「自分で自分を治めなさい」とこまかな校則を定めていない女子学院(筆者撮影)

名門進学校で実施されている、一見すると大学受験勉強にはまったく関係なさそうな授業を実況中継する本連載。第15回は東京都千代田区の女子中高一貫校「女子学院」を追う。

「聖書」と「礼拝」が教育の両輪


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初代院長・矢嶋楫子は「あなたは聖書をもっています。だから自分で自分を治めなさい」と生徒たちに諭し、校則を設けなかった。女子学院は現在、女子校の中では飛び抜けて自由闊達な校風の学校として知られており、制服はない。

「女子学院の教育の両輪」ともいえるのが毎朝の「礼拝」と週1回の「聖書」の時間だ。聖書の時間といってもキリスト教信者になるための教育ではない。

「あくまで科目としての授業です。数学や英語と同じように、100点満点の定期テストがありますし、そのための勉強もしてもらいます。暗記しなければならない基礎知識も非常に多い。基礎知識とは、自分の頭で考えるための土台です」と聖書科の魚屋義明教諭は言う。

中1の「聖書」の授業を見学した。授業の様子の一部をリポートする。


まるで世界史の授業のように進んでいく、「聖書」の授業(写真:女子学院提供)

「聖書」の教員を打ち負かす強力な誘惑とは?

「キリスト教における『罪』についてまとめた人がいます。この名前覚えるよ。アウグスチヌスです。みんな歴史でローマ帝国のこと勉強した?」

「ちょっと」

「ちょっとか。じゃあね、いずれこれやるから。ローマ帝国の最初の皇帝は、アウグストゥスといいます。この人たち兄弟じゃないよ。時代が全然違うので、区別してくださいね。アウグストゥスは紀元前27年に皇帝になった人です。アウグスチヌスは4世紀後半の人です。なので、これは別の人って押さえたいんだな。アウグストゥスの本名知っている人いる? オクタヴィアヌスっていいます。シーザーの養子なんです。皇帝になってアウグストゥスと呼ばれるんです。そしてアウグストゥスのときにあの人が生まれるんだ。誰? イエスです」

聖書で大事なのはアウグスチヌスのほうである。アウグストゥスは、少なくとも今日の話には関係ない。しかし、世界史において、中学生が混乱しやすいところを、あらかじめ指摘しておく。

「アウグスチヌスのほうに戻っていい? アウグスチヌスはキリスト教の罪だけじゃなくて、キリスト教の教えの内容をまとめた人なんです」

板書はまるで世界史の授業だ。

「ひどい言い方をするとね、イエスは、言いたいことを言って、やりたいことをやって、殺されてしまったんですね。キリスト教という宗教をまとめたのは誰かというと、この人なんです。違う時代に、もう1人いるんですけどね。誰? パ……」

「パウロ」

「そう。ブッダも同じで、その教えを仏教という形にまとめたのは、弟子たちですよね。アウグスチヌスがまとめた教えの内容のことを教義といいます。イスラム教に教義はある? あるよね。仏教に教義ある? あるよね。たとえば、さっきのキリスト教における『罪』ですが、アウグスチヌスはこれをどう説明したかというと、こう説明しました」

板書しながら言う。

「人間は生まれながらにして罪人です。罪がある。この罪ってどんな罪? 道徳的・宗教的罪だよね。このことを漢字2字で表現しました」

「原罪」

「そのとおりです。よく知ってるね。さらにね、人間は神様に、特別な恵みで赦してもらっています。その特別な恵みのことを日本語では恩寵というのだけど、英語のほうが有名です。アメ……」

「アメイジング・グレース」

「そうだね。これもアウグスチヌスの言葉です。もう一つ。アウグスチヌスは『告白』という本を書いています。大人になったら読んでみて。この人ね、死んでから1600年とか経っている日本の教科書に出てくるくらい有名な人なんだけど、若いときはひどかったんだ。したい放題、やりたい放題、遊びまくりみたいな(笑)。それがどうしてキリスト教徒になり、こうなったのかということを告白しているんだ」

続いて、「主の祈り」にある「我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」という言葉から「こころみ」に注目する。

「こころみ」とは「試練」または「誘惑」の意味を表す。そしてここで魚屋教諭は、「誘惑」という概念について自らの例を持ち出して説明する。

「基本的に私たちはみんな誘惑には弱いですよね。先週の土曜日ね、僕は誘惑に負けました。僕ね、ときどきこの誘惑に負けるんですよ」

聖書の先生がどんな誘惑に負けるのか、生徒たちはわくわくしながら身を乗り出す。そして、魚屋教諭はくるりと黒板に向かい、「柿ピー」と書く。教室が沸く。

「わかる〜!」

コンビニに立ち寄り、そこで柿ピーに誘惑される。まんまと誘惑に負け、買って帰る。さらに封を開け、食べ始めると止まらなくなる。食べ過ぎるとお腹が気持ち悪くなることは経験上わかっているのにやめられない。それも誘惑に負けているということ。

「みんなもわかると思うけど、誘惑が2種類あるんですよ。柿ピーが俺を誘うんだ。それから心の中でも『食っちゃえよ』って誘うんだ。怖いね。誘惑は外からも内からも起こってきます。誘惑については中2で詳しく勉強しよう」

聖書の時間はあくまでも基礎知識を学ぶ時間


礼拝の時間は、自分に対する深い洞察を得る時間(写真:女子学院提供)

「他の学校の先生からは聖書の時間になんでもっと考えさせる時間を与えないのか、なぜもっとディスカッションをさせないのかと聞かれることがあります。でもその答えがまさに礼拝なのです。聖書の時間はあくまでも基礎知識を学ぶ時間。それをもとにして深く考えるのが礼拝の時間です」と魚屋教諭。

上級生に意見を言えてこそ女子学院生

聖書の授業は、世界・人間に対する広い視野を養う時間。礼拝の時間は、自分に対する深い洞察を得る時間。

聖書と礼拝の両輪がバランスよく回転することで女子学院の教育は前に進む。その意味で、女子学院の教育には3つのマイルストーンと呼べる行事がある。中2の「ごてんば教室」、高1の「ひろしまの旅」、高3の「修養会」だ。

「ごてんば教室」は女子学院の「入口」といわれている。毎年テーマを決めて、2泊3日の時間をかけてグループディスカッションをくり返す。最後は「全体会」という場で意見をぶつけ合う。

「ごてんば教室を経験すると、ただ感情を吐き出すのでも思いつきを言うのでもなく、相手の意見を取り入れて自分の中で咀嚼して自分の言葉で相手にわかりやすいように伝える技術が身に付きます。ごてんば教室を経験すると、上級生にも臆することなく自分の意見を言えるようになります。それができて初めて女子学院生であると認められます」と図書館司書の梶原恵理子教諭。自身も女子学院の卒業生だ。

「ひろしまの旅」は広島平和記念資料館などを訪れるだけでなく、広島で平和について考え、ディスカッションを重ねる行事。高3の7月に実施される「修養会」は6年間の女子学院生活のクライマックスといってもいい。「ごてんば教室」と同様の形式で実施される。ただし4年前とはレベルが格段に違う。受験勉強の天王山に差し掛かろうというタイミングだからこそそこで、自分がどこに向かっているのか、なぜ勉強しなくちゃいけないのかを見つめ直すのである。

聖書と礼拝の時間だけでなく、女子学院でのすべての授業が、この3つの行事のためにあるといっても過言ではない。


全学年からの希望者が参加する「春の修養会」(写真:女子学院提供)