中国・習主席、文革で迫害死の劉少奇主席の息子、劉源大将とは「阿吽の呼吸」
中国の大手ポータルサイト「新浪網」は23日、中国人民解放軍の劉源大将を大きく紹介する記事を掲載した。劉大将は文化大革命中に迫害死した劉少奇主席の子息。軍内における「腐敗撲滅」に携わり、複数の指導層を失脚に追い込んだとされる。新浪網は、習主席が劉大将ならば「語らずとも阿吽の呼吸だ」と話したことがあると紹介した。
文化大革命のきっかけは、毛沢東が主導して経済を大混乱させ、2000万-5000万人の餓死者を出したとされる大躍進政策(1958-61年)だ。毛沢東は責任を取り国家主席を辞職(共産党主席、中央軍事委員会は留任した)。経済の立て直しに尽力したのは、後を次いで国家主席に就任した劉少奇と共産党中央書記処総書記だったトウ小平だった。
しかし毛沢東は、市場原理を取り入れた経済政策を「右翼日和見」と批判。「飢えた人同士が食らいあっている」現状を何としても打開しようとした劉少奇に対し、権力奪還を目的に、大衆運動の手法による文化大革命を発動した(1966年)。
劉少奇は失脚し、監禁され日常的に暴行を受けた。発病したため病院に移送されたが、医療スタッフにも暴行されたという。
劉源大将は父親の失脚により、10代半ばで山西省に下放された。農作業や工場労働に従事した後、文革終了後の1977年に北京師範大学歴史科に入学した。その後は、河南省の農村部の県長、同省鄭州市副市長、河南省副省長を経て、武装警察部隊に入隊。同隊副政治委員などを経て、中国人民解放軍に転任し、2003年からは総後勤部副政治委員を務めている。行政官から軍高級幹部との経歴は、かなり異色だ。
劉大将の軍内における「腐敗撲滅」としてまず際られているのがた谷俊山中将との対決だ。劉大将は2011年11月に開かれた中国共産党中央軍事委員会の拡大会議で、谷中将が北京市内で築いた豪邸の「将軍府」の写真を暴露。装備調達や人事関連で巨額の賄賂を受け取ってきたと論じた。
同会議には100人近くが出席しており、谷中将の汚職問題は軍にとって「避けては通れない」懸案となった。劉大将は続けて、徐才厚、郭伯雄、梁光烈三の中央軍事委員会副主席や委員にも問題があると指摘。対決を続けた。
現在までに、谷俊山、徐才厚、郭伯雄については有罪が確定した(徐才厚はその後、病死)。
劉将軍は、解放軍の腐敗は非常に深刻で、「軍の存亡の問題だった」と説明。「私は殺されても(相手をつかんだ)手を離さないつもりだった」などと述べた。一方で、軍首脳部の腐敗を摘発できたことは「習近平主席に胆力や責任感がなかったら、軍を救うことはできなかった」と、当時の習主席の決断を称讃した。
なお、2012年には劉大将の乗る車が高速道路で炎上したり(運転手は死亡)、ホテルの部屋に焼夷弾が投げ込まれる、銃撃される、浴室がガス爆発するなど、暗殺未遂事件が連続して発生したとされる。
習主席も劉大将も、父親が党の最高指導層にいたため、いわゆる「太子党」に分類されることがある。しかし、この2人が違っているのは、地方の末端に近い行政組織からキャリアをスタートさせたことだ。周囲の引立てで順調な人生を歩むことが多い「太子党」の中では珍しい。
習主席は福建省長を務めていた2000年に、取材に対して「あの自分、北京から地方に行った人としては、劉源と私がいる。だから私たちは語らずとも阿吽の呼吸だ。労働者や農民と結びついた道を歩まねばならないと分かっている。社会の底辺の群衆に近いということは、人を最も磨いてくれることです」と述べたという。
なお、劉源大将の現在の地位は、胡錦濤前主席の抜擢によるとされる。(編集担当:如月隼人)
文化大革命のきっかけは、毛沢東が主導して経済を大混乱させ、2000万-5000万人の餓死者を出したとされる大躍進政策(1958-61年)だ。毛沢東は責任を取り国家主席を辞職(共産党主席、中央軍事委員会は留任した)。経済の立て直しに尽力したのは、後を次いで国家主席に就任した劉少奇と共産党中央書記処総書記だったトウ小平だった。
劉少奇は失脚し、監禁され日常的に暴行を受けた。発病したため病院に移送されたが、医療スタッフにも暴行されたという。
劉源大将は父親の失脚により、10代半ばで山西省に下放された。農作業や工場労働に従事した後、文革終了後の1977年に北京師範大学歴史科に入学した。その後は、河南省の農村部の県長、同省鄭州市副市長、河南省副省長を経て、武装警察部隊に入隊。同隊副政治委員などを経て、中国人民解放軍に転任し、2003年からは総後勤部副政治委員を務めている。行政官から軍高級幹部との経歴は、かなり異色だ。
劉大将の軍内における「腐敗撲滅」としてまず際られているのがた谷俊山中将との対決だ。劉大将は2011年11月に開かれた中国共産党中央軍事委員会の拡大会議で、谷中将が北京市内で築いた豪邸の「将軍府」の写真を暴露。装備調達や人事関連で巨額の賄賂を受け取ってきたと論じた。
同会議には100人近くが出席しており、谷中将の汚職問題は軍にとって「避けては通れない」懸案となった。劉大将は続けて、徐才厚、郭伯雄、梁光烈三の中央軍事委員会副主席や委員にも問題があると指摘。対決を続けた。
現在までに、谷俊山、徐才厚、郭伯雄については有罪が確定した(徐才厚はその後、病死)。
劉将軍は、解放軍の腐敗は非常に深刻で、「軍の存亡の問題だった」と説明。「私は殺されても(相手をつかんだ)手を離さないつもりだった」などと述べた。一方で、軍首脳部の腐敗を摘発できたことは「習近平主席に胆力や責任感がなかったら、軍を救うことはできなかった」と、当時の習主席の決断を称讃した。
なお、2012年には劉大将の乗る車が高速道路で炎上したり(運転手は死亡)、ホテルの部屋に焼夷弾が投げ込まれる、銃撃される、浴室がガス爆発するなど、暗殺未遂事件が連続して発生したとされる。
習主席も劉大将も、父親が党の最高指導層にいたため、いわゆる「太子党」に分類されることがある。しかし、この2人が違っているのは、地方の末端に近い行政組織からキャリアをスタートさせたことだ。周囲の引立てで順調な人生を歩むことが多い「太子党」の中では珍しい。
習主席は福建省長を務めていた2000年に、取材に対して「あの自分、北京から地方に行った人としては、劉源と私がいる。だから私たちは語らずとも阿吽の呼吸だ。労働者や農民と結びついた道を歩まねばならないと分かっている。社会の底辺の群衆に近いということは、人を最も磨いてくれることです」と述べたという。
なお、劉源大将の現在の地位は、胡錦濤前主席の抜擢によるとされる。(編集担当:如月隼人)