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松本市は、長野市から車で1時間少し。それほど離れてはいないのだが、街の空気はかなり違う。西郊に日本アルプスが壁のように立ちはだかり、町には清新の空気が流れる。松本城が名高いが、むしろ町は近代建築に象徴される、学問の府という印象だ。北杜夫も学んだ旧制松本高校に隣接する松商学園高校は、春夏通じて甲子園出場50回。史上最多である。長野県の野球は、松商学園がリードした。

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松商学園からは、20人がプロ野球入りしている。最初の一人は繁原(旧姓矢島)粂安。報知新聞蛭間豊章記者が紹介しておられるが、この選手は1926年選抜大会の松本商業対高松商業戦で、同点から「サヨナラランニング3ラン」を放っている。主催者毎日新聞が全力疾走で走った矢島をたたえて、ルールを無視して本塁打に認めたというもの。俊足の外野手だった。早稲田大学、清水建設を出て大日本野球倶楽部(後の巨人)に入り、背番号2をつけたが、プロ野球が始まる前に退団。のち戦死している。
北原昇、高野百介、平林栄治も戦火に散った。

中島治康は1928年夏の甲子園の優勝投手。1938年秋に10本塁打、38打点、.361で日本初の三冠王に輝いている。固め打ちの名手。また悪球打ちでも知られた。1963年野球殿堂入り。

手塚明治、土屋亨は、ともに三塁手として活躍。

吉沢岳夫は中日の正捕手だったが不慮の事故で死亡した。

投手では50年代、60年代前半の巨人の先発投手だった堀内庄(あつし)がいる。堀内恒夫と混同されることも多いが、コントロールが良く、安定感のある投手だった。コーチとしても活躍したが一昨年物故。

木次文夫は、王貞治を語るときにしばしば引き合いに出される選手。松商学園から早稲田を出て巨人に大型一塁手として入団するが、これに刺激を受けた王貞治が奮起したというものだ。木次も40歳で急死している。

三沢今朝治は、駒澤大学から東映に。代打の切り札として活躍したが、引退後はスカウト、日本ハムの取締役を経て今は信濃グランセローズの社長である。

上田佳範は投手から転向。レギュラーだった期間は短いが、シュアな打撃と強肩を活かした外野守備の名手として鳴らした。地味だが、きびきびとした野球センスに満ち溢れた選手だった。

今も信濃グランセローズで活躍する竜太郎は、大阪の生まれだが上田佳範にあこがれて、松商学園に進んだという。

現在、現役選手は深江真登だけ。関西独立リーグの明石を経てオリックスに入団した。この選手も長野県外の神奈川県出身だ。

こうしてみると、派手な活躍をしたのは中島治康のみ。あとは地味で、渋い選手が多い。肩や足、守備など一芸に秀でた職人肌が多い。これも長野県気質と言えようか。

松本市の他の高校出身のプロ野球選手は明日に譲る。