東北が津波に飲まれてしばらくたった頃、有名人たちは続々、被災者支援の声を上げ、現地に赴いた。炊き出し、物資供給、歌、コント、復旧作業・・・・。もちろん被災地復興を願っての善意の行動なのだが、それを受ける人々にとっては、全てがありがたいものとは限らなかったようで─。



「出て行け」と言われた石原軍団
 事務所倉庫には、餅つき器や3000人分の御飯が炊ける炊飯器を所有。炊き出しといえば・・・・のイメージが定着しているのは、石原軍団である。

 95年の阪神淡路大震災では焼きそばをふるまい、東日本大震災でもトラック28台で宮城県石巻市へ乗り込んで、4月14日から1週間、カレーや焼きそばなど1万4000食の大々的な炊き出しを行った。

 渡哲也(70)、舘ひろし(61)、神田正輝(61)、徳重聡(33)ら俳優陣に加え、上戸彩(26)が飛び入り参加。スタッフと関係者を合わせて総勢80人という大所帯である。ワイドショーも「大盛況」と絶賛するお祭り騒ぎとなったが、現場では罵声が飛び交っていた。

「会場の石巻市中央公民館周辺で大渋滞に巻き込まれました。何台もの車が盛んにクラクションを鳴らしていたんです。石原軍団が引き起こしたものでした」

 こう回想するのは、当時、取材で石巻入りしていたジャーナリストである。

「道路の真ん中で、巻き髪にサングラス、小ぎれいな格好をしたオバサンが携帯電話で何やらしゃべっていた。明らかに被災者とは違いました。そういう人たちが道路にあふれ、渋滞の原因となっていたんです」

 石原軍団の追っかけファンが、あちこちから大挙して押し寄せたのである。

 この大渋滞で、県外からやって来た車に当てられて地元民の車体がへこみ、トラブルになったケースも。事故の被害者が加害者に「何しに来たんだ?」と聞くと、「石原軍団を見物に来た」と答えたという。

 初日、炊き出しは昼と夜の2回行われた。地元商店街の店主が憤る。

「復興作業員を乗せた車が足止めされ、『俺たちは後回しかよ』と。警察、消防、救急などの緊急要請があったらどうなるのか、とも思いましたね。実際、怒った消防団が『津波が来たらどうするのか。出て行ってくれ』と石原軍団に通告したところ、『もう(マスコミに)プロモーションをかけてるし、何とかやらせてほしい』と泣きついてきた。結局、昼1回だけになったよ」

 石原軍団は、みずからの宣伝活動に利用したいだけだったのか!?

 炊き出し期間中、工事車両が駐車できない商店街では工事が遅れ、通るはずだった電気が通らず。自衛隊や運送業者も満足に物資を届けることはできなかった。ある意味、迷惑軍団と化していたのである。

 そもそも軍団は、最初から招かれざる客だった。地元飲食店従業員は渋い顔だ。

「石原プロはまず、日本製紙石巻工場の空き地を使わせてほしいと要請し、『ガレキが残っていてそれどころじゃない』と断られています。次に、石巻市総合運動公園を指定すると、自衛隊の物資運搬拠点となっていて断られた。さらに、石巻中学校と門脇中学校のグラウンドを貸してほしいとの打診も拒否され、最後に中央公民館に連絡したわけですが、実はこれも断っていたんです」

 ところが後日、市からのトップダウンで「使わせてやってくれ」との通達が。

「石原プロが市に何かの圧力をかけたんじゃ・・・・と勘ぐる人もいますねぇ」(前出・地元商店街店主)

 喜々として食料をふるまう上戸と石原軍団をよそに不満を爆発させる被災者。

「炊き出しは朝5時から整理券を配りましたが、私らはそんな時間から並べない。並んでいたのは他県ナンバーの車で来た人ばかりでした。キャベツを切ったり、天ぷらを揚げたりと、自分たちの家の片づけを切り上げて調理を手伝った被災女性たちも『食べられなかった』『何のためにやったのか』と嘆いていましたね。とにかく大ヒンシュクを買ったのは事実です」(交通整理に関わった地元住民)

 こうした真実の声に、上戸と石原軍団は背を向けていたのである。