庄内藩の最強伝説を支えた酒田の豪商、本間家の門構え(郄橋義雄 / PIXTA)

戊辰戦争といえば、薩摩・長州(薩長)など「官軍」の一方的な勝利というイメージを持たれる方が多いことだろう。会津藩(福島県)以外の奥羽越列藩同盟軍は大した抵抗を見せることなく降伏した……と。
だが実際は、同盟軍は一方的に負けていたわけではない。前回(反薩長の英雄「河井継之助」を知っていますか)紹介した長岡藩(新潟県)のほかにも、庄内藩(山形県)は「官軍」を寄せつけず、薩摩兵と互角に戦って勇猛さを見せた。にもかかわらず、「薩長史観」(なぜいま、反「薩長史観」本がブームなのか)では、故意に無視されてきたと歴史家の武田鏡村氏は語る。
『薩長史観の正体』を上梓した武田氏に、知られざる「庄内藩」の強さについて解説していただいた。

テロの基地となった薩摩藩邸を焼き討ち


惨憺(さんたん)たる会津戦争の実態は多くの史書に残されているが、「薩長史観」では語られることが少なかった庄内藩の奮戦をご紹介したい。

酒井忠篤(ただすみ)を藩主に仰ぐ庄内藩(鶴岡藩ともいう)は14万石(戊辰戦争時は17万石)の譜代大名で、外様大名が多い奥羽地方にあって会津藩とともに徳川家に忠誠を尽くす藩とされていた。

庄内藩は、江戸市中取締役となったときから、薩摩と反目する関係にあった。

薩摩は西郷隆盛の指令で江戸市中を騒擾(そうじょう)化して「薩摩御用盗(ごようとう)」といわれる略奪と放火を繰り返した。それを取り締まり、薩摩藩邸を焼き討ちにしたのが庄内藩である。

薩摩は庄内藩を逆恨みして、奥羽鎮撫軍(新政府軍)を差し向けた。薩摩藩士の下参謀大山格之助が副総督の沢為量(ためかず)を伴って、いち早く新庄に進んだのは庄内を討伐するためであった。

奥羽(東北)の戊辰戦争で初めて戦火が交わされたのが、庄内兵と薩摩兵・新庄兵が対戦した清川の戦いである。初めは薩摩兵が優勢であったが、支藩の松山藩や鶴岡城から出兵して来た援軍で薩摩兵を撃退した。

庄内兵は天童を襲って新政府軍を追い払い、副総督の沢為量は新庄を脱出して秋田に向かった。さらに庄内兵は、新庄、本荘、亀田を攻めて無敵を誇った。

庄内兵の奮戦を支えたのが、酒田の豪商本間家である。本間家は北前船(きたまえぶね)を使った廻船で莫大な富を築き、酒田周辺の大地主になっていた。開戦当時の6代光美(こうび)は、庄内藩に5万両の武器弾薬を提供している。一説では総額十数万両を藩に献納したという。

庄内兵は、7連発のスペンサー銃などの最新式の銃砲や大量の弾薬を手にした。近代兵備を装備し訓練された強力な軍隊だったのだ。

また、新政府軍との戦いで庄内藩は最終的に4500人の兵を動員しているが、そのうち2200人が、領内の農民や町民によって組織された民兵だったという。このような高い比率は他藩では見られないもので、領民と藩との結び付きが強かったことがうかがわれる。

国際法を知らなかった新政府軍

新庄藩を攻め落とした庄内兵は、やはり新政府軍に与(くみ)した秋田藩にまで攻め込んでいる。

内陸と沿岸の両方面から秋田に攻め入り、「鬼玄蕃」と恐れられた中老酒井玄蕃が率いる二番隊を中心に連戦連勝で、新政府軍を圧倒した。

秋田藩は古風な出陣ぶりで、従者に槍(やり)や寝具などを持参させていた。このため新政府軍の総督府から、無益の従卒を召し連れて出軍して機動力を欠いていると叱責されている。

また、秋田藩はアメリカ軍船を購入したが、これにロシア国旗を掲げて庄内の鼠ヶ関(ねずがせき)に接近して砲撃を加えた。庄内藩が直ちに箱館(函館)にいるロシア領事に抗議するという事態になった。秋田藩の国旗偽装は国辱的な行為で、これを見逃していた新政府軍の国際感覚が疑われても仕方のないものである。

新政府軍は外国軍に協力こそ求めなかったが、坂本龍馬が熟読し、幕府の海軍が遵守した国際法「万国公法」に通じていなかったのである。

会津藩降伏の4日後に降伏

庄内藩は、しだいに同盟諸藩が新政府軍に恭順・降伏していくと、孤立を恐れて秋田戦線から退却する。庄内藩が降伏したのは会津降伏の4日後、明治元(1868)年9月26日のことで、奥羽では最後に新政府軍に屈している。勝ち戦続きで、領内への侵攻を許さなかった末の恭順である。

庄内藩は果敢に新政府軍に挑み続け、ついには降伏したわけだが、新政府軍の報復に慄(おのの)いた。ところが、思いがけず西郷隆盛(南洲)の寛大な処置を受ける。これに感謝して、後に庄内に南洲神社まで造られている。

だが西郷は、東北方面の戊辰戦争ではほとんど出番がなく、ようやく庄内に着いたときには戦いが終わっていたというのが実情であった。しかも多額の戦後賠償金をせしめることができたのであるから、寛大に振る舞ったのではないだろうか。

なお、この戦後賠償金は、本間家を中心に藩上士、商人、地主などが明治新政府に30万両を献金したものである。

ちなみに、会津藩は23万石から3万石と大幅に減封された。そして、不毛の地・斗南(となみ)に追いやられ、藩士やその家族は地を這う生活を強いられた。実質的に会津藩は解体されたといってもいいだろう。

だが、庄内藩は17万石から12万石に減じられただけであった。一時は会津、平と転封を繰り返したが、先述の戦後賠償金や領民の嘆願により明治3年(1870年)に酒井氏は庄内に復帰した。

ここでも庄内藩は、領民たちの尽力により救われたわけである。ちなみに天保11年(1840年)にも、幕府による領地替えの計画が持ち上がったが、領民の嘆願により取りやめになった経緯がある。

こうした領民との結び付きといったソフトパワーの面からも、庄内藩は「最強」だったといえるのではないだろうか。