2011年8月10日、U-22国際親善試合にサッカー日本代表として出場した山田直輝選手。(写真=アフロスポーツ)

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高校3年生のときにJリーグデビューを果たし、18歳でサッカー日本代表に選ばれた山田直輝。だが相次ぐ怪我に悩まされ、所属する浦和レッズでも控えが続いた。意を決した山田は、24歳のときに10年以上を過ごした浦和レッズを離れ、湘南ベルマーレに期限付き移籍をする。そこで出会った指揮官・貴裁(チョウ・キジェ)が山田の運命を変えた。監督の起こした「奇跡」とは――。

※本稿は、貴裁『育成主義』(カンゼン)の一部を再編集したものです。

■将来を嘱望された天才MFの苦悩

毎年のように出会いと別れが繰り返されてきたなかで、再びJ1の舞台に戻った15年シーズンには、日本代表でプレーした経験をもつMF山田直輝を期限付き移籍で獲得した。強化部へ獲得を進言したのは、実は僕だった。

14年シーズンの途中にさいたま市の大原サッカー場でレッズと練習試合を行ったときに、リハビリトレーニングに取り組んでいた山田を偶然見かけた。

「まだけがが治らないのか」

こう話しかけた僕は、山田のことをレッズのジュニアユース時代から知っていた。ベルマーレのジュニアユースおよびユースの監督として対峙したこともあれば、トレセンで実際に指導したこともある。どのような性格なのかも、ある程度はわかっていた。

「大変だな。またお前の楽しそうなプレーを見せてくれよ」

ちょっとだけ話した後に、激励の言葉をかけてその場は別れた。当時の心境を振り返れば、少なからずショックを受けていた。僕が知っている山田とは、表情がまったく違っていたからだ。過激かもしれないが、死んでいるかのようにかつての輝きが失われていた。

■サッカーをしていても、まったく楽しそうじゃない

断りを入れられるかもしれない、と頭の片隅で思いながらも強化部からオファーを出してもらった。しばらくして、山田と直接交渉できる場が設けられた。都内のホテルで、14年シーズンは2試合、わずか15分間の出場にとどまっていた山田は「自分を変えたいんです」と思いの丈を伝えてきた。

期限付き移籍が正式に決まったのはその年の12月上旬だった。19歳になる直前に日本代表でデビューを果たし、近い将来はレッズと日本代表の中心になる、ヨーロッパで活躍すると期待された時期もあっただけに、期限付きとはいえレッズを離れることはメディアでも大きく報じられた。

年が明けて、新チームとして最初の練習を行った1月中旬に、僕は別の意味で再びショックを受けた。馬入ふれあい公園サッカー場のピッチで、失敗を恐れていたからか、山田はボールをもらおうとしなかった。何よりもサッカーが大好きなはずなのに、まったく楽しそうじゃなかった。

予想を上回る重症だと思わずにはいられなかった。1年目は17試合、出場時間は599分と前年よりは増えたものの、自分が思うプレー、やりたいプレーをピッチのうえでほとんど表現できなかったはずだ。

期限付き移籍を1年間延長した16年シーズンも、小さなけがが繰り返された。ようやく試合に絡める状態になったのは、セカンドステージも残り数試合になったころだった。11月3日に行われた名古屋グランパスとの最終節ではシーズン初ゴールを、それも2つも決めた。

1点目はミドルレンジから迷うことなく左足を振り抜き、2点目はDF田中マルクス闘莉王(現京都サンガFC)を吹き飛ばしてボールを奪い、角度のないところから右足で逆サイドのネットに突き刺した。いずれもアイデアとセンス、力強さが融合されたファインゴールだった。

■山田の価値観に対し、何度も「それは違う」と言った

シーズンの終盤になって調子が上向いてきた流れと、ベルマーレがJ2へ降格したこととが相まって、山田は2度目の延長を決めた。

プロになって9年目の山田にとって、J2の舞台でプレーするのは初めてだった。開幕から先発としてピッチへ送り込んだが、前半戦は後半の途中で、それも早い時間帯でベンチへ下げることが多かった。試合の流れのなかで、いわゆる消えてしまう時間帯が少なくなかったからだ。

15年シーズンから山田と向き合ってきた日々を振り返れば、正直、予想していたよりもかなり長い時間がかかったと思う。治療法と言うと大げさかもしれないけれども、サッカーを楽しむマインドを取り戻させるために施したアプローチは数え切れなかったと言っていい。

僕から言葉を投げかけることもあれば、あえて無視することもあった。いろいろな映像を見せたこともあれば、たとえ試合で使っても本来の攻撃的MFやシャドーとは違うポジションを命じたこともあった。

当時の山田が思い描いていた理想のサッカーを海外のクラブにたとえれば、FCバルセロナかアーセナルとなるだろうか。ボールをはたきたいからここにパスを出せという山田の価値観に対して、何度「それは違う」と言ったことか。

ゴールを奪うことよりも自分が望むプレーが優先され、結果としてゴールが取れればいいという思考回路を、さまざまな方面からアプローチしてあらためさせた。現在のボルシア・ドルトムントやリバプールのように、ゴールへ向かう姿勢が何よりも大事なんだと。ゴールへ向かう選手がチームにとって大事なんだと。

■「信じて、やらせて、待つ」の精神が何よりも必要

治療に時間はかかっても、それでも僕は絶対にあきらめなかった。山田に限らず、そのシーズンに預かったすべての選手に対して「ダメだ、こいつは」と思ったことは一度もない。ジャンルに関わらず、スポーツの指導者には「信じて、やらせて、待つ」の精神が何よりも必要だからだ。

とにかく相手を信じて、まずはやらせてみて、結果がどうであれ待ってあげること。根気がなければ、指導者など務まるはずがない。チームのなかには「直輝ってミスをしても、監督から重用されるよね」と思う選手がいても、しかたがないことだと僕は考えていた。

あるいは「直輝と同じくらいチャンスをもらえれば、オレもやれたのに」と思う選手もいたかもしれない。僕自身、誰に対しても誠意と公平さを貫いた自信は正直持ってない。僕の選択だし、最終的には監督である僕が責任を持つわけだから、誰に何を言われる筋合いもないとある意味で開き直ってもいた。

一方ではこう考えてもいた。山田が変わっていくことは、他の選手たちにとって最終的にはプラスになると。実際にそう言ったかどうかは別にして、同じくレッズから期限付き移籍中で、山田をよく知るDF岡本拓也が「昔に比べると、直輝君はすごく変わった」と言えば、周囲にはるかに影響を及ぼすからだ。

■勝利の責任を負うということ

見た目にはっきりと山田が変わってきたのは、昨シーズンの夏場を前にしたころだった。ピッチのうえでまったく足を止めない。消えてしまう時間帯がほとんどなくなり、いたるところに絶えず顔を出し、1試合の総走行距離も多いときで13キロ近くに達するようになった。

治療の効果がようやく出てきたと、思わずにはいられなかった。ゴールをいくつ取ったとか、アシストをいくつ決めたという問題ではない。とにかく走るようになったし、守備で生じるスペースを誰よりも先に埋めようと、ディフェンスでも率先して頑張るようになった。

しかも、自分が評価されるためではなく、チームのために走っている、という献身的な思いがベンチにもひしひしと伝わってきた。そういうほうがはるかに楽しいことに、ようやく気がついたと言っていい。待望の第一子となる長女が16年の夏に生まれ、守るべき家族が増えたこともプラスにはたらいたはずだ。

楽しそうにプレーするということは、何も自由奔放さがベースとなるわけではない。ベルマーレでもレッズでも、あるいは他のチームでも求められる確固たるものがあるなかで、楽しさを表現していかなければいけない。

■プロとして生きていくうえで人生設計が甘かった

ならば求められるものとは何か。答えはメディアを通じてよく見聞きするようになった、山田のこんな言葉のなかに見え隠れしている。

「これだけ多くの試合に出させてもらっていると、チームが勝利することへの責任とは、こんなにも重たかったのかと感じている」

あえて厳しい見方をすれば、責任を感じるのが遅いと言わざるを得ない。昨年7月で27歳になった。J1の舞台で中心になって輝かなければいけない年齢であり、精神的な部分における準備が足りなかった、プロとして生きていくうえで人生設計が甘かったことが理由となる。

だからといって、27歳になる年でもう遅いとあきらめるのか。あるいは、いまからでも変われると一念発起するのか。考え方次第でまったく変わってくるし、実際、山田は後者を選んで再びスタートラインに立った。

昨シーズンの山田は最終的に39試合に出場し、プレー時間は3030分に達した。夏場以降はフル出場する試合も多くなった。

それまでの自己最多がプロ契約を結んだ09年シーズンの20試合、1365分だったから、スタートラインからさらに前へ飛び出したと言ってもいい。ただ、忘れてはいけないのは、昨シーズンの舞台がJ2だったことだ。

■成長した新しい自分でもう1度チャレンジしたい

シーズン最後の練習を終えた12月3日の午後。例年行う解団式で、山田のレッズ復帰が発表された。挨拶した山田は感極まって泣いていた。4日後にクラブを通じて発表されたリリースには、山田の偽らざる思いが綴られていた。

「この3年間は僕にとってかけがえのない時間でした。そんな時間を過ごした仲間、サポーターとの別れは、僕が決断したことではありますが本当に辛いです。それでも、湘南で成長した新しい自分でもう1度浦和でチャレンジしたい、湘南スタイルで輝きたい。わがままなのはわかっています。でも行きたいんです、行ってきます」

十代から将来を嘱望されながら大けがを繰り返した不運があり、山田自身の努力や準備不足もあっていつしか試合に出られなくなった。おそらくベルマーレに来たときには1年で再生して、と思っていたはずだけれども、幸か不幸か3年間も在籍することになった。

レッズから戻って来いと乞われ、山田自身も再チャレンジしたいと望んだことは、復帰が決まった後では美談のように聞こえるけれども、実際にはどちらにいくかわからなかったし、未来のことは当然、誰にもわからない。

■「いまこのタイミングで戻らなければ後悔する」

それでも、解団式で「いまこのタイミングで戻らなければ後悔する」と口にした山田の言葉に嘘はないし、山田の表情を少しは昔の、僕がよく知っていたころのそれに戻せたかなと思えることはやはりうれしい。

ただ、解団式では僕も涙腺を緩ませたものの、山田のレッズ復帰に対してはいっさい言及しなかった。ベルマーレの監督という立場で見れば戦力を失ったことになるし、僕が何かを言えば、復帰か完全移籍での残留かで逡巡していた山田の背中を最後に押したと映るかもしれないからだ。

敵味方として顔を合わせる新シーズンの開幕を前にして、言えることがあるとすれば山田の決断を応援したい、3年という時間を一緒に戦った仲間たちも誰一人として、山田の選択に不平不満を唱えていえない、ということだ。そして、勝負はこれからだともエールも送りたい。

勝利への責任をすべて背負ってプレーしたときに、変わったと言われるのか。やっぱりレッズに戻るとダメなのかと言われるのか。成長したとレッズに関わるすべての人たちから認められるように、自信を抱きながら、心身両面でたくましくプレーしてほしいと思っている。

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 貴裁(チョウ・キジェ)
湘南ベルマーレ監督。1969年1月16日、京都市生まれ。京都府立洛北高校、早稲田大学を経て、日立製作所本社サッカー部(のちの柏レイソル)、浦和レッズ、ヴィッセル神戸に所属し、Jリーグ通算70試合に出場。2012年に湘南ベルマーレの監督に就任。チームを3度のJ1昇格、2度のJ2優勝に導き、就任7季目となる18年はJ1での戦いに挑む。著書に『育成主義』『指揮官の流儀』がある。

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(湘南ベルマーレ監督  貴裁 写真=アフロスポーツ)