低レベルといえば低レベル。面白いといえば面白い。シリア戦の敗戦はいただけないが、予選ならではのスリルが味わえることになったかと思うと、心底怒りは湧いてこない。五輪男子チームは、サッカーのエンターテインメント性を引き出してくれた。そうした見方は確実にできる。

だが必ずしも、世の中がこちらの期待通りに進んでいるわけではない。僕の言う娯楽性には、下世話な面も含まれている。ワイワイガヤガヤ。文句や批判、(怪我人を出さない程度の)騒動も娯楽性の範疇に入る。「●●やめろ!」は、それを象徴するものになる。

一番つまらないのは順当勝ち。サッカーの中身がよければ、後に控える強敵との対戦に期待が持てるが、褒められない内容で普通に勝ってしまうと取り付く島はなくなる。アジア枠が4.5もあるW杯予選にありがちな現象だ。

ジーコジャパン、岡田ジャパンともに、W杯予選は限りなく非娯楽的だった。岡田ジャパンは、W杯直前になってドタバタし、非娯楽性的だった予選のストレスはいくらか解消されたが、関塚ジャパンはといえば、予選が「娯楽的」であるにもかかわらず、イマイチ盛り上がらない。「やめろ!」なんて話は一切聞かれない。表だった騒ぎにはまるでなっていない。宮市、香川、宇佐美を招集しろ。聞こえてくるのはその程度だ。

とりわけサッカー系のメディアに元気がない。何かを言い出すパワーがない。最も大衆的なテレビが追いかけるのは、もっぱら女子サッカー。男子サッカーなど、どうでもいいムードにある。

そちらを追いかけた方が商売になるから。視聴率が見込めるから。それは確かな事実だと思うが、理由はそれだけではないと思う。五輪の男子サッカーに、真の魅力が感じられないからではないだろうか。

何のかんのと言っても、所詮はU―23の大会だ。オーバーエイジを使う、使わないが、その国の判断に委ねられるとか、競技規定にも格式がない。女子と比べ、真剣度が低いことは明白。五輪の男子サッカーが抱える根本的な問題が、いま詳らかになった感じだ。関塚ジャパンへの関心の低さとそれは深い関係にあると僕は見る。

五輪の男子サッカーを、他の国々はとうの昔からそんな調子で眺めている。五輪を重要なイベントだとは見ている国は少ない。欧州は特にその傾向が強い。

中田英がローマを離れ2000年のシドニー五輪に出場することを知ったイタリア人記者は、こう言って目を丸くしたものだ。「なぜそんなレベルの低い大会にわざわざ出場するのか。その間にローマでポジションを奪われたらどうするのか」と、真剣に驚いていた。

日本のサッカーは、長い間、メキシコ五輪で獲得した銅メダルを拠り所に、活動を続けてきた、あの栄光をもう一度。それが最大の動機だった。まず五輪。五輪に出場すれば、W杯への道は自ずと開ける、強化もその考えに基づいていた。

96年アトランタ五輪で、その念願はようやく叶い、そして以後、本大会に連続して出場しているわけだが、W杯出場が当たり前の時代になっても五輪への憧憬は続いた。アイデンティティを守ってきた。日本人の五輪好きも後押しした。五輪予選には、W杯予選に迫る訴求力があった。いくら相手が弱くても、スタジアムはそれなりに埋まった。視聴率も悪くなかった。予選は興行的にもうま味のあるイベントだった。
 
記憶に残るのは1999年7月。国立競技場で行われたシドニー五輪予選対フィリピン戦だ。日本はその1か月前、フィリピンに対してアウェーで13―0の勝利を収めていた。力の差は明らかだった。高校生が出場しても勝てそうなくらいフィリピンのレベルは低かった。

観客の入りを心配したのか、視聴率の低下を心配したのか、サッカー協会はその試合に、コパアメリカ(パラグアイ大会)に出場するA代表のメンバーだった小野と柳沢を、わざわざ出場させたのだ。いまにも成田を発とうとしていた彼らを急遽、合流させたのだ。