■“増資以前”を知る2人がクラブを去る
小野智吉と早川知伸が今季限りでの引退を決意した。小野は02年から、早川は03年から横浜FCでプレー。長年にわたり、横浜FCを引っ張ってきた古参コンビだ。来季は05年7月から在籍する三浦知良が最古参となるが、三浦知は、05年6月に行われた第三者割当増資をレオックジャパン社の子会社フィートエンターテインメント社が引き受け、クラブの経営規模が拡大したとともにチームにやってきた。つまり、来季からはついに“増資以前”の横浜FCを知る選手がいなくなるのである。

“増資以前”の横浜FCの環境は苛酷なものだった。毎日練習場を転々とするのは当たり前。練習場にシャワーや更衣室がないこともしょっちゅうで、練習後、水道水で行水し、車の影で着替える姿をよく目にしたものである。ただ、そうした恵まれない環境の中で横浜FCの選手たちはハングリー精神を養っていった。

「横浜FCらしい選手を獲ることができた」。02年シーズン前、当時の強化担当・田部和良氏(現FC琉球GM)が笑顔を見せながら連れてきたのが、内田智也(現大宮)だ。内田は高校を卒業したばかりで、まだあどけなさを残していたが、「すごく素直な性格」(足達勇輔元監督)で、なおかつ純粋にサッカーを愛する気持ちを持っており、どんな練習でも必死に取り組む姿勢を見せていた。

それは内田だけでなく、北村知隆(現山形)、吉武剛(現オースティン/アメリカ)といった高卒選手や1年の浪人期間を経てテスト生としてチームに加入した臼井幸平(現湘南)、小野智吉らも同じ。限られた強化費の中、補強に頼るのではなく、若く伸びしろがあり、劣悪な環境でも上昇志向を持って意欲的にサッカーに打ち込める選手たちを集めて強化していた。

■横浜FCらしさとは何か
02年末、浦和から戦力外通告を受けた早川は横浜FCの練習を見に来た際に「こんなにひたむきに練習するチームがあるのか」と感銘を受け、加入を決意したという。翌年には早川、菅野孝憲(現柏)、そしてJ2から再起を誓う城彰二が加わり、さらに“横浜FCらしさ”は明確なものとなっていった。

03年は11位、04年は8位、05年は11位と結果は振るわなかった。ただ、それでも若い選手たちが試合経験を積んでいったことでチームは着実に力をつけていった。そして06年、念願のJ1昇格を果たすこととなる。“増資”によって経営面が強化されたことで万全な補強が出来たことや高木琢也監督の卓越した手腕があったからこその快挙だが、長年積み上げてきたベースがあったことを忘れてはいけない。J1昇格は、長い時間かけて培ってきた“横浜FCらしさ”の結実であったと言っても過言でない。

ただ、昇格とともに“らしさ”は燃え尽きてしまった。キャプテンとしてチームを引っ張ってきた城が引退、北村や吉武も戦力外となり、チームを離れることに。さらに翌年、J2降格とともに内田と菅野が移籍。横浜FCを支えてきた選手たちは、次々と姿を消していった。

そして、“増資以後”、クラブは選手を育てるよりも補強に頼るチーム作りをしたため、それまでの“らしさ”を継続することも、新たな“らしさ”を打ち出すこともできず、08年、09年と横浜FCは下位に沈んだ。クラブハウスと練習場があり、サッカーをするには何不自由ない環境が整った中での低迷。その中で早川と小野がかつての“らしさ”を取り戻そうと四苦八苦する日々が続いたが、努力は実らなかった。

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■著者プロフィール
佐藤拓也

1977年生まれ。北海道生まれ、横浜育ち。日本ジャーナリスト専門学校卒業後、フリーランスのライターとして活動を開始。その後、「EL GOLAZO」や「J’sGOAL」、「週刊サッカーダイジェスト」「週刊サッカーマガジン」「スポーツナビ」などサッカー専門媒体に執筆。現在はJ2を中心に様々なカテゴリーを取材して回っている。

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