「40歳超えたオッサン」に伸びシロはあるのか
※本稿は、フミコフミオ『ぼくは会社員という生き方に絶望はしていない。ただ、今の職場にずっと……と考えると胃に穴があきそうになる。』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。
■「伸びシロがあるよ」と言われて、喜んでいいのか
誰にもできないことをするのではなく、誰でもできることを積み重ねて、誰にもできないレベルにまで高めていく。仕事であれ、学業であれ、研究であれ、趣味であれ、それが大事なのではないか、と考えるようになった。
そのように考えるのは、僕が皆さんと同じように凡人で、そのうえすでに中年で、伸びしろのないオッサンだからだ。
一方、「人間には何歳になっても可能性がある」とおっしゃる人もいる。そりゃそうだ。可能性が0%の人間はいない。どんなボンクラでも0.001%くらいは可能性がある。だが、冷静に20歳の頃の自分と今の自分とを比べたら、可能性は相当減っているのは間違いがない。
もちろん、年齢を重ねるごとに可能性が増していく人もいる。僕は年齢に比例して可能性が増していくタイプではないということ。狭い観測範囲からの推測だが、年齢とともに可能性が減っていくタイプのほうが多いのではないだろうか。40歳を超えたオッサンで、誰かから「あんた伸びシロがあるよ」と言われて、素直に喜ぶ人がいたら、楽観的すぎやしないかと訝ってしまう。
■可能性が残されているのは素晴らしくも残酷だ
逆に言えば、どんな人間でも可能性がゼロパーにならないことが、人生の素晴らしさであり、残酷さなのだ。人は誰でも、自分に与えられた時間を自由に使う権利がある。仮に、可能性がゼロだったら、ああ俺には可能性がない、堅実に今を生きようと、諦めがつく。だが、イチパーでも可能性があれば、そのイチパーに残りの人生のすべてを賭ける人がいても、咎められない。
友人が「1度きりの人生! 俺はイチパーに賭けてみる!」と騒ぎ出したら、「それは無理じゃね?」とカタチだけの助言はするかもしれない。もちろん、世の中には、少ない可能性に賭けて勝つ人も存在するので、イチパーにベットするような人生を、否定することは誰にもできない。
以前の職場に、己の人生をイチパーに賭ける猛者がいた。「サラリーマンには夢がない」「このまま俺は死にたくない」などという意見を述べ、会社を去っていった某若手社員君。彼の出勤最終日に、「いいですね〜。先輩はいつまでも燻(くすぶ)っていられて〜。俺にはできないっす」と言われた。
そのときは「こんなアホでも、沸々と種火のように燃えたぎっている僕の仕事に対する熱い気持ちに敬意を示しているのだなあ」と勘違いして「まあね。俺は熱く燃えているよ〜」と笑って返してしまった。胸を張った。後日、彼の表情や声色等を加味して検証してみて「あんたは不完全燃焼で一酸化炭素中毒を起こしているボンクラ」とバカにされていただけのことに気付いた。あのときの自分を殴りに行きたい。何が、まあね、だよ。間抜けが。
■可能性に賭けている人は聞く耳を持たない
「世の中をナメないほうがいい」という真っ当な助言も、一部のイキっている人間からすれば、余計なお世話とされてしまう。最悪、「この人、老害。自分が終わっているからって僕たち私たちを潰さないでほしい」と誹謗中傷を受けてしまう。善意が伝わらないのがつらすぎる。
若手君に今後の展望を尋ねると、「起業して、ビジネス界でビッグになって、カッコいいライフな生活を送ります」と「頭痛が痛い」みたいな表現で未来設計図を教えてくれた。ビジネス界もずいぶんとイージーになったものである。実際的な話をすると、会社の戦力として考えてみた場合、彼は、まったくモノにならなかった。
彼をなんとか戦力にしたい、という薄気味悪い善意も微量にあったけれども、ただただ自分に飛び火してくるのがイヤだったという保身から、こうしたほうがいい、ああいうやり方もあるぜ、などとアドバイスした。だが、彼は聞く耳を持たなかった。きっと、どっか別の星にあるビジネス界に意識が飛んでいたのだろう。
■大見栄切って会社を辞めた後輩は結局戻ってきた
「この仕事は俺には向いていない。でも、俺の才能を活かせる分野なら、きっと俺は輝ける。だいたい俺はファッションで生きてきたモード系男子。服飾専門学校でも尖ったダチからは評価されていた。センスのない講師から教わるものがないとわかった瞬間に退学したけど」
そんな戯言をよく言っていた。退職間際に、今後、具体的に何をやるのか尋ねてみると、「そうですね、とりあえず大学生の彼女とJALに乗って奄美大島へ行き、近畿日本ツーリストで手配してもらった宿に3泊ほどしながら満天の星空を眺めたり、郷土料理を満喫したり、スキューバダイビングを楽しんだりしてくるつもりです」と具体的に計画を教えてくれた。
なるほど、確かに具体的。具体的にアホさがよくわかった。それが今生の別れになってくれればありがたかったのだが、彼は、退職して数か月後にふたたび僕の前に現れて、「俺みたいな必要悪は絶対に会社の役に立つと思いますよ」などとたわけた主張をして復職を求めてきたのである。これを悲喜劇と言わずして何と言うのだろう。
彼がこんなふうになったのも、ビジネス界でサクセスする可能性が0.1%「も」あったからだ。彼は自分の可能性に賭けたにすぎない。それを非難できる人はいない。もし、可能性が0%であったなら、悲劇は起きなかったはずだ。このように途方もないボンクラ人間でもわずかながらに可能性があることこそが希望であり残酷なのだ。
■サイコーな人生の水面下にはバタ足の努力があるはずだ
なぜ、人と違うことをやろうとするのだろうか。ひとことで表現すれば「カッコいいから」に尽きる。確かに、事業を興したり、車を1カ月に1000台売ったり、会社の規模を1万倍にしたり、深キョンとお付き合いしたり、夢のような人生を僕だって送ってみたい。サラリーマン人生からは、ほど遠い、派手でカッコいい人生。サイコーだ。
なぜサイコーなのか。インスタ映えするサイコーな人生のサイコーな部分だけ見ているからサイコーなのだ。月並みな表現になるが、優雅に泳いでいる白鳥でも水面下では必死にバタ足をしているように、サイコーな人生の陰には、バタ足の努力があるはずなのである。
サイコーで白鳥な人は、バタ足姿を見せていないだけなのだ。1枚のインスタ映えの裏には、削除された1000枚の失敗写真があるのだ。だから、サイコーな表面を見て、憧れて追っかけたところで、高い確率で失敗する。
サイコーな人生を目指して、可能性に賭けようとしている若者をつかまえて「キミは失敗する」と忠告しても、僕には老害のあなたと違って可能性がある! と切り捨てられるのがオチだろう。
■スティーブ・ジョブズも陰では苦悩と努力があったはず
己の可能性に賭けるのは素晴らしい。だが、うだつの上がらない人生とその人生にかかわる人たちを否定する理由にはならない。たとえばサラリーマンはバタ足続きの人生である。サイコーな人生も陰ではバタ足をしているという意味では同じである。バタ足している姿を露(あら)わにしているか、隠しているかの違いにすぎない。
故スティーブ・ジョブズのような天才でも、アップルの要職を解任されたりして、決して順風満帆な人生ではなかった。きっと、その陰には僕らには想像も及ばないような苦悩と努力があったはずだ。つまり、サイコーな人生を勝ち取った実業家や偉業を打ち立てた天才には、彼らにしかない大きな努力、バタ足があったはずなのだ。
バタ足続きの今の生活がイヤだから、バタ足とは無縁のサイコーな人生を送りたい、そういった理由ではどれだけ可能性がある人であっても、成功はかなり難しいのではないか。求められるのは、今までよりも強く長くバタ足を続ける覚悟と体力だからだ。
夢を追い続けるのは個人の自由なので、いっこうに構わない。ただ、カッコいい人生の陰の部分、バタ足を続ける覚悟と体力がない限り、確率的に夢のままで終わってしまうことが多いので、かなわなかったときにヤケクソになって、あおり運転等の反社会的行為だけはしないようにしてもらいたい。それだけである。
■誰でもできる仕事は誰にもできない仕事になりうる
誰にもできないことをするのは、言ってみれば山に設置された階段を1段か、2段抜いて駆け上がっていくようなものだ。体力に自信がなければ難しい。1歩1歩確実に上っていくように、いつもの仕事を積み重ねることは、誰でもできるだろう。そういった誰でもできることを積み重ねていくことで、誰にも到達できない高みに達することはできる。
たとえば、その道何十年の中華屋のオヤジ。中学を出てから料理の修業をして誰にも真似(まね)のできないレベルのチャーハン仙人になり、何人もの弟子をかかえ、暖簾(のれん)分けもしている。
失礼だがチャーハン仙人に、ジョブズのような知性があったか、モーツァルトのような天才があったか。チャーハン仙人にあったのは、何十年も欠かさず火の前で中華鍋を振り続ける、バタ足を続けられる覚悟と体力である。そういったバタ足をやり続ける能力の価値は、アイフォーンをクリエイトする才能になんら劣るものではないと僕は考える。
己の人生に賭けて勝負に出る生き方も、会社や工場でこつこつ生きていくのも、あまり変わらないのだ。そこで得られるものに価値を見出して評価するのは他人ではなく、あくまで自分。乱暴にまとめてしまうと、誰でもできる仕事を、誰にもできないほど積み重ねれば、誰にもできない仕事になりうる、ということ。
もしかしたら、天才たちでも到達できない場所、なしえないこともできるかもしれない。そう考えれば、今生きている人生は決して捨てたものではない。頑張れる。
■バタ足を知らなければ人生という大海は泳げない
例の若手君は、己のイチパーの可能性に賭けて「ボクの考えたビジネス界」へ飛び込んでいった。そして大方の予想通りうまくいかなかった。彼にはバタ足を続ける覚悟がまったくなかった。バタ足をしたことすらなかった。バタ足を知らなければ人生という大海を泳げない。
彼は今、細々と手づくりしたプリントTシャツをフリーマーケットやネットで販売して生計を立てていると風の噂(うわさ)に聞いた。彼はバタ足の大切さに気が付いただろうか。それともバタ足なしで成功を目指しているお気楽起業マンのままだろうか。
彼のプリントTシャツが売れて、原付バイクを乗り回せるようになったら僕も嬉(うれ)しい。高速道路乗り入れ禁止の原付バイクで一般道を地球1周分4万キロほど走ってみれば、少々理解力の劣る彼でも地道バタ足の意味がわかるんじゃないかな。僕は原付バイクで一般道を這いずり回っている彼をこれからも無責任に見守っていきたい。
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フミコ フミオブロガー
1974年、神奈川県生まれ。飲食業の会社の営業部長。「はてなブログ」の前身である「はてなダイアリー」で2003年からブログを始める。独特な文章でサラリーマンの気持ちを代弁。著書に『刺身が生なんだが』(すばる舎)、『恥のススメ〜「社会の窓」を広げよう〜』(インプレス)。ツイッター:@Delete_All
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(ブロガー フミコ フミオ)