大学は、このまま「実利」と「効率」という魔神の前にひれ伏すのか?(写真:natasaadzic/iStock)

大学の成果をランキング付けして「見える化」し、数値目標を与えて達成させる新自由主義的手法。今日の大学改革に影響を与えているこうしたやり方は近代合理主義の極致とも言える。
だが同時に、近代の大学の理念は「大学は人間の理性に基づく真理の探究の場」であり、その象徴とも言えるリベラル・アーツ(人文学的な教養教育)が「改革」によって大学教育から消滅しかねない事態となっている。両者ともに「近代」を背景としているにもかかわらず、なぜこうしたことが起こっているのか。
中野剛志(評論家)、佐藤健志(作家、評論家)、施光恒(政治学者、九州大学大学院准教授)の気鋭の論客3人と『反「大学改革」論』編者の一人・藤本夕衣(清泉女子大学特任講師)が、徹底討議する。

世界各地で危機に立つ大学

中野:「大学が崩壊しつつある」という危機感は実は日本に限らず、グローバルな現象としてあるのではないでしょうか。アメリカの政治学者ウェンディ・ブラウンが『Undoing the Demos』の最終章で、「大学は新自由主義に侵され、ランキング付けされてカネになることだけやらされ、古典的教養といった学問が滅びつつある」と問題提起していました。危機意識が日本とまったく同じなんです。

僕はサッチャーの新自由主義改革の後にイギリスの大学に留学しましたが、大学関係者はみなサッチャーのことを「魔女」のように悪く言っていましたね。ドイツの大学でも、「博士号を取るまでの年月がかかり過ぎると、みんな海外の大学に行ってしまう。伝統的なやり方を変えなくては」という話をしているようですし、フランスはフランスで「ポスト・モダンの流行のせいで、アカデミックなライティングのやり方まで破壊されてしまった」などという話を聞いたことがあります。

ところで、日本人は「欧米の大学は日本のように、権威主義的で現実世界から乖離した学問ばかりやっていたわけではないだろう」と思いがちですが、日本における翻訳文化が、ヨーロッパでは古典に代わっただけで、実際は似たようなことをやっていたのではないでしょうか。

藤本:学問の言語と日常の言語が乖離している、という構造は日本も海外も同じだ、と。

中野:そうです。むしろ欧米のエリートたちが自らの伝統と位置づけている古典が、大学の権威主義、社会の階級主義の原因となっている。それに対して新自由主義が、「シェイクスピアなんか時間の無駄だ」「さっさと博士号を出してやらないと、グローバルな競争に勝てない」といった言い方で襲いかかっている。程度の差こそあれ、日本と同じ構図の現実があるように思います。


施 光恒(せ てるひさ)/政治学者、九州大学大学院比較社会文化研究院准教授。1971年福岡県生まれ。英国シェフィールド大学大学院政治学研究科哲学修士(M.Phil)課程修了。慶應義塾大学大学院法学研究科後期博士課程修了。博士(法学)。著書に『リベラリズムの再生』(慶應義塾大学出版会)、『英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる』 (集英社新書)、『本当に日本人は流されやすいのか』(角川新書)など(写真:施 光恒)

:大学改革をめぐる議論の中で、「人文学が危機にさらされている」という声をよく聞きますが、欧米でも同じということですね。アメリカの政治学者パトリック・J・デニーンという人が今年出した『リベラリズムが失敗したわけ』(Why Liberalism Failed)という本があります。この本でも、著者のデニーンは同じようなことを指摘しています。

新自由主義的に解釈された現代のリベラリズムは、皮肉なことに「リベラル・アーツ」を、つまり人文学的な教養教育を大学教育からなくそうとしていると批判します。「リベラル・アーツ」は、人が自分自身を陶冶し、古典的意味での自由な人間、つまり刹那的欲望に負けない自律的な人間となるために必要だとかつては考えられていました。しかし、日本もそうですがアメリカでも、稼げる人間を作り出すことが近年、大学の第一目標となり、人文学的な教養などいらないというふうになってしまっているというのです。

なぜ近代合理主義が大学を攻撃するのか

藤本:近代の大学のルーツは、一般的には、神学を中心とした中世ヨーロッパの大学にあるとされています。教授会などのギルド的な「大学の自治」の源流は、中世にまでさかのぼることができる。ただ、現在の大学の問題を考えるには、大学の理念のベースが、神学から近代啓蒙思想へ移ったという変化を見逃せません。すなわち、人間の理性の進展が学問の中心になっていくという変化が重要だと思います。

中野:僕には1つ疑問があったんです。今の大学改革に影響を与えている新自由主義は、まさにマックス・ウェーバーの言う近代合理主義の権化といっていい。大学の成果をランク付けして視覚化し、数値目標を与えて達成させようというやり方がそれです。しかし大学が理性の聖地であるならば、なぜ近代合理主義が大学を攻撃するのか。

しかし、藤本さんのお話を聞いて、むしろ逆の議論もありうると感じました。つまり大学の諸制度には中世から続く要素が色濃く残っており、近代合理主義の立場から見たときにはむしろ前近代的非合理の塊なのであって、近代合理主義者はこれを改革したいという衝動に駆られるのではないか。

佐藤:大学の成り立ちは宗教と切り離せません。アメリカのハーバード大学も、創立者の一人、ジョン・ハーバードにちなんで名付けられています。彼が遺言で、財産の半分と蔵書のすべてを大学に寄付したことへの返礼ですが、この人は牧師でした。もともと中世ヨーロッパでは、「あらゆる学問は神学の婢(はしため)」と言われたほど。神という超越的価値に奉仕すればこそ、世俗的な存在である国家の口出しを封じることができた。


藤本 夕衣(ふじもと ゆい)/清泉女子大学特任講師 1979年生まれ。愛知県出身。京都大学教育学部卒業、同大大学院教育学研究科博士後期課程修了。博士(教育学)。教育哲学、大学教育学専攻。日本学術振興会特別研究員、京都大学高等教育研究開発推進センター研究員、同センター特定助教、東京大学大学総合教育研究センター特任研究員を経て、現在に至る。著書に『古典を失った大学』(NTT出版)、『反「大学改革」論』(共編、ナカニシヤ出版)などがある(写真:藤本夕衣)

藤本:そうですね。だからこそ「近代の大学」の理念、すなわち、大学は人間の理性に基づく真理の探究の場である、という理念の登場が重要になると言えます。さらにいえば、そうした真理の探究として大学を守るには、主に2つの条件があると考えられていました。

第一の条件は、「国家に庇護されつつも、国家から干渉を受けない場であること」であり、第二の条件は、「教員の研究と学生の学びが一致すること」です。これは「研究と教育の統合」という言葉で表現されます。

このように、大学は国からお金はもらうけれども、研究内容、教育内容、運営方法については口を出されない、ということが重視されていました。そして、それが認められていたのは、「ほかから干渉を受けることなく真理の探究を行う場が存在すること、それが社会の発展に寄与し、国家にとっても有益である」という共通理解があったからでしょう。

大学では、学校教育とは違って、教員が既存の知識を効率的に教えるのではなく、指導する側にも探究すべき問いがあります。だからこそ、その問いを深めていく研究のプロセスに学生もかかわることができ、学ぶことができる。真理を探究する場としての大学は、学問の自由、大学の自治が前提となって初めて成立するものだと考えられたわけです。

中野:国家の庇護を受けつつ国家の干渉を受けないというのは、まさに教会の姿ですよね。中世ヨーロッパでは教会だけでなく、「都市の空気は自由にする」というように、国王の権力に対する自治という概念が脈々と受け継がれていました。その意味では大学の自治という概念そのものが中世的要素を含んでいる。実際、「日本の大学は、封建主義的だ」などという非難をした財務官僚がいましたね。

信仰を失った知性は実利と効率にひれ伏す

佐藤:フランス革命以来、近代合理主義は「理性」を神の座に据えようとしてきました。1793年11月にはノートルダム大聖堂で、「理性の祭典」を実際にやったぐらいです。しかし「国家に庇護されつつも国家からの干渉は受けない」という姿勢は、社会契約論的な発想からすると理屈に合わない。社会的な権利は普通、義務を伴いますので「なぜ大学(人)だけ、そんな特権を享受できるのか? 根拠はいったい何なのだ!」となってしまう。

その答えは「国家は現世を支配するが、われわれは現世を超えた価値に仕えているから」以外にないでしょう。理性だけではダメで、やはり神が必要なのです。

藤本:実際、理性を核にした大学の理念は、1930年代には危機に陥ります。1933年にマルティン・ハイデガーは、フライブルク大学で「ドイツの大学の自己主張」という学長就任演説をしました。大学を自分たちの民族に資する場として位置づけ、ナチズムへの加担を宣言するような内容だととらえられていて、ハイデガー研究者の中でも悪名高いものです。

佐藤:それは必然の帰結です。合理主義・啓蒙主義に走り、神への奉仕を捨てたあとの大学自治の根拠は、藤本さんもおっしゃったように「国家の介入を拒否し、自由に研究活動を展開したほうが、国や社会に大きなメリットをもたらせる」とならざるをえない。政府とウィン・ウィンの関係を築くことで、特権を維持しようとしたわけです。


佐藤 健志(さとう けんじ)/評論家、作家。1966年、東京都生まれ。東京大学教養学部卒業。戯曲『ブロークン・ジャパニーズ』(1989年)で文化庁舞台芸術創作奨励特別賞を受賞。『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』(文藝春秋、1992年)以来、作劇術の観点から時代や社会を分析する独自の評論活動を展開。主な著書に『僕たちは戦後史を知らない』(祥伝社)、『右の売国、左の亡国』(アスペクト)など。最新刊は『平和主義は貧困への道』(KKベストセラーズ、9月15日発売予定)(写真:佐藤 健志)

しかしこれは「現世を超えた価値への奉仕」を、「現世的価値への効率的な奉仕」に置き換えている。国家は現世を支配する以上、こうなるとハイデガーへの道は不可避です。「学問が発展すれば、国も社会も発展する。大学自治が重要なのは、そのような発展を効率的に推進するためだ」と主張したら最後、国家の介入は(論理的に)拒否できても、国や社会、ないし民族への奉仕は拒否できません。

自発的に奉仕するから、奉仕を強制しないでくれと構えることができるだけ。ナチズムへの積極的加担こそ、大学の自己主張だという話になるのもうなずけます。

近年の大学改革も、実は同じ論理に基づいています。大学の存在価値は何か? 産業競争力を高めるような研究を行い、「グローバル人材」を育成することである。そうやって国の発展に貢献してもらうのだ。よって理系とビジネスの学部があれば十分、人文系はどうでもよろしい。ついでに講義はできるだけ、「世界語」たる英語でやるべし!

短絡的な発想ですが、現世的価値への奉仕をどこかで否定しなければ、これに対抗するのは無理。信仰を失った知性は、実利と効率という魔神の前にひれ伏すことになるのです。

藤本:佐藤さんの指摘は「科学」の限界をどう考えるのか、ということにつながりますね。フランスの哲学者ジャン=フランソワ・リオタールに『ポスト・モダンの条件―知・社会・言語ゲーム』という著書があります。これは、一般的には「ポスト・モダン」について書かれたものとして知られていますが、実は、大学論としても書かれたものです。

このなかでリオタールは、大学が科学を発展させる場であることに着目すると同時に、哲学が担ってきた役割にも注目しています。「科学の発展」が「社会や国家の発展」に結び付くということが自明視されるためには、それを結び付ける「大きな物語」が必要であり、その物語を紡いだのが哲学である、というのです。たとえば啓蒙思想が代表的なものでしょう。

ところが、科学が発展し、科学的な合理主義が肥大化していくと、科学を支えてきた「大きな物語」は、根拠に欠けた単なる寓話でしかない、ということが暴かれるようになる。科学が、自身の足場を切り崩し、哲学的な知が弱体化していった。そうした状況をリオタールは「ポスト・モダン」という言葉でとらえたわけです。そしてこれは、「近代の大学の理念の解体」のプロセスに関する説明にもなっています。

第2次産業革命が招いた大学の「変革」

中野:私見ですが、近代の大学が「科学の発展から社会の発展へ」というように変化してきた背後には、啓蒙思想の影響以外に社会的な要請があったと思います。

『富国と強兵』という本を書いていたときに感じたのは、「大学で研究するような基礎科学が国力や経済力にダイレクトに影響するようになったのは、第2次産業革命以降の話ではないか」ということです。

中野:第1次産業革命の頃はまだ、科学と産業は今ほど一体化してはいなかった。現場の発明家や技師が頭をひねって機械を改良していけば、原理的な研究はしなくても競争力が維持できたわけです。


中野 剛志(なかの たけし)/評論家。1971年、神奈川県生まれ。元・京都大学大学院工学研究科准教授。専門は政治経済思想。1996年、東京大学教養学部(国際関係論)卒業後、通商産業省(現・経済産業省)に入省。2000年よりエディンバラ大学大学院に留学し、政治思想を専攻。2005年に同大学院より博士号を取得。主な著書に山本七平賞奨励賞を受賞した『日本思想史新論』(ちくま新書)、『富国と強兵』(東洋経済新報社)、『TPP亡国論』『世界を戦争に導くグローバリズム』(ともに集英社新書)、『国力論』(以文社)など(撮影:今井 康一)

ところが第2次産業革命になると、そうはいかなくなってしまった。19世紀後半のドイツはイギリスにキャッチアップするために大学で実学を重視しました。化学あるいは経営や経済の研究を大学が中心になって進め、大学で研究していた科学者がそのまま民間企業に就職して、世界を制していく。アメリカでも重化学工業の発展と並行して、ドイツの大学のような大学が設立されていく。こうして19世紀の後半、イギリスの産業的優位はしだいに失われ、アメリカとドイツに追い抜かれていった。

それに脅かされたイギリスが、「このままではまずいぞ。オックスブリッジ流の古典教育だけではだめだ」となって、シドニー・ウェッブが1895年にLSE(ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス)を創設して、実学教育、実践教育を始めた。それが現在の欧米の大学につながっていくわけです。

つまり近代に入っても第2次産業革命までは、大学は依然として非常に中世的だったんですよ。そこに起きた第2次産業革命という変化が大学の変革を強いたのではないか。

大学とは1つの独立した世界であり、小宇宙だった

佐藤:20世紀半ば、ケンブリッジ大学で教えた文芸評論家のF・R・リーヴィスは、大学こそ「文明における創造性の中心地」たるべしと語りました。

大学を意味する英語「ユニバーシティ(university)」は、「賢者と、学びを志す者の共同体」を意味するラテン語「universitas magistrorum et scholarium」から生まれた言葉とされますが、「universitas」とは元来「全体性を持ったまとまり」のこと。

つづりが示すように、これは「世界」や「宇宙」を意味する言葉「ユニバース(universe)」とも通じます。大学とは1つの独立した世界であり、創造的探求を旨とする小宇宙だったのです。だからこそ、外部の介入を拒否することも許された。

ところが実学志向が強くなると、これが崩れてくる。LSEが創立される30年ほど前、アメリカではハーバード大学のすぐ近くに、理系中心のMIT、マサチューセッツ工科大学が作られました。しかしMITの正式名称は、マサチューセッツ・インスティテュート・オブ・テクノロジー。「ユニバーシティ」ではないんですよ。

佐藤:ですから「マサチューセッツ工科研究院」と訳してもかまわない。産業に直接的に寄与することを目的とした教育施設が、独立した世界、ないし小宇宙である必要はないんですね。MITとLSEは、近代社会における大学の変化を象徴する存在だと思います。

大学とは天才を飼っておく場所

中野:僕は研究機関としての大学は、効率性を求めるべき場ではないと思っているんです。


時間をたっぷり与えて「好きなことをやれ」と言われたら、ごく少数の、本当に学問が好きで、学問に優れた人間は、自分から勝手に優れた研究を始めるんですよ。文系の場合、お金すら大していらない。その研究はその時代には何も成果が出なかったとしても、30年後、100年後に価値が見いだされるかもしれない。

そういう人たちは権威主義も何も一切関係なくて、「とにかく研究させてくれ。研究費だけ出して、あとは放っておいてくれ」と、それだけ思っている。たぶんそういう人たちが世の中には必要なんです。好き放題にやれと言われて、100年後に認められるような成果を出す人間というのが、この世に0.003%ぐらいはいて、われわれ凡人は「そういう人間も必要なんだ」と寛容に認めなくてはいけない。

ではそういう人をどこに置いておくかといったら、大学ぐらいしかない。ほとんどの先生が趣味的な研究に没頭する役立たずで、学生はみな自由放任で遊んでいてもかまわない。そうでないと、凡人には理解しがたい偉業を成し遂げる0.003%の天才を活かすことができないから。大学とは本来、そういう非効率であるべき場だと思います。そういう天才のことが理解できない秀才の官僚やビジネスマンが大学を効率的に経営したら、天才たちは居場所を失うでしょう。

佐藤:大学でなくとも、かつてのベル研究所では、学生に「30年もかからない仕事には手を出すな」と教えたそうですね。となると一生かけても、できる仕事は1つか2つ。しかし、それこそ本物ではないでしょうか。

中野:かつてのベル研では、研究者に資金を渡して「好きなことをやれ」と言って、そこから画期的な成果が生まれていた。それが1980年代ぐらいから成果を求めるようになって、「ベル研は死んだ」と言われるようになってしまったそうです。

佐藤:SFや科学解説で有名なアイザック・アシモフは、凡人が天才の仕事を応援する最良の方法は、とにかく好きにやらせることだと言っています。文句もつけない、称賛もしない。どうせ自分の理解など超えているとわきまえて、放っておくのがいちばん賢い、と。

:私も賛成ですね。今も一部の優秀な、本当に学者に向いている人たちは、誰にも評価されないかもしれない研究を一生懸命やっています。そうした人に対して今の大学改革のように「効率化しろ」とか「目に見える成果を出せ」などと迫らないほうが、長い目で見るといい結果が出るだろうと感じます。

藤本:5年や10年といった短期間の「目に見える成果」が求められ続けているなかで、自然科学の基礎研究や人文学は危機的状況に置かれています。政府は、こうした危機についての認識が浅いのだと思います。