを受けたかは諸説あるが、そんな習慣を逆手にとったのが、浄土真宗本願寺派を中興した蓮如(れんにょ)だった。仏教では、女性は極楽へ行けないとされた。どんなに念仏をとなえ、仏道に励んでも、来世でいったん男に生まれ変わってから、次の世でようやく極楽浄土へ往生できるとされていたのだ。
ところが蓮如は、阿弥陀仏の力によって女身を転じて往生できると断言したのだ。このため女性の信者が殺到、その夫も入信し、本願寺派が爆発的に信者を増やす一因となった。
さて、ここで江戸幕府の5代将軍綱吉の話をしよう。綱吉といえば、極端な動物愛護令である生類憐みの令を次々に出し、人々を苦しめた暗愚な人物というイメージがある。ところが近年の教科書では、次のように記されているのだ。
「綱吉は仏教にも帰依し、1685(貞享2)年から20年余りにわたり生類憐みの令を出して、生類すべての殺生を禁じた。この法によって庶民は迷惑をこうむったが、とくに犬を大切に扱ったことから、野犬が横行する殺伐とした状態は消えた。
また、神道の影響から服忌令(ぶっきれい)を出し、死や血を忌みきらう風習をつくり出した。こうして、戦国時代以来の武力によって相手を殺傷することで上昇をはかる価値観はかぶき者ともども完全に否定された」(『詳説日本史B』山川出版社、2015年)
近年は評価が変わりつつある徳川綱吉
意外に思うかもしれないが、プラス評価に変化しつつあることがわかるだろう。ただ、教科書にある「死や血を忌みきらう風習をつくり出した」ということについて、綱吉は異常性格者で、彼の生類憐みの令は、血の穢れを病的に嫌う綱吉の異常さから発布されたのだという説がある。
これを説いたのは国文学者の前田愛氏である。前田氏は、綱吉が生類憐みの令を出したのは、教科書に記すような、野犬が横行する殺伐とした風習を改め、死や血を忌み嫌う社会をつくるためではなくて、「血の穢れを忌み嫌う綱吉の奇妙な性癖にもとづくことを示唆している」(『幻景の明治』筑摩書房)と述べている。
その証拠として、蚊をつぶして頬に血を付けた武士を処罰したり、綱吉の下着に血がついていたことに腹を立て、担当者に閉門を申しつけたりしたことをあげた。
さらに、1689(元禄2)年8月に触穢の禁令を発し、鼻血や痔、腫れ物などを患っている者は入浴しても穢れを清めるのは不可能だから、登城や出仕してはならぬと命じたことを根拠に、「綱吉は、べつに動物が好きであって、これを愛護したわけではなく、むしろ、動物を怖れ、血などの穢れを嫌ったから生類憐みの令を出したというのは、なんとも意外であろう。それを殺害したり、虐待したりする結果としてあらわれる、恨み、祟りや、血の穢れを、恐れ、忌み嫌ったのだ」(桑田忠親著『徳川綱吉と元禄時代』秋田書店)と結論づけたのである。
いずれにせよ、日本人は死体だけでなく、動物や肉食、出産、血など多くのものを穢れと考え、大昔からそれに触れぬよう生活してきたのである。