2018年5月23日、アメリカンフットボールの悪質タックル問題で、記者会見する日本大学の内田正人前監督(右)と井上奨コーチ(写真=時事通信フォト)

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「好きだったフットボールが、あまり好きではなくなってしまった」。日大アメフト部の悪質タックル問題で、反則を指示された選手は、記者会見でそう話した。名古屋大学の内田良准教授は「高校で運動部に所属していた生徒は、大学に進むと6〜7割が運動部から離脱してしまう。その原因のひとつは厳しすぎる指導にある。部活動の『持続可能性』を高めなければいけない」と警鐘を鳴らす――。

■中高の部活動にも共通の課題

日大アメフト部員による悪質タックル事件が起きてから、1カ月が過ぎた。

この問題では、日大の監督とコーチによる会見の内容と、タックルをした日大選手による会見の内容とがあまりに食い違っていたことから、監督・コーチの発言の矛盾点に注目が集まった。その一方で、部活動指導、スポーツ指導のあり方を問うところにまで、議論の射程は拡がっている。

つい先日のこと、公立校の退職校長に久しぶりに会って、意見交換をする機会があった。開口一番、その先生はこう語り始めた。

日大のアメフトのことなんですけど、あれ、中学校や高校の部活も同じだと思うんですよ。すべての教育関係者が、自分のこととして捉えなきゃいけないことです。監督の言っていることに従うべきという空気が支配的で、生徒は自分で考えるということもなく、受け身で動いていく。本当にそれでいいのか、と。

日大の内田監督と井上コーチがどこまで具体的に指示をしたかはともかくも、日大DL(ディフェンスライン)選手は関学QB(クオーターバック)選手を「つぶす」ために背後から突っ込んでいった。

自分で善悪を判断する力を失い、チームの使命である勝利のために、駒となって悪質タックルに及んだ。これは象徴的な出来事にすぎず、日本のスポーツ指導の現場において同様の空気が漂っているのではないかという問題提起である。

■関学アメフト部・鳥内監督の教育観

退職校長の語りを聴いたとき、私の脳裏には、関学アメフト部・鳥内秀晃監督の言葉がよみがえった。5月26日の会見において、記者から学生スポーツのあり方を問われた際の回答である。

恐怖の下、体罰の下でやって教育が成り立つかといえば、あり得ないと思います。これ、いろんな競技が今ありますけど、いまだにそういう体質でやっておられるところがあるんであれば、今こそ改革するチャンスではないかなと。これは小学校、中学校、高校と、みんな同じや思いますけど。(略)監督の意のままにやらなかったらすぐに怒られる。もう個性を伸ばすことできないですよね。結局、顔色を見ながらの人間になっていってしまうと。(5月26日、日大からの再回答書を受け取ってからの会見)

学生を統率するには、監督という立場上の優位性を利用して、学生を脅すのがもっとも手っ取り早い。だがこれでは、「教育が成り立つかといえば、あり得ない」。

教育は、考える力を伸ばす営みである。大学の活動としておこなわれる限りは、つねにそれが学生の成長にどのように貢献するのかが、問われなければならない。

こうしたスポーツ指導の考え方は、大学に限らず、中学校や高校の指導にも適用されるべきものである。そして鳥内監督の言葉を借りるならば、これほどまでに話題になった「今こそ改革するチャンスではないか」。

■「フットボールが、あまり好きではなくなってしまった」

今回の一連の報道のなかで、日大DL選手の「好きだったフットボールが、あまり好きではなくなってしまった」という言葉は、私自身一人の大学教員として本当に悔しい思いで受け取った。

部活動とは、中高だろうが大学だろうが、自主的な活動である(詳しくは拙著『ブラック部活動』(東洋館出版社)を参照してほしい)。授業とちがって、強制されるものではない。すなわち、基本的には自分がそれをやりたいから参加するのである。実際に日大DL選手も、高校のときにアメフトを始めて「とても楽しいスポーツだなと思い、熱中していました」と語っていた。

ところが、「大学に入って、厳しい環境といいますか、そういうもので徐々に気持ちが変わっていって」「好きだったフットボールが、あまり好きではなくなってしまった」という。そしてついには、「この先アメリカンフットボールをやるつもりもありません」(5月22日、日大DL選手の会見)と、競技生活からの離脱を決意するまでに至ったのである。

■「もう十分にやりましたから」

選手の成長を促すはずの部活動という教育活動において、その指導が厳しすぎるあまりに、選手が部活動さらには競技生活から離脱していく。はたして学生スポーツはこのままでよいのだろうか。

こうした事例は、日大DL選手だけに限らない。大学教員として、とても残念なことがある。それは、大学への入学者が部活動をつづけてくれないのだ。

全国大会を目指して熱中したはずなのに、大学ではもうつづけない。「せっかく頑張ったのに、もったいない」と嘆くと、「もう十分にやりましたから」と答えが返ってくる。もはや燃え尽きているようにさえ感じられる。

中学校や高校の先生は、部活動の意義をよくこんなふうに語る――「部活動の生徒とは卒業後も付き合いがつづくことが多いんですよ」と。生徒と教師との何にも代えがたい絆が醸成されるというのだ。

中高の先生にとっては、盛り上がって3年間を満足に終えることができれば、それでよいのかもしれない。だが、大学教員は、その残念な結末を目の当たりにするのだ。

■大学進学時に6〜7割が離脱

高校から大学に進学する際に、どれくらいの生徒が部活動から離脱するのか。その全国の実態はよくわからないものの、いくつかの調査結果から実態の一端をつかむことができる。

九州大学における2015年6月の調査では、体育の授業に参加した1年生のなかで、高校時代に運動部に所属していた535名のうち、大学でも運動部に所属しているのは209名(39.1%)である。大学に入った時点で、約6割は運動部から離脱している(須崎康臣・入部祐郁・杉山佳生・斉藤篤司、2016、「大学における運動部の実態調査」『健康科学』第38巻:33−41頁)。

また、やや古い調査ではあるものの、関東圏の4大学(千葉大学、帝京大学、青山学院大学、東京工芸大学)で2002年7月に1年生を対象に実施した調査(有効回答数604)では、高校時代に運動部に所属していた者のうち30.9%が、大学に入ってからも運動部に加入したという。ここでは約7割の離脱が認められる(浪越一喜・藤井和彦・谷藤千香・井崎美代、2003、「運動部活動経験が大学生のスポーツ生活に与える影響」『千葉大学教育学部研究紀要』第51巻:129−136頁)。

高校では運動部に所属していたものの、大学に入学するや6〜7割が運動部から離脱していく。高校生のスポーツ活動は、持続可能なものではなく、大学入学時に途切れてしまうのだ。

■部活動の持続可能性(サステナビリティ)

せっかく学校で経験し夢中になったのであれば、それを一生涯のものにしていくことが望ましい。すなわち、部活動の「持続可能性」(サステナビリティ)を高めなければならない。

それは必ずしもスポーツ活動の拡大や充実を目指すというわけではない。拡大や充実はともすれば過熱となって、その参加者を疲弊させたり、活動の目的を見失わせたりする。そうではなく、とりわけ教育機関においては、長期的なスパンでスポーツ活動にたずさわれるような指導の構築を目指す。

今回の悪質タックル事案で、唯一希望がもてたのは、日大DL選手に対して非難以上に、その境遇を思いやるコミュニケーションがとられていることである。それには、同選手が事後において誠実な態度を示したことにくわえて、学生という教育すべき対象とみなされていることが深く関わっている。

そうしたまなざしが、スポーツの指導現場にもっと注がれるべきである。中高さらには大学も、教育活動の場である。選手自身を「つぶす」のではなく、成長させていく「持続可能な」あり方への転換が急務である。

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内田 良(うちだ・りょう)
名古屋大学大学院 教育発達科学研究科 准教授
1976年生まれ。名古屋大学大学院教育発達科学研究科博士課程修了。専門は教育社会学。ウェブサイト「学校リスク研究所」を主宰し、また最新記事をYahoo!ニュース「リスク・リポート」にて発信している。著書に『ブラック部活動 子どもと先生の苦しみに向き合う』(東洋館出版社)、『教師のブラック残業 「定額働かせ放題」を強いる給特法とは?!』(学陽書房、共著)、『教育という病 子どもと先生を苦しめる「教育リスク」』(光文社新書)、『柔道事故』(河出書房新社)などがある。ヤフーオーサーアワード2015受賞。Twitterアカウントは、@RyoUchida_RIRIS

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(名古屋大学大学院 准教授 内田 良 写真=時事通信フォト)