高齢期を左右する「孤独を楽しむ力」/川口 雅裕
高齢者の孤独がよく問題になる。しかしそれが、単に高齢者が一人でいる状態を指しているなら問題ではない。一人でいるのは嫌な人と一緒にいるよりも良いし、読書などを趣味にする人にとって有意義な時間であるからだ。仕事だから嫌でも付き合っていた人と会わなくてよくなった、余計な近所付き合いで気を使う必要がなくなった、意味のない会話や無駄なおしゃべりを頑張ってしなくてもよくなった、と思って一人で気楽に暮らしている高齢者はたくさんいる。なのに「孤独で可哀想だ」と勝手な判断をし、関わろうとしたり、どこかに連れ出そうとしたりする人がいるが、大きなお世話で、場合によっては苦痛を与えかねない。
そもそも、「孤独を楽しむ」「孤独を愛する」という言葉があるわけで、孤独を一概にネガティブに捉えるべきではない。一人だからこそ自分自身や自然と向き合い、深く思考して新たな気づきを得たり、心のやすらぎを覚えたりできる。他人といれば多かれ少なかれストレスになるが、一人でいればそれもない。だから、時には敢えて世間から離れたところに自分を置きたいと思う。誰しも、何もせず誰とも話さない時間が欲しくなるのは、どこかで孤独を欲しているからだ。現役時代にはなかなか孤独になれないのだから、孤独は高齢期の喜びの一つと言ってよいはずである。スウェーデンの社会学者のトルンスタムも、高齢者がそれまでの合理的・自己中心的な思考から解放され、衰えや孤独を受け入れるようになる傾向を「老年的超越」と名付け、高齢期の幸福感につながると指摘している。
したがって、孤独を楽しんでいる高齢者は、放っておいて差し上げるのがよい。高齢者が一人でいて会話や外出の機会が減ると、刺激が減るから認知症になりやすいという話もあるが、孤独をかこつばかりの人と同列に扱うべきではない。孤独を楽しめる高齢者は、会話せずとも外出しなくても十分に頭脳を使っているだろうし、肉体的な衰えに対して最低限のケアが要るだけで、会社や仕事、子育てや家事、その他の雑事がなくても主体性を持って暮らしていける、誰かや何かに依存していない自立した人々だからである。
孤独を楽しむには、他者から与えられる場や役割や課題を待つのではなく、自らそれらを作り出して自律的に取り組む力が要る。高齢期には、他者から委ねられる「やらざるを得ないこと」が次々になくなっていく。なのに、「やりたいこと」がないから時間を埋められない、埋めようにもどうしていいか分からない・・。孤独を楽しむ力がないと、こんな状況になってしまう。要するに、問題は、「孤独を楽しむ力」がないままに高齢期を迎えてしまうことだ。降ってくる仕事や所属する組織、関わり世話をしてくれる人達に依存しつづけ、かつその依存状態に対する自覚もないまま(孤独というものに対する想像を欠いたまま)に高齢期を迎えてはならないということである。
今後を考えると、次世代が「孤独を楽しむ力」を身に付けることが重要だ。肉体的衰えは支え助けてもらえるとしても、孤独という精神的な部分くらいは自分で何とかしないと、さらに次の世代に申し訳ないことになってしまう。高齢期の孤独を具体的に想像し、このままでは孤独を楽しめないと気付かせ、孤独を楽しむ力や方法を検討するような教育プログラムがあってもよい。会社に所属し、それなりの仕事があり、家事や子育てにも便利なサービスが沢山あり、社会システムも整備されてきた結果、次世代は今の高齢者の現役時代に比べて依存度が格段に高いようにも思える。次世代がこのまま年をとると、高齢期の孤独は耐えがたいものになるかもしれない。